Choice and Decision”

アメリカ社会のバックボーンとなるもの


愛知教育大学附属高等学校

前田 健次


1 “Choice and Decision”だらけのアメリカ

 アメリカで半月暮らしているうち、私はある一つのことに気づいた。それは、「アメリカの生活は“Choice and Decision”(選択と決定)で一杯である。」ということである。

 起きてから寝るまで生活のほとんど全ての場面に、この「選択と決定」が現れる。ホテルの部屋に入れる新聞は何?朝食のオムレツには何を入れる?ランチの料理は?ドリンクのサイズは?....あるサブマリン・サンドウィッチの店で、お客と店員が「パンは?→バターは?→野菜は?→ハムは?→チーズは?....」と問答をしながらカウンターを挟んで約4メートル程を横に平行移動しながら進み、ようやく完成に至るという光景を目にした。ほとんどの商品が出来合いで、「選んで決める」という必要がない日本国内ではめったに見られない光景であり、ビデオに撮って皆に見せたいと思ったくらいである。

2 アメリカの教育観の基盤となる精神

 最初は違和感さえ感じたこの“Choice and Decision”も、研修中研修後と私がアメリカという社会の成り立ちについて学ぶにつれて、次第に納得できるようになってきた。建国以来の歴史、国の構成員が多種多様という事実、そしてそこから生まれてくるイデオロギーから、アメリカという社会では、そこに住む人々は大人から子どもまで、たとえ家族の中でさえも、一人一人が個々別々の存在という意識がかなり強い。

 個人がちゃんと“Choice and Decision”をできる環境というのが「自由な社会」の定義であり、更に、それぞれの個人間での“Choice and Decision”の利害調整をするルールが「法」の役割と考えることができる。

 そんなアメリカ社会で暮らすには、一人一人が自分がどう考えるのかをはっきり言えるようになる必要がなる。アメリカ人に教育の目的を尋ねると、“To be independent”(自立できるようになること)とか“To be self-sufficient”(自分のことは自分でやれるようになること)という答えがよく返ってきた。ここでも、それを「社会、人生のあらゆる場面で自らの“Choice and Decision”をちゃんとできるようにすること」と読みかえることができはしないだろうか。

 子どもたちは小さな時から自分の意見をはっきり言えるように躾けられ、学校では、作文やディベートやスピーチを通して自分の立場をはっきり表明することや、自分の意見で相手を説得することを学ぶ。同時に、ディスカッションを通して自分とは違う他者の意見が存在することや自分の意見と相手の意見の摺り合わせをすることを学ぶのである。

 さらに今回の研修旅行中、大変印象に残った言葉があった。ラトガース大学で受けた講義の中で、教授は教育を通して学生に何を望むかについて次の4点を挙げた。

 @ Speak clearly             「知をもって語り」

 A Write clearly          「知をもって表し」

 B Ask intelligent questions    「さらなる知を求め」

 C Think creatively            「新たなる知を創る」

そして教授は、「大学は単に学問を学ぶというだけの場所ではなく“Learn to be Socialized”(社会でやっていける人間になるための何かを学ぶ)のだ。」と語った。

「知識に頼った機械的な答えを探すのではなく、創造的な考えを持って自らの意見を作り上げることができるようになるために学ぶのである。」と。

 教授の言葉は私の心に強く響いた。私自身が経験してきた「学び」、そして教職員として毎日私が接している生徒たちの「学び」にそのような理念があるのだろうか?

3 我が国の教育観には基盤があるか?

 振り返って我が国ではどうなのだろうか?多くの場合は、依然として知識や教養の習得に(しかも量的にどれだけ身につけたかに)重点が置かれている。例えば、「歴史」を学ぶ際に、我が国の学校の授業では「○○年に××があった」という部分の習得に一定の重点が置かれ、テストなどでもそういった部分が問われることが多い。

 一方、アメリカでは歴史上の事柄の中に自分を置き自分ならどうするかを討論させる授業がある。ミラーズビル大学での講義の中では、第二次大戦後の東京裁判を題材にして検事側、弁護側、被告人のそれぞれの立場をリサーチして討論をするというハイスクールでの授業事例が紹介された。また、歴史上の人物になりきり、ある歴史上の行為に対して「自分」がなぜそういう決断をしたかを語るというような授業スタイルも紹介されている。どの例においても、その底流には自分の立場や意見をはっきり表明できるかという考え方が流れている。

 今回の研修旅行中にホームステイをした先のマリー・イーガンさんはかつて日本の高校を訪れたり、日本からやってきた高校生の世話をしたことがある。そのマリーと、私の勤務校へALTとして来ているジェーンが、偶然にも同じような言葉を言っているのが大変興味深い。:「日本の大学生は欧米の高校生くらいに思える。日本の senior-high student(高校生)は欧米の junior-high student(中学生)ぐらい。」

場面状況に適応した状況判断がどれだけできるかという基準で見るとどうか、という私の問いかけに対する答えである。日本の若者はいつまでも幼く、自分がどうするべきかをちゃんと判断する力が発達していないように見えるということである。

 ミラーズビル大学での講義の中、講師の先生が自らの授業の目標として“good competent citizen”(生きていくのに十分な能力を持つ市民), “good informed citizen”(必要な知識を十分に持った市民)を育てることだと語っていた。「市民を育てる」という視点は、今まで我が国の教育観の中にあっただろうか?

 「学びの再生」という言葉をどこかで読んだことがあるが、知識教養の習得を重視してきた我が国の教育が、近年閉塞状況に陥りつつあるのは確かである。「何のための勉強?」「子どもたちに何を教えて、どのように育てるのか?」私たちに問われるものは非常に大きい。しかしその打開のヒントは、前述のようなアメリカの教育観や教育スタイルにあるのではないだろうか?小さな子どもから大学生まで一環して流れる「学び」のバックボーンが、今こそ必要である。