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BLACKOUT of 2003

三輪 昭子先生のニューヨーク大停電体験談です。

ブラックアウト・イン・アメリカ
〜マンハッタンから始まった非力の日々〜

2003年8月14日、それは突然始まった。この日は、奇しくも私のマンハッタン歩き最終日となった。最終日ということもあり、グラウンド・ゼロに出かけ、その周辺地区の見学をした。あの事件以来、NY/NJへ訪れるたび、必ずここに来たいと思っている。

あの2001年の冬、まだ事件の記憶が鮮やかに残るクリスマス休暇。ハドソン河沿いにある、タワーウエストというアパートに住んでいたRの部屋からマンハッタンが一望でき、WTCの敷地あたりが光を放っていた。あれは、作業を続けるために夜を徹した人々の努力の光だった。もちろん、間近で目にした敷地では、まだ異臭が漂い、事件の生々しさが残っていた。

さて、2003年8月14日、この日のNY地区の最高気温は34℃との予報があった。気分的には雨が降るより、良い。しかし、なぜだか胃痛を感じていて、今日の外出はどうするか、迷った。アパート周辺のバーゲンラインに再度行くのも選択肢の一つ。しかし、私はマンハッタンを出ることを選んだ。外出時に忘れてはならないのが、ミネラルウォーター。それを持って出かけた。

いつものように、タイムズスクエアから歩く。グラウンド・ゼロまでかなり歩かなくてはならないが、一種のエクササイズだと思い、ただひたすら歩く。30分から40分は歩いただろうか。時間ははっきり覚えていない。1時間だったかもしれない。

観光地と化したグラウンド・ゼロからの帰路、途中でスターバックス・コーヒーに立ち寄り、いつものようにキャラメル・フラペチーノを注文した。ここから、事態が変ってきた。フラペチーノはなかなかやってこない。既に待ちの状態にある人が数人、オーダーを変えていた。その様子を見て、待ち時間を尋ねて、同様にオーダーを変えた。この時から電気で機械が動かなくなっていたのかもしれない。冷房が効いていたので、気づかなかった。しばし、店内で休息を取り、外に出た。

疲れていたが、タイムズスクエアまで急いで戻り、バスで帰るとしよう。そんな思いで歩を進めていた。街は一変していた。道路は人であふれ、誰もが、一心にそれぞれアッパーサイド、あるいはロワーサイドに向かって歩いている。もちろん、道路には車も走っていたが、それにもまして人の数の方が多かった。信号に目を向けると、どこもかしこも止まっている。なんらサインはない。一体何が起こったのだろう。それでも、人々はパニックに陥ることなく、冷静に対処していた。

私も道路を歩く群衆の一人になり、ただタイムズスクエアを目指して歩いた。観光客と思われる人が、この現象を面白がり、カメラやビデオカメラに歩く群衆を撮っている。それを見て、私も、2、3のショットを撮ってみる。

群集と車の数はタイムズスクエアに近づくにつれて、さらに膨らんでいった。それもそのはず、タイムズスクエアにはポート・オーソリティというバスターミナルがある。アメリカのさまざまな場所からバスが集まってくる拠点だから、だ。

そのバスターミナルは閉鎖されていた。建物周辺に人が溢れかえっている。私の乗るバス、すなわちブルーバード・イーストへの低料金シャトルバスが停まるのは、その建物の向かい側にある駐車場。すでに、多くの人が列を作って待っている。とりあえず並ぶよりも、まず何のための列なのか確認する。そうしないと、全く違った場所に連れて行かれる場合がある。過去の教訓に従った。しかし、現実には何のための列なのか確かめずに並んでいた人が何と多かったことだろう。最初に尋ねたのが、公衆電話の列。次が目的となる列。その列はかなりの長い列だった。が、かろうじて1ブロック内に収まっていた。仕事を終えてやってきた人たちが後へ続く。私がここにたどり着いたのが、午後5時30分ぐらい。途中で時間を見たのが、スターバックスを出たあたり。午後4時だった。

バスを待っている間に、目の前を通り過ぎる車に目を向ける。普通乗用車、バスなど渋滞で、なかなか進まないけれど、確実に目的地に向かっている人を乗せている。仕方がないので、手持ちの文庫本で気を紛らわしながら、ひたすら待つ。しかし、それも次第にできなくなっていった。周囲があっという間に暗くなったからだ。恐ろしいほどの暗さ。真っ暗だ。タイムズスクエアがこんなに暗いとは・・・。

今は待つしかない。列が少しずつ着実に減っていくからだ。いつかはバスに乗れる。その希望を持って。
今日は帰りが遅くなると言っていたRに連絡を取ろうと、しきりに携帯電話をかけてみるのだが、ネットワークが混雑して繋がらない。やがて、配車を担当する男性が、「もうバスは一台もない。」と言って、去っていった。

途方にくれて、道路に座り込んだ。どうしたらいいのだろう。ここで、一晩待つべきか。帰国予定日は明日。早朝にでもバスが来れば、それに乗って帰り、帰国便に間に合うだろう。しかし・・・Rが電話に出てくれれば、彼が迎えに来てくれるかもしれない。でも、電話は相変わらず繋がらない。

行動を起こすしかない。とりあえず、NJに出る方法を採ろう。まずは、一部の人がやっていたように、NJナンバーの車に乗せてもらうことができるかもしれない。該当の車がやってきた。しかし、NJは遠いと一蹴されてしまう。私の目的地が約15分程度で着く場所なのに。しかし、結果的には良かった。もし、その車に乗れたなら、いつ帰宅できただろう。よく知らない外国の地で、的確に方向指示をすることができただろうか。

次善の策と思われた方法、NJトランジットのバスに乗り込む。運転手に掛け合えば、何とかなるかもしれない。事情はみな同じだから、何とかしてくれるだろう。運良く、目の前を「メドウランド」を表示したバスが通る。道路が込み合っているので、停まったところで、交渉する。既に、バスの前に数人の人だかりができる。その中に割り込んでみる。運転手が乗れという指示を出す。次々に人が乗り込む。途中でストップがかかる。これ以上、乗せられないと。しかし、あと少しというところだったので、無理にでも乗ってしまった。この場合、明らかに乗った者勝ちだからだ。

次なる問題は、行き先。運転手にブルーバード・イーストに行くか確認を取ろうとしたら、それを遮り、「お客様が降りたいところニュージャージーだったら、どこへでもお運びします」、とアナウンス。乗客は歓声を上げて、そのアナウンスに拍手する。バスはなだらかに走行し始めた。

リンカーントンネルを抜けてニュージャージー側に出たところまでは、場所はわかった。その後、どこをどのように運転しているのか、わからない。周囲は真っ暗で、何もわからなかった。しばらくしてバスは停まった。「左に歩いていくと大きな建物があるから、そこを目指して歩いてください。お客様の行きたい場所へのアレンジをしてくれます。」

その建物はジャイアンツのスタジアムだった。フットボール用のスタジアムとのことだ。その広い駐車場で、各目的地に応じたバスに乗り換えるのだ。赤十字の車が来ていて、水と食べ物の供給サービスがなされていた。思い出してみると、今日はほとんど何も食べてない。胃痛がしたから、お昼は昨日の夕食の残りを少し食べただけ。まともに食べたのは朝食のベーグルだった。・・・しかし、空腹を感じない。緊張感からだろうか。ストレスからだろうか。今までの経験からは、ストレスが食欲に転じたのに、今回は違う。でも、念のために、水とスナックをもらうことにした。

やっと目的地に向かうバスを発見したのは、11時30分を過ぎていた。バスに乗ってから、Rに再度電話をしてみる。やっと繋がった。彼は私のいる場所をしきりに尋ねた。私は適切な説明ができない。ただ言えることは、確実に家に向かう途上にあること。しかし、バスに乗っている間は心配だった。周囲か暗いので、どこで降りたらいいのか、わかりにくい。68丁目ということがわかれば行けるかも。次々と人が降り始め、大体の場所がわかりはじめ、やっと68丁目が近くに来たことを悟って、運転手に確認を取り、その停留所で降ろしてもらった。

停留所から見当をつけ、周囲の風景を確認しながらアパートに向かう。月曜日にこのあたりを歩き回っておいて良かった。それがなかったら、今回の帰りは難しかったのかもしれない。塞翁が馬、だ。アパートは真っ暗で、正面のドアが開いていた。手探りで階段を上り、部屋に戻った。Rはろうそくを使って明かりを採っていた。

その後、マンハッタンからの帰り方について、別の方法があることを教えてもらった。いつもは、リンカーントンネルを車で通る方法が普通。しかし、マンハッタンのアッパーサイドに出て、ジョージ・ワシントンブリッジを歩いて渡れば、ニュージャージーに出られる。9月11日には、みんなそうして帰ったんだ。
もう12時を回っていた。今日は荷造りをして寝るだけだ。

長い8月14日は、こうして終わった。

問題は、8月15日。私の帰国日だった。状況は好転しているだろうか。朝早く出勤するRが起きて、身支度をしているところで目が覚めた。どうやら明かりはついている。電気は復旧したようだ。空港へ出るためにタクシー会社に電話するが、繋がらないとのこと。電話番号をメモし、ハグをしてRは出かけた。午前4時30分ぐらいだった。

いつもなら、その後寝てしまうが、今日はそういうわけにも行かない。テレビをつけて情報収集に努める。ケーブルテレビは繋がらないが、キー局の番組は放映していた。「ブラックアウト2003」とタイトルづけて、昨日から今朝の状況を伝えている。画面にはタイムズスクエアやポート・オーソリティが映っていた。そこで一晩過ごすことになった人も多くいたようだ。私はラッキーだった。空港の現状に耳を傾けた。ほとんどの便が遅れているとのことだ。相変わらず、タクシー会社には繋がらない。ノースウェスト航空に直接発着状況を尋ねたら、遅れているとのことだ。

自分のPCを繋げてみた。こういう場合は海外の方が早く状況を察知しているかもしれない。朝日新聞の電子版で確認すると、トップニュース。メールチェックをすると、私の安否を問うようなのが少し。返事は帰れるかどうかわからない、帰ってみせる、と。

朝ごはんのベーグルを食べながら、荷物チェックをして、再びテレビを見ていたら、睡魔に襲われ、うとうとしてしまった。そのところで、Rが私を起こした。出勤したはずのRが戻ってきていた。これから一緒に空港へ行こうと促した。車に乗り込み、Rと今回の旅行の振り返りをしながら、インタヴューごっこをした。すごい体験をした。この一言に尽きる。アントニオ・バンデラスのことばかりでなく、ブラックアウトを含めて。・・・しかし、まだ終わってはいなかった。

空港でチェックインを済ませ、待合室へ。12時40分の出発が1時15分となっていた。しかし、実際出発できたのは一時間後。乗り継ぎ便が心配だ。名古屋行きの便は3時45分。

着いてみたら、4時を過ぎていた。搭乗ゲートを確認し、その場へ急ぐ。36Aゲートだと言われ、その場に行くと表示が違う。モニターで確認すると65A、その場へ移動する。また違う行き先表示。そこで再度カウンターの人に確認。36Aと言われる。再び戻る。すると、名古屋便はすでに出発したとの返事。予約を取り直して、明日以降の名古屋便に乗るしか方法がない。置き去りにされてしまった。名古屋便はフィリピンのマニラへ延長しているので、同じ運命のフィリピン人たちが何人かいた。もちろん、同じ国内線を利用した他の日本人たちも。

予約の取り直しに、またまた長い列ができた。誰もが次の移動先への便をしっかり確保するために、交渉をしている。私の順番になったのは、午後9時ぐらい。今日も長い1日。さらに、私に与えられた選択肢は三つ。1:19日の名古屋便に乗る、2:20日の関西空港便に乗る、3:18日の東京便に乗る、というものだ。いろんな意味で名古屋便が一番適当だと考え、1を選択することにした。仕事開始は22日からだ。

まだまだ15日のやるべきことは残っていた。滞在先の確保、である。以前、降雪で足止めをくったときは、航空会社がすべての費用を出してくれたし、滞在先の確保もしてくれた。しかし、今回は違った。人数があまりに多いからであろう。次の便の確保に職員は疲れているのだから、そのあたりは了解しなくてはならないようだ。宿泊予約の電話番号を表示した用紙をもらった。

まず、自宅へ電話。現状を伝えた。次は宿泊先の予約。一つだけ該当のホテルがあるということで紹介を受けた。もうそこしか確保できないという。もちろん、承諾する。シャトルバスもなく、タクシーで行けと言う。タクシー乗り場に行って、行き先であるパンチャートレイン・ホテル(Pontchartrain Hotel)を告げると、運転手はダウンタウンだという。そんなはずはない、空港の近くだと伝えると、他の運転手にも尋ねてくれた。結局ダウンタウンのホテルだということが、わかる。デトロイトも停電の影響がかなりあったらしい。しばし、運転手とその話をする。

タクシーの中で、今日1日ほとんど食べ物を口にしていないことを思い出す。昨日に続き、二日目。非常に珍しい現象だ。ここ数日を乗り切るために、何かを食べなくては。そう思い、ホテルにチェックインして、すぐに尋ねたのはレストランのことだった。11時過ぎであったこともあり、レストランは閉店。デリバリーのお店を紹介してもらった。

部屋は22階。部屋に入ったら、シャワーを浴びて、ゆっくりしよう。それが唯一のリラックスできる方法のような気がした。しかし、ここでの期待は裏切られた。水が全くでない。仕方なく、飲料水用の水を確保するために下の階に行く。ロビーのエレベーター前で、ひとりの女性がミネラルウォーターを3本抱えていたので、どこで買ったか尋ねた。バーで売ってくれるということだ。そこで、すぐバーに行き、とりあえず1本売ってもらった。後は明日になってから。とりあえず眠らなければ、今まであまり寝てなかったから。ここで4泊、具体的なことは明日考えよう。

8月16日、土曜日。何度か途中で目が覚めたが、結局11時ごろに起床。まず、今日も飲料水の確保から始めた。下の階のトイレの様子を見に行く。そこで歯磨きをする少女を発見。蛇口から水がたくさん流れている。この当たり前のことに感激した。アイスボックスを入れるケースに水を入れて運ぶことにした。その水を使って洗顔や歯磨きをすればいい。まるで途上国の水汲みと同じ、である。食べ物は昨日のデリバリーの残りを食べることにした。まだ腐っている様子はなかった。それにしても、食欲が戻らないのは、不思議なことである。特に出かける当てもなく、ホテルで寛ぐ時間を過ごす。まだ、数日間、残っている。帰国便は8月19日、なのだ。

部屋の水道に水が流れたのは、18日の夜になってからだった。シャワーはまだ出ない。入浴は帰国後だ。
あわせて、観劇記録です。2003年7月23日
「ブラボー!アントニオ!」「ブラボー!!」
カーテンコールでは、ほぼ全席スタンディング・オベーションで幕を閉じた。

NYは昨日から続く曇り空で、いつまた雨が降るとも知れない状態。開場30分前には劇場の前の道路に長い列ができ、傘を手にした観客が並ぶ。偶然か、向かい側の道路にも長い列が続いている。その先はと目をやると、「ナイン」の主役を演ずるA・バンデラスの夫人メラニー・グリフィスがロキシー役を演ずる「シカゴ」の劇場があった。夫婦そろって、ブロードウェイの49丁目をにぎわす原因をつくっているような感じである。

これから、私が鑑賞しようというのは、「ナイン」。トニー賞、リバイバル部門での受賞作品だ。イタリアの名匠フェデリコ・フェリーニ監督の有名な「8 1/2」を素に振り付け・演出されたものである。A・バンデラスの大ファンである私が、見逃すはずのない演目と言えよう。

私の座席は「D−13」、前から4列目で、左寄り。いわゆるオーケストラ席。かなり間近に役者をとらえることができるが、正面から舞台を眺められない。実際、幕が上がると、熱唱するA・バンデラスの飛び散る汗や唾ばかりではない。悲劇的な場面で、彼が涙を流し、鼻水が垂れんばかりの風景を眼にすることができた。

A・バンデラスの役どころは映画監督グイード・コンティーニ。女性問題を抱えながら、映画づくりにも行き詰まりで苦しんでいる。そんな場面が彼の奏でる歌を通して、私の心の糸を揺らす。時には真剣な面差しで、時には女にだらしない表情で・・・

彼の歌はすでに映画「エビータ」で証明されたごとく、私の心を魅せる。彼の声や、その演技、歌に、ダンスに手練手管を尽くして観客の心をつかむ。

数々の役で、このブロードウェイで魅了し続けるチータ・リヴェラが評するごとく、「A・バンデラスはプロフェッショナルな人物として、稀有な存在である。彼の演技への入り込みや熱意、創造性があふれんばかりに流れている。」(当日もらった、ブロードウェイ・ミュージカルのカタログ掲載のレヴューから。文責:三輪)因みに、このチータ・リヴェラはウエストサイド・ストーリーのアニータ役でよく知られているようだ。トニー賞の女優部門での受賞歴が2度ある。彼女が舞台に登場すると、至るところで拍手がする。華がある。今回の「ナイン」でもプロデューサーらしき役どころ。数々の女優を従えて、グイード演ずるバンデラスを翻弄する。バンデラスとのダンス場面が必見。目隠しされたバンデラスが彼女とステップを踏む。

時には、チータ・リヴェラが観客席の一人に声をかけ、舞台を盛り上げる。あちこちの座席から笑い声が漏れてくる。非常にユニークに仕立ててある物語。観客を愉快な気持ち、舞台への注意力を引っ張って離さない。
脇を固める他の女優陣もコケティッシュな魅力で、グイードを誘惑する役割やスター女優にしてもらうためにグイードに献身的である役割など、多種多彩。

このミュージカルはたくさんの魅力を詰め込んだ宝箱のようだ。このショウを観た人なら誰でも、賞賛を送らずにはいられない。観客の誰もが満足げな表情で、座席を後にし、外のステージ・ドア付近で足を止める。*ステージ・ドアは演じ終わった役者やオーケストラの演奏者たちが出てくる扉。自分の贔屓とする人物を一目眼にしようと、多くのファンがドア周囲に集まっている。