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報告者  土 井

 2026年1月8日(木)社楽の会 を 布袋ふれあい会館で開催しました 。

参加者は土井、伊藤先生(岩北小)、髙木先生、高木先生、木下先生(犬西小)、舟橋先生(布袋小)、藤田先生(布北小)、馬場先生(大口南小)、須田先生(扶桑中)、谷田先生(大西小)、水野先生(城東中)、日佐先生、河合先生(岩倉中)、奥村先生(岩東小)、坪内先生(古東小)、小池先生(宮田小)、高橋先生(岩倉市教委)、天野先生(知多教育事務所)、早川先生(名芸大)の19名でした。

土井が紹介した内容
1 次回は「志をつなぐ」
2 FW「田丸城→松ヶ島城→松阪城」についての私論
3  教育課程部会 社会・地理歴史・公民ワーキング(第2回) 議事録を読む

 

シーズンオフシリーズ 布袋ふれあい会館第3会議室

次回は 12918時 布袋ふれあい会館 第3会議室

1 次回は「志をつなぐ」

 

いよいよ次回からシーズンオフシリーズ。第1回は、愛知が生んだ思想家・○○○○を取り上げます。その系譜を辿ると、日本の歴史を動かし、そして現代にも影響を与えている多くの人につながります。それが「教育」というもの。教員の皆さんにはぜひ参加して、今の仕事を見つめ直すよい機会としていただければと思います。

 

2 FW「田丸城→松ヶ島城→松阪城」についての私論

 「社会科は足で稼げ!」というようにFW(フィールドワーク)こそが社会科教師の修養の場。今回は、南伊勢「田丸城→松ヶ島城→松阪城」の報告のまとめです。

Q 田丸城の立地の優位性は 

1 伊勢神宮への至近性
 伊勢神宮の外宮・内宮の中間圏にあり、宗教・政治・経済の結節点を直接押さえる戦略拠点であった。

2 参宮街道の要衝
 伊勢街道・参宮街道が集中する位置にあり、人・物・情報が必ず通過する交通の要地だった。

3 港(松ヶ島・大湊)への連絡性
 松ヶ島港・大湊港など伊勢湾の港と陸路で直結し、海運と陸運を結ぶ中継拠点を形成していた。

4 内陸防衛と海上交易の両立
 港から適度に内陸に入った立地のため、海上交易を支配しつつ、海賊・外敵の直接侵入を防御できた。

5 米の一大生産地を背後にもつ
 度会平野・宮川流域は古代以来の穀倉地帯で、年貢米と兵站(食料補給)に極めて有利な条件だった。

6 鉱物資源(銀・銅・石材)へのアクセス
 伊勢・紀伊山地には銀・銅・砥石・石材などの鉱物資源があり、武器・貨幣・築城資材の調達が容易だった。

7 木材資源が豊富(紀伊山地)
 城郭建築・船舶・社寺造営に不可欠な良質な木材の安定供給圏にあった。

8 伊勢商人ネットワークの形成地点
 港・街道・神宮の結節点にあることで、伊勢商人が自然発生的に集積し、金融・流通の中心地になった。

9 東国・西国を結ぶ国家的動脈上
 東海道と熊野街道の接続圏にあり、東西日本を結ぶ軍事・物流の国家的ボトルネックを押さえられた。

10 田丸城は「北畠屋敷の東の出口」を押さえる関門だった

  北畠氏館跡(大河内城)は田丸城の西方の街道沿いに位置し、田丸城はその「東への出口=伊勢平野側の関門」を押さえる城であった。

    11.北畠支配圏(山側)と神宮領(平野側)の境界支配点

     西:北畠氏の本拠・山岳武士団の世界  東:伊勢神宮・港湾・商業・米どころ
 その境界線上に田丸城が置かれたことで、「山の軍事勢力」と「平野の宗教・経済勢力」を同時に監視・制御できた。

13 田丸城北畠屋敷宇陀は一直線の軍事街道

    田丸 大河内(北畠) 宇陀 大和 京という内陸最短の軍事・政治ルートが形成されており、田丸城はその伊勢側の起点城郭であった。

    14.宇陀の鉄・木材・薬が「田丸で平野経済に接続」

     宇陀:鉄(たたら)・木材・薬草  田丸:米・港湾・伊勢商人・神宮経済
  田丸城は、 山の資源経済を、平野の流通経済に変換する中継点だった。

15.「北畠×宇陀×伊勢神宮」を同時に制圧できる唯一の城

  田丸城を押さえることで、 西:北畠屋敷(反抗的在地勢力) 西奥:宇陀・大和(朝廷・畿内) 東:伊勢神宮(宗教権力) 南東:伊勢湾の港(海運)を一体でコントロール可能となる。

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まとめると 「軍事・信仰・経済」が重なる三位一体の立地
 田丸城は、- 軍事:街道・港の支配 - 信仰:伊勢神宮の影響圏 -経済:米・鉱物資源・商業が一点に集中する稀有な立地条件を備えた城であった。

Q 織田信雄は、地政学上優位にある田丸城を捨てて、なぜ松ヶ島城に移ったのか?

信長は健在で、信雄の意思だとは思えない。信長の考えだと思われる。

 信長の国家構想は「城=軍事」から「城=経済」へ移っていた

天正8年前後の信長は、安土城(琵琶湖水運)・堺・大津・長浜・楽市・関所撤廃に象徴されるように、「戦争で勝つ」「経済で支配する」段階に入っていた。

その流れで伊勢を見ると、

  • 田丸城:内陸・街道・宗教調整型(旧時代)
  • 松ヶ島城:街道・港・商業・軍需(新時代)

信長の目には、田丸は「古い」城だった。ただしその松ヶ島城も一拠点にすぎない。

※ 一般に信長の城は守りが薄い


伊勢は「参宮の国」から「物流の国」へ再編されつつあった

  信長政権下では、

  • 伊勢神宮の権威は尊重しつつも、神宮を政治の中心とはしない。

田丸城は

  • 伊勢神宮・北畠旧臣・在地領主・参宮街道を束ねる調整型拠点。

一方、松ヶ島城は

  • 神宮と距離を取り、海に直接向き、商人・船・金を集めやすい

 信長はすでに 堺、大津、長浜、伊勢湾岸を一体の経済圏として構想していたのかも。松ヶ島城は「宗教色を薄めた、新しい伊勢支配」に最適。2年後の本能寺の変がなければ、展開が変わったのかもしれない。

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Q 蒲生氏郷は、なぜその松ヶ島城を捨てて松阪城に移ったのか?

蒲生氏郷は信長とは違い、旧来の発想だった。4つの観点から考えてみる。
(1) 軍事的理由:松ヶ島城は防御に不向きだった

松ヶ島城の弱点
  低湿地に近い地形で、周辺が平坦・中世的な城郭で、鉄砲戦に耐える構造ではない
氏郷は近世城郭のイメージがあった
  安土城や聚楽第など近世城郭に居住していた
三重県松阪は丘陵地で城下町を見下ろせる要害の地形と、城下町をつくるだけの平地があった
(2) 経済的理由:松ヶ島の町は手狭で、拡大に限界があった
松ヶ島は城下町として発展余地が小さい
 海に近すぎるため、城下の拡張が難しい、旧来の町割りが川で囲まれ再整備が難しい
対して松坂は「商業都市」を作りやすい地形
 台地の上に城、麓に整然とした町を置ける
伊勢参宮街道を移せば、和歌山街道がつながり、熊野街道ともつながる。
 交通の要衝としての価値が高い。
 → のちに三井家・長谷川家など豪商の街として大発展
   氏郷の都市計画が成功した証拠
(3) 政治的理由:豊臣政権下での「国づくり」に適した場所だった
氏郷の移封時期(1588)は豊臣の時代の制度化期
 検地や刀狩、城下町の整備が本格化していた、大名は近世的な城下町の建設が求められた
松坂(松阪)は伊勢国の中心にふさわしい位置
 商業・海運・街道の結節。伊勢神宮という国家宗教の中心にも近く重要地帯
氏郷は新時代の城下町のイメージがあった。
 統治の拠点として優れた城郭+計画都市、その理念に最も合うのが松坂
(4)象徴的理由:氏郷の「自身の国作り」を示すランドマーク
松ヶ島城は「北畠家」以前の旧城
 歴史はあるが、蒲生氏の象徴的中心にはなりにくい
 氏郷が目指したのは 新しい伊勢国の建設
松坂城は氏郷の政治理念を象徴
 住民を移住させ、城下町をゼロから整え、民政と商業振興を重視する氏郷の思想が反映できた
氏郷は都市ブランドも重視
 松坂のネーミング、町割り整備→街の魅力を高める設計
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ブログでは、他にも次のようなテーマで論評しています。ぜひご覧ください。

Q 本居宣長はなぜ松坂から出なかった?

Q 宣長と平田篤胤との違いは?

Q 宣長が仏教や儒教を否定したのはなぜか?

Q 秀吉は、なぜ蒲生氏郷を会津に送ったのか? 

 

 FWとはただの観光ではなく「本物を見て事象の意味を考えること」。そのためには「問い」が重要で、問いが明確であれば見るものを絞り目的を持って臨むことができます。すなわち、教材研究のアプローチそものなのです。

 

3  教育課程部会 社会・地理歴史・公民ワーキング(第2回) 議事録を読む

この議事録は、文部科学省のワーキンググループによる、社会・地理歴史・公民科の次期学習指導要領改訂に向けた第2回議論を記録したものです。会議では、情報技術の進展や気候変動、少子高齢化といった急激な社会の変化に合わせ、教育内容をどのように刷新すべきかが話し合われました。特に、小・中・高校の系統的な学習整理や、主権者意識を育むための地域調査(FWの充実、多すぎる学習事項の精選が重要な論点となっています。また、教科固有の**「見方・考え方」をより分かりやすく構造化し、生徒が主体的に問いを立てる資質を養うための目標設定についても検討されました。専門家や現場の委員からは、知識の習得と探究的な学びのバランス**、他教科との連携の必要性について多様な提言がなされています。最終的に、社会の形成者として必要な資質・能力をいかに定義し直すかという教育の本質的な在り方が模索されています。

ブログでの解説はここ https://ameblo.jp/syaraku0812/entry-12952618405.html 

ブログでは次のような視点で解説をしています。

Q 社会情勢の激変に対応するため、教育内容をどのように精選・構造化すべきか。

Q 児童生徒が現代社会の諸課題に対し、主体的に参画する資質をどう養うか。

Q 小中高を通じた系統的な学びの中で、見方や考え方をどう定義し示すか。

Q「中核的な概念」を高校生にわかるように説明してください。

Q この内容は、「見方・考え方」の説明ではありませんか?

 

文科省の土井主査も最後に、「見方・考え方と中核的な概念をまだうまく整理できていないが」と言っているので、まだ変わる可能性があります。

 

ぜひブログをご覧ください。