汐川干潟を守る会

汐川干潟の歩み

 汐川干潟も昔は、日本中(太平洋岸)の河口にならどこにでもあった干潟の一つにすぎません。近所の人々が、魚やアサリやゴカイを採ったり海苔を養殖する風景をごく当たり前に見ることができました。秋には、アマモ刈りが盛んだったそうです。当然その頃も渡り鳥たちは、春秋の渡りの季節には、干潟を訪れ、休息場所として採餌場所として利用してきました。
 田原湾で大規模な埋め立てが始まったのは、第一次世界大戦中のことです。梅田川河口沖が埋め立てられて豊橋海軍航空隊の基地が作られました。戦後この土地は、農地として払い下げられたが、後には工場が誘致されるようになりました。そして 昭和36年(1961年)になると愛知県企業局などにより田原湾の開発が本格的に始まりました。
 汐川干潟の保護運動が、始まったのは田原第3区の埋め立て計画が、田原町議会に同意答申された昭和47年(1972年)ことです。様々な運動が続けられた結果、田原第3区の埋め立ては中止になり現在に至っています。
 詳しい保護運動の経緯は、「ひがた シギ、チドリ群れる汐川干潟」(汐川干潟守る会編 文一総合出版)をご覧下さい。

今後の汐川干潟

 汐川干潟は、現在銃猟禁止地区に指定されているだけで、鳥獣保護区にさえ指定されていません。鳥獣保護区に指定されるのに必要となる地元田原町の同意が得られていません。今後は、ラムサール条約登録湿地となるよう一層の運動を続けていきたいと考えています。
 一方、干潟の埋め立ては免れましたが、干潟の質の変化は激しく、カニ、ゴカイなどの底性生物の姿が少なくなりました。越冬するハマシギやダイゼンの個体数に大きな変化はありませんが、カニを好むチュウシャクシギは、ごく僅かしか姿を見せなくなりました。また、周辺の後背地では、養鰻業の不振にもともない養魚池はどんどんつぶされてカモの休息場所が失われていきます。水田も改良され湿田がなくなってしまいました。乾ききった田圃では、餌が捕れず、淡水を好むシギチドリの渡来数は、大幅に減少してしまいました。以前は、何百羽ものウズラシギやタカブシキが後背地の田で餌を捕っていましたが、今では必死で探して10羽いるかいないかです。
 干潟は残ったが、そこはもう生き物の息吹の感じられない死の海だったと言うことのない様に、干潟を取り巻く回りの環境にも配慮していかなくてはなりません。汚濁に強い生物だけが占有的に繁栄する環境ではなく、多種多様な生き物が生きていける環境を作りだしていかなくてはならないと思っています。


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    汐川干潟を守る会(eriko@tcp-ip.or.jp)