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報告者  土 井

 2025年11月20日(木)社楽の会 を 布袋ふれあい会館で開催しました 。

参加者は土井、伊藤先生(岩北小)、小池先生(宮田小)、髙木先生、高木先生、木下先生(犬西小)、藤田先生(布北小)、加藤先生(岩南中)、奥村先生(岩東小)、木村先生(名古屋聾学校)、早川先生(名芸大)の11名でした。

土井が紹介した内容
1 
秀吉の出身地は江南市?!
2 第3回中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会 総則・評価特別部会傍聴記録 
3 岐阜市立陽南中学校 社会科授業紹介
4 滝学園講演会「奈良時代から平安時代への転換」

 

次回は 12418時 布袋ふれあい会館 第1会議室

シーズンオフシリーズ 布袋ふれあい会館第3会議室

1 秀吉の出身地は江南市?!

 今、大村由己が記した『関白任官記』が脚光を浴びています。別紙『大政所と北政所』河内将芳 (戎光祥選書ソレイユ 第8) にある「ある人の讒言によりて、遠流に処せられ、尾州飛保村雲というところに謫居を卜して春秋を送る」の箇所です。

 尾州飛保村雲は、江南市の村久野であることは間違いのないところ。これまでは、「祖父・祖母禁囲に侍す、萩中納言と申す」の部分が、祖先を高貴な身分にして関白としての権威付けに利用しただけのものとされていました。

 しかし、この5月に出た『図説 豊臣秀長――秀吉政権を支えた天下の柱石』で、河内将芳氏が、名古屋・中村より江南・村久野の方が可能性が高いとし、それを磯田道史氏が『文芸春秋10月号』で「江南市村久野は検討に値する」と述べたので、一躍クローズアップされたわけです。

 何と言っても同時代資料。秀吉本人も認めている中で、中納言の下りはわかりませんが、同居している大政所が出生地をごまかす理由はありません。架空の地名ならともかく、「尾州飛保村雲」とまで言っています。
 本当に農民なら「木下」の姓や、竹阿弥との再婚が可能でしょうか?

 中村説の『豊臣太閤素上記』では、木下弥右衛門は「鉄砲足軽」とありますが、その頃にはまだ鉄砲はありません。  

 今後の議論が楽しみです!  



2 第3回中央教育審議会初等中等教育分科会教育課程部会
総則・評価特別部会を傍聴して 

 1.日時 令和71112日(水曜日)930分~1200

2.配付資料

·         議事次第 (PDF:66KB) PDF 

·         【資料1】検討資料(2)デジタル技術を活用した学習指導要領の活用の利便性の抜本的改善について (PDF:6.3MB) PDF

·         【資料2】検討資料(3)総則の構成・記載の在り方 (PDF:695KB) PDF

·         【参考資料1】補足資料(デジタル技術を活用した学習指導要領の活用の利便性の抜本的改善関係) (PDF:1.9MB) PDF

·         【参考資料2】第3回教育課程企画特別部会 堀田委員発表資料 (PDF:3.4MB) PDF

·         【参考資料3】総則・評価に関する参考資料 (PDF:7.5MB) PDF

3 岐阜市立陽南中学校 社会科授業紹介

 今シーズン見た中で最もインパクトのある授業でした。生徒28人参加

 教科委員による事前学習 

・ ペアによる前時の学習 重要度を5段階で評価 

・ 教科委員が前に出て本時の目標「意見をつなげよう」「温かい雰囲気をつくろう」起立・例

・ 「1」樋野さんの話「フェリーはなくならないなぜ?(課題設定)

・ 見通し 教師が資料1枚ロイロで配付 見方を活用「生活・交通・通信・文化・移動」

・ 個々に「調べたいこと」を記入 ロイロの中で資料を繋ぎながら読む

・ 個々でネットで調べる ネットの資料もロイロに送る(教師の知らない資料も続々と登場)  

・ 教師は意見をメモし、全体交流(ここまで20分)。 

・ 9人が前で発表;ネットの資料を見せながら持論を展開。 


4 滝学園講演会「古代通説の虚実-奈良時代から平安時代への転換-」立命館大学 本郷真昭

 土井の理解です。間違っていたらごめんなさい。

 本郷先生の言葉で印象に残ったもの。  

 平城京から平安京への転換は奈良の仏教勢力から逃れるというのはウソ・

② 山川の教科書、「道鏡が・・・」はウソ。すべて、称徳天皇がやったこと。

③ 称徳天皇は、唯一のはじめからの尼天皇

④ 教科書は天皇の悪いことは書かない(書けない)。

⑤ NHK大河で奈良時代を描かないのは、天皇家の殺し合いばかりだから。

⑥ 天武系から天智系に移るときに多くの血が流れている。

⑦ 長岡京遷都後「藤原種継(式家の中心人物)暗殺事件」により、さらに北へ移動。

⑧ 当時の病=誰かの呪い、治療=祈祷

 難波内(なにわない)親王の死は井上内親王[聖武天皇の娘]、他戸(おさべ)親王[同 孫]による呪いとされ、二人は幽閉され、同日に不審死した。山部親王(後の桓武天皇)は、二人や早良親王の怨霊に悩まされ続けた。山部親王の母・高野新笠(たかののにいがさ)は、史料で確認できる唯一の渡来人。それが理由で身分が低かったが、ライバルが死んでいくことで皇太后となれた。

⑨ 結論 平城京から平安京に移したのは、藤原北家(藤原永手等)の影響力を排除し、天武系から天智系へ皇統が移ったのを世に示すため。

 




 土井の理解。

① 来年のネタの一部が重なった。天智Vs.天武 がテーマ。

② 平城京→平安京は、天武系の仏教要素が強すぎるのを排除するため藤原式家がしくんだ。天皇は神道の祭祀が本務。しかし、天武系は、45代聖武天皇の国分寺、48代称徳天皇(尼)の道鏡重用と仏教要素が強すぎる。これが藤原家内の勢力争いが絡み、長岡京、そして平安京へと移る要因になった。

 他にも藤原仲麻呂の乱もあり、この時代は本当に複雑すぎておもしろい!