第633回 社楽の会報告 第632回 第634回へ TOPへ
報告者 土 井
2026年6月18日(木)、社楽の会 を 布袋ふれあい会館で開催しました 。
次回は 7月2日18時 布袋ふれあい会館
第1会議室 です。
1 愛教大名古屋附属中学校 栗本一輝氏の授業
指導案と、当日の写真より、授業の流れを説明しました。その後、感想を交流しました。
2 資料紹介「風雲“松倉城”と“川並衆”の謎」
土井は行けませんでしたが、当日の資料を紹介します。
実は定員オーバーで、市民優先で落とされました。
江南の秀吉といい、今はまさに歴史ブーム。
社会科教師として、ブームを利用しましょう!
松倉城の坪内家は、秀吉29歳(永禄8年)で初めて文書に名前が残された書状の相手先。
秀長に至っては、天正元年、秀吉37歳、秀長33歳が初出。
それまでの話は、全て作り話の可能性も・・・・。
3 『社会科教育7月号』(明治図書)紹介
(1)
目次
何が求められているのかの概略が見えてきます。
(2)「教師が地域を歩くということ」 宗實 直樹
社会科教師の本質「足で稼げ」が説明されています。まさにこの通り!
(3)「教えすぎないことが、学びを深くする」 宗實 直樹
興味深い論文です。
4 尾張郷土史研究会 「秀吉は江南生まれ?」
尾張郷土史研究会「秀吉は江南で生まれた?」
戦国史の宝庫、江南の歴史を巡る第二回!鍵を握る「村雲」というキーワード
日秀尼(秀吉姉、智)が村雲という号を称したのはなぜか?
実在する京都の地名、村雲と飛保村雲との関係性は?村雲は村久野であろうとする天正記解釈の曖昧性?
昨年歴史学者の磯田道史先生が文芸春秋10月号で書かれた秀吉江南市出自の可能性を示唆された記事は大きな反響を集めており、最初にこの問題を提唱された河内将芳先生の講演会も江南市で開催され定員を超える反響があり注目されています。
今回はこの話題の中から天正記に書かれた「飛保村雲」という地名の村雲というワードに着目し秀吉江南出自説の謎を探っていきます。
-―――――――土井説――――
秀吉の母「なか(大政所)」の出身地は御器所。『角川地名辞典 愛知県』で御器所を調べると「村雲の里と呼ばれた」と書かれています。
これがいつからかが問題ですが、「御器所」の地名よりも古いという説もあります。
『関白任官記』が書かれた天正13年には、秀吉、著者の大村由己、大政所は大坂城にいたと思われます。
秀吉の播磨・三木城攻めで家来になった大村由己が、「飛保・村久野」の地名を知る由もありません。
これは、御器所で生まれた大政所が、「村久野」を「村雲」と言い間違えたか、大村由己が書き間違えたのではないかと思っています。
少なくとも、日秀尼とは関係がないと私は思いますが・・・・当日が楽しみです。
5 大和南部史跡
唐古・鍵遺跡と黒塚古墳を回って、弥生期から古墳時代、飛鳥時代へ移行する具体的なイメージがわいてきました。
弥生時代の大和盆地には多くの集落があり、唐古・鍵、坪井・大福、平等坊・岩室、中曽司遺跡などの大規模遺跡のほか、400以上の集落がありました。その首脳級の集合体が纏向。ここは稲作をしない、政庁の役割をしており、まさにヤマト政権の初期。
その首脳の墓が大型古墳。主に前方後円墳。それが、鳥見山・柳本、その後大和、杣之内(そまのうち)、佐紀、さらには、海側の古市、百舌鳥と王墓が移っていきました。しかし、政庁は、三輪山近くに残りました。それは、三輪山祭祀、大神神社系祭祀など、政治=祭祀だったから。それが飛鳥に移り、難波・近江を経ながらも、飛鳥から藤原京、平城京へと展開していくのです。