オバー(お志ん:明治39年生まれ))は、今年の6月で100才になった。隊長が住む豊橋市も今年の8月で100周年だった。
100年前の豊橋市の人口は、37,635人で平成17年の11月には、38万人を超えるまでになった。
オバーが生まれる2年前には日露戦争が始まり、2年後には、市内に初めて電話が開通したそうだ。
そういえば、オバーが子どもの頃にお宮様で初めて蓄音機(手動レコードプレーヤーみたいなもの)をみんなで聴いた時には、
「小さな人間があんな小さな箱閉じこめられていて可哀想だ」と思い、泣いてしまったと聞いたことがある。
まぁ、今から考えるとオバーが生きてきた時代は、歴史の教科書に出てくるような時代だったのだ。
明治39年生まれのオバーは、16才で本屋の極道オジー(恭平)のところに嫁に来たが、少なくとも3回は、実家に逃げ帰ったと言っていた。
その都度、連れ戻されたと言うことだったが、3回目に逃げ帰る時、トボトボと歩いていたらお寺の坊さんに呼び止められ
「おしは、このまま家に帰ると死ぬぞ」と言われて泣きながら戻ってしまったそうだ。
ホント、お節介な坊さんもいたものだ。
それ以来、実家に逃げ帰る事もなくなったそうだが、よく最後まであの極道オジーと一緒にいたと思う。
そんなオバーの最初の思い出は、おんぶされていたことだ。
羽織から顔を出すと木枯らしが冷たい時でも、中は、とっても暖かかった思い出がある。
小学校までは、いつも一緒に寝ていたが、その暖かさも覚えている。
ただ、一度小学校1年生くらいの頃、メチャメチャ叱られたこともある。
それは、オバーのお金を盗んだ時のことだ。
ある日、一人でテレビを見ていたら、とっても美味そうなお菓子のCMをやっていた。
いつも“いもりきぼし”や“乾パン”ばかり食べていたので、どうしても食べたくなった。
オバーにお小遣いを貰おうと思ったが、どこを探してもいない。
そうこうするうちに、オバーの財布が机の上に置いてあるのに気づいた。
中をそっと見たらお金が見えた。
隊長は、100円札(この頃はまだお札だった)ではなく、500円札を抜き取って近くの“カクサン”という店屋に走って行った。
このカクサンは、ばあさんとじいさんでやっている小さな駄菓子屋だった。
始めは、目的のお菓子だけを買うつもりであったが、500円も持っていたのでついついいろいろなお菓子を買ってしまった。
いよいよお金を払う段階になって500円札を見たばあさんは、「こんなに大きなお金をってているなんておかしい」と言いだした。
隊長は、ビックリして500円札を取り返すとそのまま逃げてしまった。
500円札だけを握りしめて「どうしようか?」と近くのお寺でずっと考えていた覚えがある。
今考えれば、素直にオバーに返せばよかったのに、後には引けずに途方に暮れていた。
その時、たき火が目に入った。
隊長は、思いあまって500円札をそのたき火の中に放った。
500円札がいろいろな色を出しながら燃えていったのを覚えている。
トボトボと家に帰るとオバーが凄い形相で立っていた。
きっと隊長もやましい顔をしていたのだろう。
オバーは何も言わずに平手打ちをした。
体が飛んでいったのを覚えている。
その晩、隊長は、「おばあちゃんごめんなさい」と書いて枕に置いておいた。
ずっと、寝たふりをしていたのだが、オバーが手紙を読んだ後に抱きしめてくれた時には、涙があふれて止まらなかった。
今思い返すと、きっとカクサンのばあさんがオバーに密告したんだと思う。
本当にお節介な大人が多かった時代の話だ。
でも、子どもが成長するには、とっても良い時代だったと思う。
何故か、平手打ちの痛さは覚えていないが、あの時のオバーの凄く怖い顔と布団の中で泣いたことだけはしっかりと覚えている。
一緒に寝ながら「僕が中学に行くまでは生きていてね」と言っていたのに、今では、隊長が45才、オバーが100才になってしまった。
そして、まだまだ元気いっぱいなのだ。