豊山を守り,育てるとはどういうことか」 社楽 第134回へ
−「原風景」を,次の世代に引き継ぐために−
l
特定非営利活動法人 赤目の里山を育てる会
理事・事務局長●伊井野 雄二
赤日の里山に,仕事として関わるようになって,早や20年が過ぎようとしています。最初の10年は,里山に抱かれた「診療所」の事務の仕事をしながら,患者さんたちとー諸に生活して,健康に生きるための方法や人生観などを学び合いました。その後の10年は,この里山にゴルフ場建設計画が明らかになり(その内容は夏秋編に収録),大規模開発の代替案(オルタナチイブ)としてのエコリゾート赤目の森を地元の人たちとともに作り上げて,守り育てた期間となりました。そして,ほんの3年前にはゴルフ場計画が白紙撤退した後には「産廃場」がくるといわれた通りに,産廃場計画が再発し,受け身ではこの地域の自然は守れないと,「ナショナル・トラスト運動」を方針に掲げる赤日の里山を育てる会を設立し,現在に至っています。ゴルフ場計画阻止での私達の実績と,産廃場が抱えている数々の問題は,この小さな村の近くに産廃場を作らせない,という住民の意志を明確にさせて,計画の撤廃を勝ち取ることができました。その後は,育てる会でその予定地である休耕湿地田に「トンボ池」や観察小屋を設置するなどの活動が実を結び,大規模な開発計画は起こっていません。
里山を育てる会の日々の活動は,毎月の里山に親しむ様々なイベント(自然観察会や調査,伐採など)の実施,里山の中にある「里道」の保全整備,トンボ池や観察小屋,トムソーヤの小屋や広場の管理などです。また,トラスト地内の除伐採や薬木の植林などの仕事もあり,落葉広葉樹の伐採後の活用のための「シイタケ作り」や「炭焼き」なども積極的に行い,里山の経済的な再構築を視野に入れています。
また,98年12月に施行された特定非営利活動促進法により,99年4月1日に三重県第1号として認証を受けて,法人登記を完了させることができました。それにより,トラスト地や車両の所有権を法人名義にすることができただけでなく,法人としての事業化にも扉を開くことができて,確実に新しい時代の要請に応える体制は整いつつあります。
このような経過と法人の取り組みの中で,98年春から始まった名張市立赤目小学校の「赤目の里山,年4回の野外教室」は,99年春にその二回生が誕生し,新しい4年生がまた季節折々に里山を訪れて,自分の木との対面を果たし,自然に包まれる時間を過ごしています。若い先輩たちの最初の一年間は,そこで起こる様々な取り組みが,教師や私達に新鮮な感動と可能性を示しました。それは,教室の中だけでは生み出されることがない,子どもたちの生き生きとした表情や行動・共感,助け合いなどが確認できたことと,同じところへ季節を変えて訪れることの重要性を同時に学ぶことになりました。
特に,彼らが季節毎に書いた「自分のー本の木と赤目の森」の絵は,季節の移り変りが描かれてとても感動的です。決してただの自然などというものがあるのではなくて,春には春の,夏には夏の,秋には秋の姿が山にはあり,一番明るいのが,冬なのだということを,先生とともに感じ合った喜びがその画面に表れています。
学校内にいる時は,教師と生徒という教え教えられる立場にありますが,野外に出て一緒に野山に抱かれていると,共感者であり,ー人の人間同として触れ合うことになります。そこには,同じ立場で美しいものを美しいと言い合う「時間の共有者」の絆ができているように感じられます。赤目の里山を育てる会の「里山を育てる」とは,ただ単に,山を豊かに育てるということだけでないことを,彼らたちが赤目の里山に,元気な声を響かせてくれるようになって,初めて教えられることになりました。里山を育てるということは,里山を豊かにすることがきっと人間を育てる,特に日本人を育てるということなのだと確信を持てるようになりました。それは,大人たちが誰でも思い浮べる「原風景」を作り出す取り組みであり,そのことによって,人は自らの人間性を構築し,仲間たちとの拠り所を共有することにより,地域に対する愛着や誇りを持つようになっていくということがいえると思います。
日本列島に,人間が住み着くようになって,1万年と言われています。この人間の生活で,最も大切なものを挙げるとしたら,水と食物とエネルギー(燃料)ということができます。人が人間となり,人間の歴史を大きく進めたーつの理由に,火の使用ということがいわれますが,煮炊きや保温や暖房,焼畑などの耕作にも使われてきました。特に,燃料や耕作に必要な木々達は,定期的に伐採されて,人間の生活に供されてきました。そして,この木々達の根からは,新しい芽が吹き出して,新しい生命が誕生するようになることを昔の人々は知っていて,この性質を利用して身近にいつも豊かな林を手に入れていました。これを「萌芽更新」と呼んでいます。15〜20年間にー度伐採されて,その木々達は繰り返し新しい命を育くむ「リサイクル」の緑として,貴重な「薪や炭」のの貯蔵庫となって多<の人々の生活を支えることになっていきました。この繰り返しが日本人の生活であり,このような生活スタイルは何と1960年頃(昭和35年)まで続いていたことになります。
このような生活に終止符を打ったのが,「エネルギー革命」と言われる化石,石油エネルギーの利用でした。薪や炭から,灯油やガソリン,石炭プロパンガスに転換した人々は,薪や炭を取りに苦労して里山に入ることもなくなり,人々の生活も里山の状況も激変することになっていきました。人々が利用しないでも生活していけるような身近な自然の里山は,その社会経済的な価値を喪失して,より高次の経済的価値に巻き込まれることになりました。それが,住宅開発を始めとする大規模開発の流れでした。
そして,もう−つ残された自然にも大きな問題が膨れ上がっていることを見逃してはなりません。経済的価値を失った多くの雑木林は経済林としてヒノキや杉林に転換されましたが,世界経済の中で国際経済力を失った日本の林業は,里山と同じように放置されている現状にあります。−見見事な緑の山肌も,中に入って見れば「モヤシ林」ばかりの脆弱な緑でしかないことがわかります。そして,もう一方の雑木林はエネルギー転換政策時から放置され続けた結果,落葉広葉樹から照葉樹林への自然の遷移が進み,年中薄暗い林になっているものも現われてきています。これまでの研究で,本州西南部の低地の落葉広葉樹林の多くは,人々の手が入った二次林であり,何も手が付けられなかったとしたら照葉樹林(シイやカシ,ツバキ等)に移行する林であるということが明らかになってきています。萌芽更新がなく,人々の手が関わらなくなれば,すぐにでも自然は自らの進むべき道を歩むということになるといえます。つまり常緑樹の林になるということです。落葉樹林は,一万年前の自然を内包していると言われています。たとえば,ウラナミアカシジミというシジミチョウの仲間は,萌芽更新して新しい芽が伸びたクヌギの枝から出る若葉に産卵し,卵からかえった幼虫達は,その若葉を餌に生長していきます。また,カミキリムシの仲間達の中には,胸高(人が立って胸位の高さ)の直径が5〜20センチの若いコナラではないと,その表皮を噛み砕いて,その木の内部に産卵できない,というものもいます。つまり,どちらも,萌芽更新することによって,ムシも蝶も鳥も豊かに生きていくことができることがよくわかります。
また,アネモネ類などの草花も,春のほんの少しの時期に,花を咲かせ,あっという間に眠りに入ってしまいます。落葉樹林の林床に咲く花は,落葉して太陽の光が,林床に届く貴重な時期こ一年間のエネルギーを貯えるような,そんな自然との対応によって,生き続けるようになっています。
このように常橡樹の林の中では,生きていくことができない多種多様な生き物たちが里山の自然を作り出していることがわかります。 そして,それは人間にとっても貴重です。この四季折々の身近な自然の里山は,生活に欠かせなかった場所であるばかりではありません。身近な自然の里山が見せる季節の移ろいや変化は,日本本土に住む多くの人々のただーつの共通の風景であり,その共通性そのものが,日本人のアイデンティティーを作り出したということがいえます。
日本のどこにでもある自然が,日本人の共通の価値観や美的感覚を育て,文化や教養を豊かに育んだということができます。 山の自然が破壊され,経済林でも雑木林でも,人の手が入らなくなった状態は,日本人の危機ということができるかもしれません。それは,永々と流れてきた日本人の共通の「原風景」や「文化」が変わるということになるということです。秋に紅葉が山から失われる。日本人の多くが美しいと思った風景が失われその時々にロにした民謡や童謡などの音楽もそぐわなくなっていくということができます。共通の思いや感情は,共感や協同,協働という共同体を支えていく大切な力となりますが,そのものを失うことの重大さは計りしれません。
従って,異民族の侵入がほとんどなかった日本列島の中で,気候風土が違う北海道には,アイヌ民族がいたし,沖縄は琉球王朝が存在してきました。その民族や王朝こは,それぞれに逢ったアイデインティテイがあり,違う価値観や美感を持っています。現在は,社会歴史環境の中でーつの国の中にありますが,元来は別の感覚と意識をもっている人々であり,その固有の意識や価値観は,認められなければならないのは当然のことであります。世界的に有名な日本人指揮者小澤征爾は次のようにいっています。
「世の中がグローパルになればなるほど,世界を相手に豊かで文化的な仕事をするためには,自らが国際的な認識や理解を深める努力をするのと同じように,生まれ育った自らの国に深い愛情と自信を持たなければならない。」
身近な自然である里山に人の手が入らなくなってすでに,30年の時間が過ぎようとしています。場所により高さや方角や地形によって,遷移の速度や内容は逢うのは当然ですが,それでも確実に山の緑に変化は訪れてきています。それと同じように,現代社会において青少年が引き起こす原因不明の傷害事件等は,共通の価値観や社会観をもたない世代が確実に増えていること,その原因がまさに「原風景」の喪失,共通の基盤を持っていないことによる「社会不適応」状態ではないかと思ったりします。
このように考えると,社会全体として一人ひとりが日本人であると感じる根幹を形成する原体験作りに,目的意識的に取り組んできたかと問われれば,「否」と答えざるを得ない現状ということができるでしょう。
日本の歴史と文化を育み,日本人が健康に過ごすことができた豊かな身近な自然の里山を,これまでのように守り育て,その作業や里山の中で次の世代と一緒に遊んだり学んだりするなどの体験を続けることの重要性を指摘することは,これまでほとんどありませんでした。人間の命の価値は,地球よりも重たい,という台詞があります。本当にそうであるなら,今すぐ身近な自然に子どもたちを開放し,日本人としての共通の感性を得られるような原体験をさせることが何よりも大切なのではないでしょうか。
赤目の里山での赤目小学校の取り組みは,この春で二回目が終了します。三回生が誕生するかどうかはわかりませんが,期待して待ちたいと思います。近くの錦生小学枚も,この春から年間を通じての環境学習を赤目の里山で始めると聞いています。難しいことは何もありません。その場所を一緒に共有し,遊ぶだけで子どもたちは豊かな感性を持つことになります。
赤目の里山に初めて訪れた赤目小学枚の子どもたちが,この春六年生になります。先日久しぶりにみんなが赤目の里山を訪れた機会があったので,こんな話をしました。
「大人になって,昔を懐かしんで思い出す風景が誰にもあるそうだ。それを調べてみると,大方は8〜10才位に体験した自然や環境を思い出すそうだ。みんなは,ちょうどそんな大切な時期に赤日の里山にきて,一年を過ごした。もうすぐ六年生になるんだったら,大人になるまであと8年ぐらいやなあ。二十歳の成人式の日に,このトンボ池に集まって,昔懐かしい風景が何か話してみてくれへん。みんなで,酒飲みながらそんな話をする成人式したいなあ」 学枚に帰り,みんながいつものように感想文を書きました。その中には次のような趣旨のものがいくつかあったようです。
「二十歳の成人式には,トンボ池で酒を飲むぞ」