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報告者  土 井

 2014年5月1日(木)布袋北学習等供用施設にて社楽の会を開催しました 。

 参加者(勤務校)は、土井、奥村先生(岩東小)、早川先生(宮田中)、勝村先生(楽田小)、坪内先生(犬山中)、坪内先生(古西小)、大野先生(犬山中)、高木先生(犬南中)、大薮先生(楽田小)、高橋先生(岩南中)、鈴木先生(扶北中)、大島先生(古北小)の12名でした。
  
土井が提案した資料を紹介します。 

1 沈没船の高校生はなぜ逃げなかったのか?
2 
教務主任会紹介資料 《 校内研究ガイドブック 》 
3 江南市縁の七人の戦国武将 そのT(ブログより)
4 お役立ち資料
5 授業力向上のために(中学校教員用)
6 勉強しよう!
 
 
 沈没船の高校生はなぜ逃げなかったのか?
 韓国の沈没船に乗っていた高校生は、なぜ逃げなかったのでしょう?
 津波が襲った大川小よりも、危険な状況はもっとわかりやすいはずです。
 スキー場へ行くとわかりますが、30度の坂は簡単には登れません。しかし、それまでの時間は十分ありました。
 また、今回は5階部分から多く見つかっています。船が傾いても、下に降りるのは、まだできたはず。逃げようと思えば逃げられたのです。
 
 被害に遭った安山市檀園高校は、名門の進学校で、偏差値レベルは上位に位置しています。
 学校HP http://danwon.hs.kr/ 
 たとえ「部屋に待機」の船内放送があったとしても、逃げる判断はできなかったのでしょうか。安山市は海に面しているので、高校生は船には乗り慣れていると推測できます。
 放送機能は失われましたが、その後も自己判断の時間はありました。
 しかし・・・・
 結果的に、船内放送の指示を守り多くの命を亡くしました。
 高校生に判断力が育っていなかったのだとしたら、何がいけなかったのでしょうか。
 教育に携わる者として、亡くなった人たちのためにも、考えてみたい、そして今後に生かしたいテーマです。

 
 
教務主任会紹介資料 《 校内研究ガイドブック 》
 教務主任会で紹介した校内研修に関する資料です。

奈良県立教育研究所(2012)『育てる 育つ 校内研修 〜校内研修の充実に向けて』

岩手県立総合教育センター(2012)『校内授業研究の進め方ガイドブックV』
 「校内授業研究の進め方ガイドブック」「校内授業研究の進め方ガイドブックU」
 「小・中学校の内研究推進に対する効果的な支援在り方に関する研究」

秋田県立総合教育センター(2008,2009),『授業研究の活性化を図るための研修方法の工夫・改善 − 研修方法の提案・検証・評価を通して−(1年次,2年次)』

大阪市教育センター(2008),『校園内研修(OJT)サポートブック』

岡山県立総合教育センター(2012),『校内研修ガイドブック −参画型研修で学校の活性化−』
        (2013)『校内研修ガイドブックU−校内研修を充実させる「8つの軸」−

香川県教育センター(2009),『「子どもの視点」を生かした授業改善』

神奈川県立総合教育センター(2008),『授業改善のための授業分析ガイドブック』

京都府総合教育センター(2007),『校内研修ハンドブック』
京都府総合教育センター(2008),『校内研修ハンドブック 追補版実践事例集』

高知県教育委員会(2005),『校内研修サポートブック 指導力向上をめざして』

千葉県立総合教育センター(2009),『校内研究ガイドブック 授業力アップ』

徳島県立総合教育センター(2007),『授業力向上研修の手引』

栃木県総合教育センター(2008,2009),『高め合おう「授業力」!磨き合おう「教師力」!校内研修 リーフレットvol.1(小中編),vol.2(小中高編)』

名古屋市教育センター(2011),『自らの授業力を高める校内研修マニュアル』

広島県教育委員会(2003),『授業改善のための校内研修ハンドブック〜マネジメントサイクルを取り入れた校内研修の在り方を求めて』

広島市教育センター(2005,2006,2007),『授業研究ハンドブックT・U・V』

山形県教育センター(2010),『授業研究ハンドブック』

横浜市教育センター(2006,2007,2008),『授業力向上の鍵1・2・3』

3  江南市縁の七人の戦国武将 そのT(ブログより)
 江南市縁の七人の戦国武将を2回に分けて紹介します。
(1)浅野長政
 江南郷土史研究会の説明には次のように書かれていました。

天文13年(1544年)出生・丹羽郡宮後村宮後城〔蜂須質屋敷〕(現江南市宮後町)
幼名・長吉、弥兵衛、弾正小弼、従五位下、追賜従三位
『文禄二年甲斐国 22万5千石』賜つ
慶長16年(1611年)67歳 逝去
 
 筆頭五奉行・浅野長政は、宮後城・安井家で生まれました。安井家は、蜂須賀小六の母の実家です。この後、織田信長の家臣で、叔父の浅野長勝の娘と結婚し、婿養子となります。
 この浅野長勝は、秀吉の妻・ねねの養父。すなわち、ねねと長政は義理の姉・弟(妹・兄説も)なのです。当然のように、秀吉にかわいがられます。
 1573年、27歳の時には浅井・朝倉攻めに従軍しています。
 その10年後には、賤ヶ岳の戦に従軍し、近江・坂本城主として2万石を与えられました。
この「坂本」は、坂本龍馬の祖先の出身地といわれています。
 4年後には、若狭国一国(8万石)城主となります。
 1590年、秀吉が全国統一した小田原城攻め、奥州仕置でも陸奥国岩代へ出陣します。
 さらに、朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)でも軍監として従軍します。
 1598年には、五奉行の筆頭になります。五奉行とは、豊臣秀吉が晩年設置した職制で、前田玄以・浅野長政・増田長盛・石田三成・長束正家の5人。いわゆる文治派で、関ヶ原の戦いの遠因になります。関ヶ原の戦いは、文治派対武断派の争いでもあったのです。
 豊臣秀吉死没後は、かねてより友好関係にあった徳川家康に接近。
 1599年、関ヶ原の戦の直前には、前田利長らとともに家康から暗殺の嫌疑をかけられて甲斐国に謹慎を命じられました。
 これは、増田長盛が政敵である長政の失脚を狙ってのものですが、実力者である長政を石田三成ら奉行衆から引き離すための家康の謀略だったという説もあります。家康なら、十分あり得ることだと思います。
 隠居し、家督を子の浅野幸長に譲ります。
 関ヶ原の戦では東軍に属し、戦後は子の浅野幸長が紀伊国和歌山37万石を拝領し、和歌山城主になります。
 長政は、隠居料として常陸真壁に5万石を支給されましたが、1611年、64歳で江戸で亡くなりました。
 死没後、常陸真壁の5万石は三男の浅野長重が継承しました。赤穂浪士の主君浅野内匠頭はその子孫です。
 
(2)蜂須賀 家政

永禄元年(1558年)出生・丹羽郡宮後村宮後城〔蜂須賀屋敷)(現江南市宮後町)
幼名・小六、彦右衛門、蓬庵、従五位下阿波守
『徳島藩祖 25万石』賜う
寛永15年(1638年)81歳 逝去
 
 江南の七夕祭りでは、多くの阿波踊りの連が出ます。私も教員チームの一員として参加してきました。鳴子踊りに比べて動きは単純。しかし、本場では奥の深い阿波踊りが演じられています。でも、なぜ江南で阿波踊り?
 ここに、江南市生まれの蜂須賀家政が登場します。
 蜂須賀家政は、尾張国の川並衆棟梁、あの蜂須賀小六の嫡男です。
 川並衆とは、戦国期に尾張や美濃の木曽川や揖斐川沿いの武装集団です。合戦があると、利のあるほうへ付きましたが、普段は、水運や治水などの仕事に携わっていました。
 家政は、1558年に、小六の母の在所である安井氏宅(今の江南市宮後)で生まれました。
 小六は、6歳のときに、蜂須賀村(現 愛知県海部郡美和町)から、母 安井氏の実家である宮後村(現 江南市宮後町)へと移り住んだのです。
 安井氏は甲斐源氏の流れの名家で、数代前は美濃の守護である土岐氏の重臣であったらしいという話が残っています。
 家政の母は、宮後八幡社々家三輪若狭の妹まつ(後の大匠院)といわれています。家政は幼児期を宮後で過ごし、三輪氏の檀那寺である曼陀羅寺本誓院へ預けられ、学問を学びました。
当時、彼が使用した机が、今も大切に保管されています。
 1565年頃(8歳)頃、父蜂須賀正勝(小六)が木下藤吉郎(豊臣秀吉)の与力となります。
その舞台が小折の生駒屋敷で、吉乃の仲立ちだと言われています。ここが歴史のロマンですね。
 蜂須賀小六はもちろん、家政も秀吉の家臣なのです。これが、後々に影響します。
 家政は、13歳で姉川の戦で初陣、その10年後には父に従い、秀吉の中国攻めに参陣しています。
 1583年(27歳)には賤ヶ岳の戦に参陣し功を挙げ、翌年には、父 蜂須賀正勝が播磨国の龍野城主となる折に、播磨国佐用郡に3千石を与えられました。
 その後、蜂須賀正勝が阿波国一国18万石を配されることになりましたが、高齢を理由に家政が拝領しました。そして、渭津を徳島と改名し、徳島城を築城しました。
 この徳島城の竣工の際、工事に従事した町民たちが家政に酒を振舞われ、二日間に渡り踊り騒いだのが、阿波踊りの原型だったと言われています。その原型とは、(おそらく)尾張の農民の踊りでした。当時は、拝領する際、家臣はもちろん、足軽級=農民も連れて行ったのです。
 さて、1586年には、父蜂須賀正勝が大坂で死去しますが、その後、九州攻めや小田原攻めで功を立てます。朝鮮出兵では、前回登場した浅野長政幸長を助け出すという武功を挙げました。
 何といっても、共に宮後城で生まれた、兄弟に等しい関係なのです。しかし、これにより、石田三成により懲罰を受けました。この事件も、歴史のカギになります。
 そして問題の関ヶ原。44歳の時です。豊臣に大恩のある家政は西軍に味方しなければいけませんが、石田三成は大嫌い。どちらが勝っても、家は守りたい。
 そこで、家臣を大坂に派遣し、西軍に付いたふりをして、自らは剃髪して高野山に。子の蜂須賀至鎮を東軍につかせます。
 これで、どちらが勝っても言い訳が出来ます。
 結果はご存じ、東軍の勝利。
 蜂須賀至鎮が東軍についたおかげで、戦後も阿波国を治めることが出来ました。
 1614年(58歳)大坂冬の陣でも、やはり大恩のある豊臣氏は裏切れません。大坂方につこうとしますが、子の蜂須賀至鎮の説得により徳川方に味方します。
 夏の陣の後、淡路国一国を加増され、25万7千石となります。
 豊臣氏の滅亡には、家政は複雑な思いだったのでしょう。
 子の至鎮は名君といわれましたが、もともと病弱であり、父より早く亡くなってしまいます。再度、家政が阿波を守ります。
 波瀾万丈の人生です。
 秀吉にかわいがられ、大きな恩を感じながらも、時代の流れを見ながら行動する。戦国の世で生き残るすべなのでしょう。
 家政は、郷土にも大きな恩を感じています。
 母の大匠院が信仰し、安産祈願をされた常蓮寺の如意輪観音を思い起こして、堂を寄進しています。さらに、宮後八幡社を再建、曼陀羅寺正堂を再建しています。
 
(3)前野将右衛門長康

大永8年(1528年)出井・丹羽郡前野村(現江南市前野町)
幼名・小太郎、小右衛門、勝右衛門、将右衛門、従五位下
『豊臣秀次後見役』『但馬守出石城主 10万5千石』賜う
文禄4年(1595年)68歳 逝去
 
 前野長康も時代に翻弄された武将です。
 
 1528年に、木曽川の川並衆、前野家に生まれました。
 1565年頃、蜂須賀正勝らとともに、9歳年下の木下藤吉郎の与力となります。後の秀吉の最古参の家来なのです。
 1583年、賤ヶ岳の戦後、播磨国三木郡1万3千石を拝領し、三木城代になります。
 その後、小牧・長久手の戦、阿波国木津城攻めなどで貢献し、但馬国出石に5万3千石に加増転封となり、有子山城主になります。
 この後も、小田原城攻め、文禄の役に参陣するなど、常に豊臣秀吉を支えます。
 これらの功により、但馬国出石、11万石に加増されます。聚楽第造営の奉行、後陽成天皇行幸の饗応役も務めています。その後、関白豊臣秀次付きとなります。まさに、最も信頼されていた家臣と言えるでしょう。
 そして事件が起きます。
 1595年、長康68歳の時、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられました。秀次は、秀吉の姉・智子の子です。実子・鶴松が亡くなった秀吉は、子供をあきらめたのか、秀次に関白職と聚楽第を譲りました。しかし、秀頼が生まれると秀頼を後継者にするため、「秀次に謀反の疑いあり」としたのです。
 これが秀次事件です。高野山で切腹させられ、秀次の家族及び女人ら39名も三条河原で処刑されるました。このとき、長康、そして子の景定も秀次の弁明を行ったことから罪を問われ切腹させられたのです。
 秀次謀反の史料的裏付けははっきりしていませんが、根本原因に秀頼が生まれたことにあることは間違いありません。
 これに伴い、淀君、石田三成?が何らかの動きをしたのかもしれません。
 もっとも、秀頼の本当の父は、秀吉だったのかどうかも疑問の声が出ています。180cmを越える長身と美形の秀頼は、秀吉と似ていないという理由です。
 本当の父は、大野治長説、名古屋山三郎説、石田三成説といろいろです。
 いずれにしろ、秀次事件が豊臣家臣団の亀裂を決定的にし、これが関ヶ原の戦いの一因となったのです。
 『武功夜話』は、前野家文書の一つです。
 長康は、いわゆる自害させられた側の歴史となるので、人目に触れないよう伝えられたといわれています
 
(4)生駒 利豊

天正3年(1575年)出生・丹羽郡小折村小折城(生駒屋敷)(現江南市小折町)
幼名・蜂須賀五郎八、家直、長知、利豊、隼人正、大炊佐因幡守、従五位下
秀吉より『小折村1500石、後4000石』賜う
寛文10年(1670年)96歳 逝去
 
 生駒氏からは、利豊だけでなく、父の家長や、尾張生駒家中興の祖といわれる6代利勝も紹介したほうがよいでしょう。
 まずは、吉乃の兄、生駒家長です。
 家長は、はじめは犬山織田氏についていました。しかし、妹の吉乃が信長の側室に迎えられたことにより、父と共に信長の家臣となったのです。信長に従い、浮野の戦い、桶狭間の戦いなど次々に軍功を挙げました。信長創世期の家臣だったのです。
 その後、家長は、甥に当たる信雄、秀吉と次々に主を替えてきました。家長の死後は三男の善長が継ぎ、その後、五男の利豊が継いだのです。
 利豊は、幼い時より豊臣秀次に仕え、小田原の役に16歳で従軍。後に豊臣秀吉に仕えました。関ヶ原の戦いでは福島正則の陣に属し、その後、松平忠吉(家康の四男。清洲藩主)に仕えました。松平忠吉が亡くなると、尾張藩主となる家康の九男徳川義直に仕えたのです。
 以後、子孫は尾張藩士として幕末まで続いたのです。
 ちなみに、三男の善長は、その後妹の嫁ぎ先蜂須賀家に招かれ、子孫は徳島藩の代々中老を務める家柄として続きました。
 宝頂山墓地には、生駒氏の4代家長・5代利豊が葬られています。
 中央の家型墓地が利豊(およびその妻)です。96歳という長寿でした。
 奥が家長夫妻です。
 
 
 6代利勝は、1629年生まれ。尾張藩士肥田孫左衛門の長子で、母は生駒利豊の娘です。
 生駒家に養子として迎えられました。
 尾張藩2代藩主徳川光友、3代藩主綱誠に仕え、尾張生駒家中興の祖といわれています。
 利勝といえば、富士塚を建てたことでも有名です。
 初代家広からの由緒と武勲を後世に伝えるため、1682年、石碑に刻んで亀形の台石の上に立てました。
碑詞は、あの林羅山の孫、信篤の作です。
 ※ あと3人は次回に紹介します。


お役立ち資料  

教育分野におけるICT利活用推進のための情報通信技術面に関するガイドライン(小学校版)
 http://www.soumu.go.jp/main_content/000218505.pdf

教育分野におけるICT利活用推進のための情報通信技術面に関するガイドライン(中学校版)
 http://www.kec.kagawa-edu.jp/curriculum/houkoku/center/h24/h24jyugyouryokukoujyou.pdf

授業研究を中心とした若手教員の学び合いガイドブック/神奈川県立総合教育センター
 http://www.edu-ctr.pref.kanagawa.jp/kankoubutu/h23/pdf/23004manabiai.pdf

若い先生のために〜 あきたのそこぢから−授業の基礎・基本−
 http://www.akita-c.ed.jp/~ckyk/sokodikara/sokodikara.pdf

若い教師のために〜『小学校初任教師のための授業づくりハンドブック』
 http://www.edu-ctr.pref.kanagawa.jp/kankoubutu/h20/pdf/j_dukuri.pdf

「子どもの視点」を生かした授業改善/香川県教育センター
 http://www.kec.kagawa-edu.jp/curriculum/houkoku/center/h21/21_kounai_zenntai.pdf




  授業力向上のために(中学校教員用)/香川県教育センター
 最大のウリは、たった4ページであることです。すぐに印刷ができて、説明に使えます。コンパクトに、広く、浅くポイントのみに絞られているから使いやすいのです。
 ただ、ここで言いたいことは・・・
 これを、自分なりに作ってみてください。教師としての力がさらに身に付くと同時に、こうした資料の読みが深くなります。
http://www.kec.kagawa-edu.jp/curriculum/houkoku/center/h24/h24jyugyouryokukoujyou.pdf
 
6 勉強しよう!
(1)金融経済教育研究会
別紙で年間計画を紹介しました。
下記より、案内、参加申込書を印刷することができます。
   http://www.jsda.or.jp/manabu/research_society/images/nagoya_kenkyukai_annai.pdf 
 
(2)教師力アップセミナー
  毎回、大口中学校で開催されます。
 第1回 5月10日(土) 13:00〜15:00  大前 暁政(京都文教大学准教授)
 岡山大学大学院教育学研究科(理科教育)修了後、公立小学校教諭を経て、2013年4 月より京都文教大学准教授に就任。「どの子も可能性をもっており、その可能性を引き出し伸ばすことが教師の仕事」ととらえ、現場と連携し新しい教育を生み出す研究を行っている。理科の授業研究が認められ「ソニー子ども科学教育プログラム」に入賞。著書は「若い教師の成功術(学陽書房)」「理科の授業が楽しくなる本(教育出版)」「プロ教師直伝!授業成功のゴールデンルール(明治図書)」など多数。