服部長七と愛知の人造石遺構
 
天野武弘

本稿は、「平成14年度第1回愛知県史を語る会」於:刈谷市中央図書館(2002.9.7)での講演用レジュメ。


1 人造石とは
 
 人造石とは、在来の左官技術の一つであるたたきの技術を、大規模な土木工事等に改良したものである。在来のたたきは、敲、叩、三和土とも書き、消石灰と真砂(風化花崗岩が土壌化したもの、サバ土ともいう)を混ぜて水で練ってたたき固めたもので、土間や床下、井戸側(井筒)、流し、泉水など、湿気防止や水密性を要するところに広く使われた。明治になって新田開発、築港など近代的な基盤整備がすすめられていく中で、これらの大規模土木工事に人造石を応用し、人造石工法として全国各地に普及させたのが碧南出身の服部長七であった。
 人造石工法は明治10年代から30年代にかけ、鉄筋コンクリート工法が普及する過渡期において、全国各地の築港、干拓堤防などの土木工事に採用された。とくにこの時代には独占的にというほど多くの人造石工事が服部長七(服部組)によって行われた。人造石工法は鉄筋コンクリート工法が普及するにしたがい次第に廃れていくが、昭和初期ころまでは大規模工事にも採用されている。
 愛知県をはじめとする東海地域は、服部長七の地元ということもあって人造石工法による土木工事が数多く施工されている。現在もその構造物が残る代表的なところとして、名古屋港護岸、高浜の服部新田とその周辺、豊橋の神野新田干拓堤防と牟呂用水樋門、明治用水旧頭首工、庄内用水元杁樋、四日市旧港堤防、岐阜県穂積町の五六閘門などがある。
 
2 人造石工法の考案者服部長七
 
(1) 服部長七の事績
天保11(1840)年:碧海郡棚尾村西山(現・碧南市新川)で左官の三男として生まれる。
安政3(1856)年:新川で流行豆腐開業。翌年桑名の左官屋の弟子になる。翌年新川に帰り左官業を営む。
元治元(1864)年:桑名で酒醸造業を営む。
明治4(1871)年:桑名で虎屋饅頭店開業。翌年新川に帰り酢醸造業営む。
明治6(1873)年:上京、日本橋南伝馬町で虎屋饅頭店を開く。
         饅頭に使う上水の濁りを除くための濾過設備を研究試行中にたたきの有効性を思いつく。たたき屋になるきっかけとなる。
明治7(1874)年:たたき屋となり、宮内省学問所土間のたたき工事を契機に、赤坂、青山の御所、大久保利通邸、木戸孝允邸などのたたき工事で信用を得る。
明治9(1876)年:日本橋三浦邸たたき工事の際、長七たたき(のち人造石と呼ぶ)考案。
         警視庁内の深堀の井戸側、千住製絨所の用水井戸、新橋停車所運前の泉水池などを工事
明治10(1877)年:第一回内国勧業博覧会の会場土間や会場入り口の泉水池をたたきで工事。泉水池工事で品川弥二郎(のち子爵、内相)の知遇を得る。
明治11(1878)年:岡崎板屋町の夫婦橋築造(人造石を本格的土木工事に応用した最初)
明治14(1881)年:第二回内国勧業博覧会で、長七たたきを人造石と呼ぶようになる。会場内のたたき工事を一手に請け負っていた長七の工事を見た農商務省のお雇い外人から、「この人造石は何で作ってあるか」と問われたことがはじまり。
 以後、長七は明治37年(1904)に事業から手を引くまでに全国各地で工事を行った。 晩年は、岡崎の岩津天満宮再興のため明治33年(1900)から崇敬人代表となっていた岩津天神山に隠棲し、大正8年(1919)に80才で生涯を閉じる。この間、その功績により各地、各界より感謝状、褒章などを数多く受ける。

服部長七による主な人造石工事(○印は愛知県内)。
  ○岡崎の夫婦橋架橋(明治11年)
   千葉県富津村陸軍台場基礎(明治11年)
   東京・富士見町の水道工事(明治12年)
  ○高浜の服部新田干拓堤防(明治15〜18年)
   岡山県吉備開墾社の新田築堤(明治15年)
   佐賀県開墾社の新田築堤の指導(明治16年)
   広島県の宇品新開、築港(明治17〜22年)
   愛媛県大可賀新田護岸・三津浜波止場築堤(明治19年)
   広島県佐伯郡末広新田(明治22年)
   鳥取県賀露港突堤(明治23年)
   御料局佐渡相川港護岸(明治23〜24年)
  ○御料局名古屋白鳥貯木場樋門(明治25年)
   御料局生野銀山貯水池工事(明治25)
   四日市港堤防(明治26〜27年)
  ○豊橋の神野新田干拓堤防(明治26〜28年)
   播但鉄道線路第2、第7工区土木工事(明治27年)
  ○新城、豊橋の牟呂用水樋門(明治27年)
   台湾其隆、淡水両港改築工事設計、淡水水道工事設計(明治28年)
   神奈川・若松海岸埋め立て工事(明治29年)
   神奈川・浦賀の館浦防波堤(明治30年)
  ○大府の砂川樋門、石箇瀬川樋門(明治30年)
  ○名古屋築港(明治31〜37年)
  ○明治用水の頭首工や樋門(明治33〜34年)
  ○服部発電所樋門、水路(明治32年)
  ○明治用水葭池樋門(明治33年)
  ○愛知県内150カ所余の樋管等の工事(明治34〜36年度):文末の表3に示す

褒賞、褒章など
   明治10年:第1回内国勧業博覧会に、石暖炉、拍作土器、日本シマン敲用雛形を出品し鳳紋賞牌を受ける。
   明治14年:第2回内国勧業博覧会に、擬碑、貯水瓶を出品し有功賞牌および、濾水器模型を出品し褒状を受ける。
   明治18年:パリ万国博覧会に人造石(厚1寸5分、幅1尺角)と原料および解説書を出品し、銅牌を受ける。
   明治20年:東京府工芸品共進会に円形井筒を出品し褒賞を受ける。
   明治26年:奈良博覧会に足温器を出品し謝状を受ける。
   明治27年:御料局佐渡支庁長工学博士渡辺渡より、佐渡鉱山の潜水提、沈殿地等多数を人造石で改造したことによる

感謝の書状
   明治30年:緑綬褒章を受ける。

特許、登録商標
   明治24年2月13日:「人造石」登録商標
   明治27年9月14日:「波避(なみよけ)装置」特許
   明治32年12月1日:「足温器」特許
 
(2)岡崎夫婦橋架橋から服部新田干拓堤防工事へ
 人造石工法を規模の大きな土木工事に最初に応用したのが岡崎の夫婦橋であった。岡崎板屋町の旧東海道にかかる橋の架け替えを、ときの愛知県令安場保和に願い出た。県土木課では難色を示したが、長七は木橋施行との比較を綿密に出し人造石の有利さを二度三度と説明した。直接話を聞いた県令はその熱意に感じて許可するよう指令した。2ヶ月かけて長さ20間(36m)、幅3間半(6.3m)の橋をすべて人造石で架橋。本邦最初の人造石橋となる。開通直後に明治天皇巡幸の先発として通行した宮内省吏員から技術の巧みであることを嘆賞される。
 服部長七は人造石を本格的な土木工事に用いるため、試行的に工事したのが高浜の服部新田の干拓堤防であった。服部新田の地(当初は高浜村、吉浜村地先という)はすでに天保のころから新田開発がされていたが、度重なる風水害によって荒れ地となっていた。服部長七は、荒れ地20町歩(6万坪、20万u)を買い入れ、明治15年(1882)11月に国貞県令の許可を受け着工、長さ800間(1440m)の堤防を人造石工法で築き明治18年(1885)3月に竣工式をあげた。この事業では知多郡小鈴谷の盛田久左衛門、半田の中埜又左右衛門、東京の久次米銀行(品川弥二郎の依頼により)ほかの資金援助を受けている。
 
(3)広島宇品新開、築港で信用を得る
 服部新田の成功によって人造石工法に確信をつかんだ服部長七が、次に取り組んだのが広島の宇品新開、築港であった。
 広島県令の千田貞暁は宇品築港に際してお雇い工師ムルデルに工事計画を依頼した。ところが算定された工費が予算をオーバーし思案中に、岡山の吉備開墾社の人造石堤防が優秀との情報があり、服部長七が招聘された。詳細に調査した長七の計画書が内務省にも認められ、明治17年(1884)9月に起工となった。当初は長七の工事に反対するものも相当あり、樋門破壊などの妨害もあったが、着工以来5年余の歳月を経て明治22年(1889)12月に竣工した。
 宇品の築港、新田開発はその規模の大きさから注視の的でもあったことから、人造石による成功は、この工法の信頼性を大いに高めた。この後、長七の事績のところで記したように、鳥取賀露港、佐渡大間港、四日市港、豊橋神野新田、名古屋築港などその地方で歴史に残る大工事を成し遂げて行くことになる。
 宇品築港の成功を範としたその一例に名古屋築港工事がある。
 名古屋築港の最初の工事として長い突堤が計画される。ここに人造石工法採用のきっかけは主にコスト面からであったが、人造石の堅牢さにも信頼性が要求された。そのことを示すものとして、服部長七が宇品築港で施工した人造石工法を検査した田辺土木局技師の視察復命書写『宇品築港工事実地検査復命』(明治19年10月21日付)がある。
 そこには、種土(真砂)に夾雑物があり強度面でセメントの代用にはならないとしつつも、一週間ほどの日数をすぎれば 
 「煉瓦石ト同一位ノ硬度ヲ有スルナリ」
 「費用大ナラズシテ斯ル堅硬ノ石造ヲ得ル点ニ好結果ト云ハザルヲ得ズ」とある。
 また、『人造石に関する疑義並に回答』という文書が名古屋港管理組合に所蔵されているが、これは明治17年(1884)2月6日に広島区長栗原幹氏が、宇品築港工事に際して質問したことに対する広島県地質課長一等属鈴木得之氏が回答したものである。質問は十点に及んでいる。人造石の強度に関してみると、
 気候の影響について、
 「寒気ニ触ルルモ中心ハ早ク既ニ結合シテ寒気ノ透入ヲ防グガ故ニ決シテ破壊スルノ憂イナシ」
 暴風雨激浪に対して、
 「人造石堤ハ全堤一面ノ堅石トナルモノナレバ石等破壊ノ原因タル誘導ヲ受ケザルガ故ニ其ノ恐レナキモノナリ」
 既設の人造石の保存状況や修繕については、岡崎の長さ20間(36m)の夫婦橋、高浜の新田堤防長800間(1454m)、備前の呼松村新開堤防長400間(727m)などをあげ
 「未ダ破壊セル事ヲ聞カザレバ」…「未ダ修繕ヲ施シタルコトナシト云エリ」
と回答している。
 いずれの文書も名古屋築港時に、人造石工法を調査するために愛知県の関係者が一部を書き写したものと思われるが、この文書からも、明治22年(1889)に大規模工事を完成させた宇品新開、築港の工事は、もっとも頼れる事例であったことを示している。
 
(4)名古屋築港と人造石
 名古屋港(当時は熱田港)の築港が決まったのは明治29年(1896)2月である。この時点では人造石による計画はなく、突堤や埋め立て地護岸工事に人造石工法が採用されたのは、明治31年(1898)の計画変更によってであった。
 最初の築港工事となる突堤は、当初は庄内川河口から南にまっすぐ延びる西防波堤だけであった。計画変更ではこれに加えて天白川の河口から西に向かい途中で南に折れる東防波堤を盛り込んだ。港の規模拡大が目的で、これによって港内水面積は初期の46万余坪から6倍近い263万坪に拡大することになった。
 しかし工費の増額は、県議会で反対があり、浮上してきたのが服部長七の人造石工法であった。工事方法の変更によって工費の削減をはかることになった。
 予算書における第一期工事の工事費の違いを西防波堤でみると、
   当初予算(石積み):56万4000円
   変更予算(人造石):45万6000円…10万円余の削減
 また、埋め立て地間の運河の護岸
   当初予算(板柵) :11万9000円
   変更予算(人造石):10万8000円…約1万円余の削減
 この設計変更は明治31年(1898)6月10日付けで板垣内務大臣に稟申され、東西堤防の人造石工事は、明治33年から着工された。これによって港としての基盤が造られ、明治40年(1907)に開港となる。熱田港が名古屋港と改称されたのは開港直前の明治40年10月である。
 名古屋港でこのように人造石工法が採用された理由として、工法の信頼性ももちろん検討されるが、以上見るようにコスト面が大きなウエイトを占めていた。この点は先の宇品築港の場合も同じであった。明治30年頃になってもコンクリート工法が広く普及しなかった理由として、当時セメントは主として輸入品で価格が高く、工事費も必然的に高いものになったことと、国産セメントは生産量が少なく品質に不安もあったことによる。セメントが広く普及し始めるのは明治36年(1903)に回転窯が導入され、国産セメントの品質が安定してからであった。人造石工法はこのような時代にあって、セメントにも匹敵する強さを持った工法としてコスト面など普及する要件を備えていた。
 
(5)服部長七の人柄と工事
 人造石工事では、とくに築港工事のように規模が大きくなればなるほど多くの工夫を必要とした。たとえば、神野新田の堤防の基礎工事では干潮期を選んで短時間に施行しなければならないことから、この期間には近郷近在の老若男女の労力を得て、1日最低2000人、平均1日5000名が働いたといわれる。宇品築港でものべ百余万人が作業に従事したといわれる。また人造石の種土となる真砂(サバ土)は近在から求めることを基本としたが、神野新田工事では、15町(1.6km)ほどの比較的近いところから小舟で運搬した。その小舟は近村各地から集められ、海を覆い尽くすほどの壮観であったといわれる。
 また、人造石工法では練り土を締め木でたたき締める作業が不可欠であり、工事では人海戦術がつねに採られた。
 そのため人造石工事は、工事を統率できる人格ある請負業者が不可欠であった。服部長七はその資質を備えた人物であった。これも先の文書と同じく名古屋築港時に書き写したものと思われる文書『服部長七氏』には、長七が信頼できる人物であることを次のように述べている。
 「資性篤実品行方正で気概があり常に意を公益に注ぎ慈悲心が深い」
 服部長七は宇品築港や神野新田工事で品川弥二郎子爵に援助や紹介を受けるなど、たたき工事を始めた初期のころから中央政財界とのつながりをもったこともあるが、自ら開発した人造石工法をもってコスト面と堅牢さをクリアしたことが人造石工法の信頼を高め相乗的に人望を集め、数多くの工事依頼を受けたものと考えられる。服部長七の服部組の事業は発展を続け、明治30年ころには全国に数十カ所の支店を持っていたといわれる。
 このように、人造石工事では、コスト面、工法の信頼性、あわせて請負人の資質が要求されるという独特な面を含んでいた。
 しかし、服部長七の国家社会のためという国士的な性格から、工事請負では採算を度外視した工事を請け負うことが多く、また時代はセメントの普及とともに人造石工法の特徴でもある人海戦術は人件費の高騰にもつながり、服部長七の服部組は経営的には厳しい状況であったといわれる。たとえば名古屋築港工事では、明治31年の工事入札の際、築港の困難さに比べ利益の伴わないことに全国の土建業者は尻込みし、深野愛知県知事の懇願によって服部長七が請け負い、結果的に100万円の損失が出たという逸話が残っている。
 服部長七は、明治37年(1904)に一切の事業から手を引き、その後は岡崎の岩津天満宮に隠棲し、大正8年(1919)に80歳の生涯を閉じている。
 
3 人造石工法の特徴
 
(1)形態に見る人造石構造物−人造石の見方−
 人造石かどうかを判断する方法として、飯塚一雄氏が研究した次の三つの種類から見るのがわかりやすい。
@ たたき材料(練り土)だけで躯体を形成する。
 在来の左官技法であるたたきの延長線にある作り方である。たとえば井戸側や石碑の台座、牟呂用水の最終樋管にある橋の欄干、服部発電所の水路など比較的小規模で水圧の余りかからないところの構造物に用いられる。例外的に岡崎の夫婦橋もおそらくこの方法によったものと思われる。
A 構造物の表層だけを人造石による張石構造とする
 大規模な堤防などに用いられた方法で、土砂を充填した提体の外側をたたきで形成し、表層には天然石や割石をたたき(練り土)の中に張り込むというもの。一見石垣のように見えるが、張り込んだ石は接触しておらずたたきの中に浮いているように造られる。このため、水密性のある強固な構築物が造られた。また波を緩衝させる曲線断面の構築も比較的容易であった。この独特の外観が人造石工法を特徴づけるものとなっている。
 この方法によって、宇品新開、築港、神野新田の干拓堤防、名古屋築港など多くの工事が行われた。
B 提体等の内部をたたきで充填し、その表層をたたき練土と天然石の張石層で保護する
 提体など構造物の全体をたたきで構築し張り石もしたもっとも強固な方法である。たとえば明治用水の頭首工のように、激しい水流にも耐えうる強度が要されるところの構造物に適用された。
 
 このうちA、Bの形態でつくられた人造石構造物はたいへん強固で、難工事とされた神野新田干拓堤防や明治用水頭首工の工事、宇品港や三津港、外洋に面した佐渡大間港や鳥取賀露港などの築堤や護岸工事などを完成させている。
 人造石構造物については、とくにAの形態がもっとも多く見られる。その人造石と通常の石垣との違いを判断する目安としては、石の張り具合を見ることである。Aにもあるように、張り込んだ石と石が接してないかどうかで判断できる。ただ目地はこんにちではほとんどがセメントモルタルで補修されているため、一見すると普通の石垣と見間違えることがある。目地に練り土があれば有力な判断材料になる。
 
(2)工法には謎が多い−愛知県の研究−
 人造石工法については、原料の配合比、施工法などを記した資料がきわめて少ない。人造石の考案者でかつ独占的に近いかたちで施工した服部長七の経験に依拠した工法であることから、結果的に研究者が少なく、未解明となっているところが多い。
 その中で、奥田助七郎著『名古屋築港史』(昭和28年)には、人造石工法について愛知県が独自に調査し、工事の標準化を図ったとされる内容が記載されている。その主要な点を拾い上げてみる。
・服部長七(服部組)は人造石を独占的に施行し、工法は漏れないようにした。
・名古屋築港の初期のころは服部長七に請け負わせたが、それ以後(明治38年以後)は人造石工法を研究した結果ほとんど愛知県の直営工事で施工した。
・県下の土木工事は大正7〜8年頃からもっぱらセメントコンクリート使用の趨勢となり、人造石の使用は大正10年を最後にほとんどその跡を絶った。(注:名古屋築港では昭和10年ころまで人造石工法が施行されている)
・人造石工法は、種土は地域によって均一ではないので、石灰の割合も一定に出来ない。大体の標準は、人造石では石灰:種土=1:8〜15が用いられる。
・練り土(種土と石灰に水を加え練ったもの)は、十分たたき締めたとき表面に水がしみ出す程度がよい。
・練り土では海水を用いることが少なくない。実験の結果、人造石を海水中に使用する場合は海水で練った方がよい。
・人造石の築造方法は、練り土の厚さおよそ1寸(約3cm)ごとに締め木で打ち締め、水分がしみ出したら次の練り土を蒔き足して同様に打ち締める。
・割石相互の間に充填する練り土の厚さは、2寸以上3寸位とし、石と石を接触してはいけない。割石は花崗岩を用いるのがよい。
・人造石の築造は冬季は避ける。
・練り土の効果作用は、消石灰が空気中から炭酸ガスを吸収して炭酸石灰(不溶性の炭酸カルシウム)になるためである。早いものでは24時間で相当硬化する。一般には1週間内外で硬化する。
・人造石の特質として、練り土はセメントコンクリートと遜色がない。
・人造石護岸は潮水進入の憂いがないから、裏込めは直ちに土砂を挿入できる。
・わが国独特の工法を再起活用する意味からきわめて重要。
 
 この研究がいつ行われたかは不明であるが、おそらく服部長七が工事から手を引いた明治38年以降から大正はじめの頃ではないかと思われる。
 また、近年INXと共同で人造石を研究した大橋公雄氏の報告(「人造石(たたき)工法とその遺構」『産業遺産研究』5号、1998年)によると、練り土の化学分析から、たたきと認められる範囲は生石灰CaOの含有量が約4%以上、可溶性の珪酸SiO2 が約30%以上あればよいとしている。また硬化日数についてはたたきは4ヶ月以内には安定するとしている。
 
4 服部組「工事一覧表」に見る人造石工事
 
 愛知県ではすでに明治29年(1896)から人造石構造物を試験的に築いて研究を始めていることが明治30年11月6日付の扶桑新聞に記されている。それを要約すると、「県下12カ所に人造石樋を築き好成績を上げている。葉栗郡木曽川筋に施したものは水害に一つも損害なし」と記し、さらに「当局者は今回の県会に木製樋管を人造石樋管に変更する議案を出した。したがって今後続々人造石樋管に変更する請求が出ることが予想されるため、市町村の補助割合を従来の7分3分から31年度から6分4分に変更する議案をだす。」という記事である。人造石工法について、愛知県は早くから注目しその工法の有効性を認識し始めていたことがわかる。名古屋築港計画という大事業が目前に控えていたこともあると思われるが、一方で県内各地では新田開発が進み、人造石はなくてはならない工事としてしだいに採用されていくことになる。
 服部長七が明治37年(1904)に人造石工事から手を引き、隠棲した岡崎の岩津天満宮には長七が残した遺品が数多く残されている。その中に服部組名古屋支店が行った明治34年(1901)から36年の3年間の年度別の、服部組名古屋支店工事係が記した「工事一覧表」がある。そこには明治34年の工事が106件(38.5万円)、同35年度が81件(26.0万円)、同36年度が67件(24.7万円)記されている。次第に工事請負数、請負額が減っているのは服部組が解散する直前の様子を現してもいるが、ここで注目するのは、工事別の件数である。3年間の合計で見ても突出しているのは樋管工事172件(67.7%)である。また地域別で見てもその多くが新田開発の地に工事されている。新田には水路が欠かせない施設であり、水路と水路が交わる箇所も相当数あり、樋管はなくてはならない施設である。さきの明治30年の扶桑新聞が報道したとおり、従来の木製樋門(樋管)に変わって人造石樋管が数多く施行された実態をこの「工事一覧表」は示している。
 
表1 明治34年〜36年請負の服部組名古屋支店の「工事一覧表」まとめ
     34年度    35年度    36年度     3年間合計
  件数 請負額(円) 件数 請負額(円) 件数 請負額(円) 件数 請負額(円)  %
熱田築港
樋管・立切工事
護岸工事
その他
  3
 77
 16
 10
102,160
234,073
 40,839
  7,563
  7
 47
 14
 13
 88,026
140,654
 26,830
  4,697
  2
 48
  5
 12
 83,916
 77,300
  5,368
 80,776
 12
172
 35
 35
274,102
452,027
 73,091
 93,036
30.7
50.7
 8.2
10.4
 合計 106 384,689  81 260,207  67 247,360 254 892,256 100
(注)3年分の契約工事リスト254件は表3として文末に掲載

5 愛知県内各地に残る人造石構造物
 
表2 愛知県内に現存する人造石構造物(2002年8月現在・筆者確認のもの)
    名   称  完成年  所在地









10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
51
52
53
54
55
56
57
58
官営愛知紡績所取水口樋門
服部新田干拓堤防(*)
新川洗堰
旧白鳥貯木場樋門(*)
神野新田干拓堤防(*)
円竜寺鐘楼、本堂土台壁(*)
牟呂用水第一樋門(*)
牟呂用水第五樋管(*)
牟呂用水第七樋管(*)
牟呂用水最終樋管(*)
宇利川自在運転樋護岸(*)
岩津発電所取水口水路
砂川樋門(*)
明治用水中井筋服部発電所水路跡(*)
川下発電所護岸
川下発電所水路
明治用水葭池樋門(*)
明治用水旧頭首工跡(*)
名古屋港大手ふ頭西側護岸一部
名古屋港ガーデンふ頭東側護岸一部
明治用水船通し閘門
名古屋港築地ふ頭東・西側護岸一部
盛岡発電所堰堤
庄内用水元杁樋
長篠発電所貯水用堰堤
旧高浜港焙烙土場跡護岸(*)
高浜・春日町民家旧護岸
高浜・旧とせんや旧護岸
高浜・常勝院旧護岸
高浜・神谷儀八商店旧護岸
百々貯木場
名古屋港船見ふ頭閘門護岸一部
名古屋港旧港新橋橋詰め跡
名古屋港空見ふ頭東・西側護岸一部
名古屋港汐止ふ頭東・西側護岸一部
名古屋港潮見橋護岸一部
名古屋港一州町地先護岸一部
名古屋港中川橋付近護岸一部
中川運河河口付近護岸一部
中川口閘門付近護岸
松重閘門付近護岸
堀川口防波堤
堀川口護岸
堀川・正木町護岸
新堀川・熱田下水処理場左岸護岸
新堀川・日ノ出橋右岸護岸
豊橋・元石灰工場井戸側
蒲郡・醸造工場井戸側
滝川のガラ紡績用堰堤
高浜・観音山坂の擁壁
高浜・森弥商店建物土台
高浜・青木町民家擁碧
高浜・二池町民家擁碧
高浜・白蓮寺建物土台壁
高浜・碧海町民家擁碧
高浜・碧海町商店建物土台
高浜・瓦工場井戸側
高浜・碧海町民家井戸側
1879(M12)〜81
1882(M15)〜85
1883(M16)
1892(M25)
1893(M26)〜95
1902(M35)
1894(M27)
1894(M27)
1894(M27)
1894(M27)
1894(M27)
1897(M30)
1897(M30)
1899(M32)
1900(M33)
1900(M33)
1900(M33)
1900(M33)〜01
1903(M36)?
1905(M38)?
1906(M39)
1907(M40)?
1908(M41)
1910(M43)
1992(M45)
M期
M期?
M期?
M期?
M期?
1918(T 7)
1928(S3)?
1932(S 7)
S10年代?
S10年代?
S初期
S初期
S初期
S初期
S初期
S初期
S初期
S初期
S初期
S初期
S初期
S初期?
S初期?
S初期?








岡崎市丸山町
高浜市春日町
名古屋市西区山田町
名古屋市熱田区白鳥町
豊橋市神野新田町
豊橋市神野新田町
新城市一鍬田
豊橋市賀茂町
豊橋市賀茂町
豊橋市牟呂町
新城市八名井
岡崎市日影町
大府市大東町
高浜市春日町
小原村川下
小原村川下
豊田市鴛鴨町
豊田市水源町
名古屋市港区築三町
名古屋市港区入船
豊田市水源町
名古屋市港区千鳥
足助町戸中
名古屋市守山区瀬古
新城市横川
高浜市春日町
高浜市春日町
高浜市青木町
高浜市青木町
高浜市田戸町
豊田市百々町
名古屋市港区船見町
名古屋市港区千鳥
名古屋市港区空見町
名古屋市港区野跡〜汐止町
名古屋市港区潮見町
名古屋市港区一州町
名古屋市港区築三町〜西倉町
名古屋市港区河口町
名古屋市港区中川本町
名古屋市中川区西日置2・山王1
名古屋市港区千鳥
名古屋市港区木場町
名古屋市中区正木町
名古屋市瑞穂区桃園町
名古屋市熱田区花表町
豊橋市牛川町
蒲郡市三谷町
豊田市大内町
高浜市青木町
高浜市青木町
高浜市青木町
高浜市二池町
高浜市八幡町
高浜市碧海町
高浜市碧海町
高浜市春日町
高浜市碧海町
 
 注1)(*)は服部長七の施行または施行と思われるもの
 注2)Mは明治、Tは大正、Sは昭和
 
6 人造石は産業遺産
 
 人造石による工事は、愛知県をとってみても、服部新田、神野新田、名古屋築港、明治用水など永年の懸案であった土木工事を、これによってはじめて完成させるなど地域に与えた影響は大きかった。また全国的にも各地の新田開発、治水、用水、築港など、人造石工法が近代の産業発展に与えた影響は計り知れないものがある。
 現存する人造石構造物は、このように地域や産業の発展に貢献した点で、また土木技術史の観点からも価値ある産業遺産として位置づけられる。人造石で構築された四日市旧港の潮吹き堤防は平成8(1996)年に重要文化財に指定され、庄内用水元杁樋や百々貯木場は市の指定文化財になっている。県内各地に残る人造石構造物は、そのほとんどが明治から昭和初期の産業発展の基盤ともなる工事によってつくられたものであり、まさに地域発展の原点と位置づけられる。その点からも今後さらに増えるものと思われる。
 また、人造石工法に関する史料、服部組に関する文書史料は、その一部が岩津天満宮に保管されているが、とくに服部組の営業や工事に関する史料はほとんど発見されてないのが現状である。したがって岩津天満宮に保管されている史料はきわめて貴重である。とくに長七最初の本格的工事となった夫婦橋の図面および人造石と木橋とを比較した消費計算書は、橋が現存しないだけに技術的な面からはきわめて貴重である。
 各地には、明治34〜36年の服部組「工事一覧表」にあるように、またその前後の年にも相当数の人造石工事がされたと考えられることから、まだ眠っている人造石構造物が数多くあるものと思われる。各地域での発見発掘を期待したいところである。
 鉄筋コンクリート工法全盛の時代にあって、まったく忘れられてきた人造石は、こんにち自然にやさしい工法として一部で見直されようとしている。人造石は歴史を築いた産業遺産として、また見直される工法として、より認識の高まることを期待したいところである。
 
*謝辞
 本報告をまとめるに当たって、多くの方からご協力ご教示をいただいた。ここでは個人名は省かせて頂きおもな団体名だけあげることをお許し頂きたい。岩津天満宮、高浜市かわら美術館、名古屋港管理組合、中部電力矢作川電力センター、明治用水土地改良区、等々。心より感謝申し上げます。

 
*主な参考文献
(1)広島県編『千田知事と宇品港』昭和15年
(2)中村伸『増補セメント代用土』乾元社、昭和20年
(3)奥田助七郎『名古屋築港誌』名古屋港管理組合、昭和28年
(4)中根仙吉『服部長七伝』碧南市史編纂会、昭和30年(復刻版が平成8年に岩津天満宮で発行)
(5)高浜市誌編さん委員会編『高浜市誌 第二巻』高浜市、昭和51年
(6)飯塚一雄「人造石(たたき)工法による明治期土木構造物」『日本の産業遺産』玉川大出版部、1986年
(7)中部産業遺産研究会『シンポジウム・いまたたきを考える−日本の近代を築いた人造石工法−』講演 報告資料集、1991年
(8)大橋公雄「人造石(たたき)工法とその遺構」『産業遺産研究 第5号』中部産業遺産研究会、1998年
(9)天野武弘「名古屋港における人造石工事と現存する人造石構造物」『愛知県史研究 第5号』2001年

*人造石工法の遺構に関する資料(拙著)
(1)『愛知県史 別編 文化財1 建造物・史跡』(A4判、約800頁、2006.3)に愛知県内の人造石遺構(百々貯木場、名古屋港護岸、名古屋港旧貯木場閘室護岸、堀川護岸、中川運河護岸、宮田用水樋門、立田輪中悪水樋門、明治用水旧頭首工、牟呂用水樋門、五箇村川樋門、西奥田樋門ほか)を掲載
(2)『愛知の近代化遺産−愛知県近代化遺産(建造物等)総合調査報告書−』(2005.3)に愛知県内の人造石遺構(名古屋港、明治用水、五箇村川、百々貯木場など)を掲載
(3)天野武弘・早川恭子「愛知県による人造石工事とその産業遺産」『愛知県史研究』第8号、p65〜83(2004.3)
(4)天野武弘「牟呂用水と神野新田」(豊橋歴史探訪)(2003.3)
(5)天野武弘「人造石(たたき)は注目されてよい産業遺産」(2003.3)
(6)天野武弘「服部長七と愛知の人造石遺構」(2002.9)
(7)天野武弘「広島旧宇品新開築港の人造石樋門」(2000.11)
(8)天野武弘「鳥取港(旧賀露港)の人造石遺構」(2000.9)
(9)天野武弘「明治用水旧頭首工と人造石工法」『シンポジウム「いま“たたきを”を考える−日本の近代を築いた人造石工法」講演報告資料集』(1991.3)



Update:2003/10/4、Last update2008/10/19 0000

(中部産業遺産研究会会員)
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