平成23年9月11日
江南市民文化会館
「江南市ゆかりの村国男依」
倉 橋 寛
文責 土 井
この記録は、土井によるメモから作成したものです。従って、誤字脱字や主観的な解釈、誤解もあり得ます。文責はすべて土井にあり、学校や講師には一切責任はありません。そのため、引用や転載はご遠慮ください。また、問題の箇所は修正しますのでお知らせください。
今晩の大河ドラマは関ヶ原。ここに来て大丈夫ですか?録画しましたか?
672年壬申の乱も、1600年の関ヶ原の戦いも同じような場所で起こっ

た。
村国男依については、何もわかっていない。
なぜ『赤き奔河の如く』で男依を取り上げたのか?という質問をよく受ける。前に中臣鎌足を書いた。日本書紀を見ると、大化の改新の次は壬申の乱だから。
村国郷は、「和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)」(平安時代の辞書)によれば、日本に、各務郡、葉栗郡、大和の国の添下郡の三カ所あった。
昔は、川島から墨俣までの北回りの川があり、笠松町、羽島市や岐南町などを含むあたりまでが尾張だった。それらを葉栗郡といっていた。
秀吉の頃大洪水があって、川が直進し、葉栗郡が二つに分かれた。区別するために、北を羽栗郡(美濃)、南を葉栗郡(尾張)と分けた。
葉栗郡の村国郷がどこにあったかはわからない。
私の先祖は、家にある古文書を見ると、源平の頃、木曽義仲といっしょに木曽から出て来たが、義経にやられて主と共に戦死した。妻と子も木曽からやってきたが、夫が戦死したので、そのまま村国の里に住むことにした。これが、現在の江南市の村久野であると注釈がしてあった。
また、子供の頃に、神社に石柱があった。そこには、村国神社と書いてあった。正式には熱田社というが、村国神社の碑がある。その頃から、村久野は、村国男依の村国のことではないかと思った。
壬申の乱は、皇族の内部抗争だ。相手は皇族なので、あまり品の悪いことは書けない。しかし、部下の話にすれば人間臭く書ける。
結局、書き始めて、10年かかってしまった。39歳から初めて、(完成が)49歳になってしまった。
男依を紹介する。
飛鳥時代の人物で、生まれた年は不詳。各務原出身で、大海人皇子の舎人。舎人とは、皇族や貴族の身の回りの世話をする雑用係で身分は低い。
その後活躍し、やがて、壬申の乱の4年後に亡くなった。
年齢は、舎人という身分が低い役職なので、30歳までいっていないというイメージにした。男依は、人によっては年輩に描く人もいる。
男依と江南市の関係は?
壬申の乱で活躍し、褒美をもらう。村国連男依の「連(むらじ)」は、姓(かばね)。他にもいろいろある。
古くは、臣・連・君・別・直・造・首。天武天皇が定めた八色の姓が真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置。
姓は、この頃は有力な豪族だけに付いていたが、褒美として与えられたもの。
男依が亡くなったときは、「外小紫(とのしょうし)」今なら、従三位ぐらいの位階をもらっている。「外」は、地方の豪族や朝鮮半島の人につけた。
坂本龍馬や吉田松陰、井伊直弼でも正四位。正三位には、西郷隆盛、山本五十六がいるのでその間。
男依は、美濃の地方豪族には似合わない褒美をもらった。

また、朝廷は、男依の功績に対して、120戸の封戸を与えた。息子にも功田が与えられた。推測だが、乱の活躍による報奨であろう。
ただし、こうした褒美は、三代後には返さなくてはならない。それに伴い、村国氏は次第に衰退していった。
男依は、各務原が本拠地という確証もない。江南かもしれないと思って、各務原の村国神社へ行ったら、由緒正しそうなので、江南の負けだと思い、各務原出身と書いた。
しかし、実際には、かつては川筋がばらばらで、各務ヶ原も江南も一体ではなかったか?各務原と江南の合同で、男依を盛り上げたい。
苧ヶ瀬の池の北西に村国神社がある。なぜか、行くたびに立派になっている。(笑)犬山のライン大橋を渡ったすぐ左側に、村国真墨田神社があり、これも立派。
一方、江南には、熱田社、音楽寺ぐらい。音楽寺は、男依が建てた寺が前身らしい。
近くの小杁(おいり)も「男依(おより)」と音が似ている。関係があるのではないか?
それでは、男依は何をやったのか?
飛鳥といえば、大化の改新。そこで活躍した中大兄皇子、後の天智天皇の子は4人?いたが、病弱、あるいは妃の身分が高くなく、次の天皇を弟の大海人皇子を皇太弟とした。
しかし秀吉同様、子どもを後継者にしたくなり、鎌足が亡くなったときに大友皇子を史上初の太政大臣にした。
天智天皇が病気になり、枕元に大海人皇子を呼び、今後どうする?と聞いたら、隠居しますと頭を丸めて吉野に籠もった。(671年10月20日)
朝廷側が吉野を攻めるという不穏な空気が流れてきたため、半年ぐらい後、672年6月24日、大海人皇子らが挙兵を決意し、吉野を脱出。その2日前には、男依が兵を集めるために、美濃へ出発している。
そして不破でせきとめ、そこへ兵を集めることにした。和ざみケ原(のちの関ヶ原)と呼ばれた地だ。
大海人皇子は、吉野を出たときには30人ぐらいだったが、不破についたときには、尾張から2万人ぐらい帰属した。
大海人皇子は、生まれて、大海人氏に養育係を任せられた。
もともと、○○皇子の○○は、養育を担当した氏族の名前である。大海人氏は、尾張の一族で、尾張にゆかりがあった。だから、大海人皇子のためにと多

くの人が集まった。
6月29日、飛鳥で大伴氏が反乱を起こした。朝廷側は、それを押さえに大軍を送り込んだ。その作戦に引っかかり、それゆえに、近江の戦力が落ちた。
大海人皇子軍は、尾張から2万、美濃から6千ぐらいは来たのではないか?また、三重などからも援軍があり、4万ぐらいにはなったのではと考えている。
戦は大将の首さえ取れば勝ち。
7月2日に近江方面軍、大和方面分に別れて出発し、近江方面軍はまずは玉倉部村を急襲。その後、主力の男依は、琵琶湖東岸コースを通り、瀬田川を渡り近江宮に入った。
総大将は高市皇子。大海人の子どもで、実質的大将は男依。なぜなら、日本書紀には、男依が主語で書かれていることからわかる。
戦は次々にあった。
玉倉部村の次に息長(おきなが)横河7月7日、次が7月13日安河。日本書紀にはここだけ大勝と書いてあるから、これが大きかったと思われる。
次が、7月22日瀬田川の戦い。調停側が橋を落として、一本橋になったのを勇敢に渡っていった大分稚臣の活躍で、ついに朝廷軍を撃破。
7月23日には山前で大友皇子が自殺した。この山前はどこか不明である。
※ 大友皇子も、弘文天皇(39代)として、明治3年になって天皇と認められた。
7月24日に全軍が近江宮に終結し、朝廷方を拘束し、26日に不破へ戻った。
『赤き奔河の如く』は、自分で言うのは何だが、不破を出てから、ここまであたりがおもしろい。とてもよく書けている。
男依の絵も描いた。まんがチックだが、敵味方を区別するために、赤い布を肩につけていた。それが、『赤き〜』の由来。
この間、大海人皇子はずっと不破にいた。勝って飛鳥に戻り、40代天武天皇として即位した。これから、奈良がしばらく日本の首都になるわけだ。
しばらくは天武天皇の血筋だが、49代光仁天皇、そしてその子桓武天皇以後は天智天皇の系統だ。元に戻った。この時代としては最大の戦乱である壬申の乱は、長い目で見れば内輪の争いだったということになる。
壬申の乱には、いろんな人が関わっている。天武の娘十市皇女は、大友皇子と結婚している。こういった人間関係も面白いし、多くの地域が関わるので、それもおもしろい。
『赤き奔河の如く』の出版により、より多くの盛り上がりが生まれればうれしい。
ここに集まったみなさんで、火をつけてほしい。