日本の鏡:アメリカ

〜思い出とともに〜

愛知教育大學

渡邉 雅弘


 向かう十八年は氣が遠くなるほど長い。しかし過ぎてしまえば十八年も須臾の間である。

 ハーヴァードは變っただろうか、大學に近づくバスの中で、しきりにそんなことを考えていた。しかしバスを降り、校門を潛って目に入ったハーヴァードは何も變っていなかった。周圍の街並に多少の變貌はあっても、大學構内の風景は記憶の中のそれと變っていなかった。夏場のことで、學生より觀光客の多いことすら、見慣れた光景であった。あの巨大なジョン・ワイドナー大學中央圖書館入口の階段から廣々と見渡す構内は、それぞれの建物の配置も色も、灌木の一本一本までもが變っていないように思われた。この十八年、アメリカ東部には一度も行かなかったのに、さながら昨日見たままといった風情の、灌木と芝生に覆われた風景のなかを、決まった歩道を決まった時間にとぼとぼと足を運ぶ曾ての自分の姿が彷彿とした。また附囑のフォッグ美術館では、二階の階段の上がり口から細長い廊下越しに、次の間にあるピカソの「母と子」が一直線に、曾てと變らず目に飛び込んできた。仰天した。十八年間、置かれた位置が變っていないのである。一方、當時疲れきって夕方、アパートへの道を急ぎながらいつも買物をした小さなスーパー・マーケットは、驅け寄ってみると、店構えを變えながらも、健氣に同じ場所にあった。中に入ると、曾てと同じアメリカの生活の臭いがした。僅かに、賣られているかっぱ巻きの壽司だけが、確實に流れた時を感じさせた。そこで土曜日にはビールを買って歸った先の、アパートは殘っていた。すべてが昨日のことのようだった。時が凍りついたような、それは實に奇妙な感覺だった。變らないものだけが眞實か、そんな使い古された一句が頭を掠めた。

 ペンシルヴァニア大學では、些か現實に引き戻された。大學構内はさして變っていなかったものの、構内を少し外れた處にあった、古ぼけて鼠とゴキブリの出沒した安アパートは既に取り壞されて跡形もなく、更地になっていた。夢の跡である。近くに二軒あったスーパー・マーケットも潰れ、コインランドリーも廢業していた。確かに時は流れた。思い出がぎっしり詰まっていたのに、殘念だった。貧しくて節約のため大學の寮を出て轉がり込んだのが、この友人のアパートだった。同居人が四人いた。ここで自炊をしながら、古代ギリシア語を英語に飜譯し、いわば外國語を外國語に飜譯して大學での演習に臨む豫習をした。その前夜は殆ど徹夜仕事となり、午后三時間の演習が終わって歸宅すると、打っ倒れるように眠った。誰一人知る人もないアメリカの、まだ會ったこともないアストワルド先生の許へと、覺悟して渡米したとはいえ、英語も不自由な中での辛い修業だった。現今の至れり盡せりの贅澤な若者たちの留學とは違って、金を惜しまねばならない1ドル=240圓の時代に、時差ボケのあることも教えられぬまま、眞夜中の空港に着き、バスで、出迎えてくれる人もない眞夜中の30丁目驛にようやく辿り着いた時から始まったことだった。野口英世が降り立った當時の何分の一もない規模の驛舎であったが、内部の照明を背にすると、眼前に廣がる漆黒の闇に、右も左もわからず、自分以外に頼るものもなく、我身が味わう半生分にも匹敵するかと思われる寄る邊ない不安と、これからの先行きの心細さに震えた。恐くて、最初はタクシーに乗るのも躊躇われた。やっとの思いで着いた寮の部屋で、英和辭典を枕、ダウンジャケットを毛布代わりに體を横にした。時差ボケも手傳ってか、まんじりともせず、これまでの人生で最も長い夜を過ごしたことを忘れない。翌朝、ウイリアムズ・ホールにある古典科で初めて對面したアストワルド先生は粗末な生地のネクタイを締め、香りのよいパイプを吹かす、恰幅のよい、優しい人だった。それが救いだった。I am a Jew と最初に言われたのが、今も耳に殘っている。「日本ニハドンナ古典學者ガイルカネ」「美知太郎・田中ヲゴゾンジデスカ」「ソノ人ハシラナイガ、堅太郎・村川ノ論文ハ讀ンダコトガアルネ」。先生は、購讀でその後わたしが惱まされることになるあの難解な史家ヘロドトスが十八番であった。

 變わらないのは、ハーヴァードやペンだけではない。18年前アメリカに教わったことが、今も變わらない自分の確信としてある。否、むしろ目から鱗が落ちる譬えさながら、日本の學校や教師から解放され、最早教えてくれる人の一人もない中で、初めて自分と向き合い自分のために自分の頭でものを考えざるを得なくなったのである。アリストテレスは、人は生まれながらにして知ることを慾し、哲學という知の營みの發端には「驚き」の感情があると言った。哲學は名詞でなく、動詞なのである。哲學科に行かなければ、哲學できないわけではない。わたしは確かに驚いた。あたりまえのことが實はあたりまえではないと、初めて気付かされたのである。そして未熟な學部學生の時代にぞっこんいかれた林達夫氏から貰い、アメリカにも持參した長文の手紙の、忘れ難い一節が蘇った。「ご自分で、ガムシャラに勉強し、多くの試行錯誤をいとわず、どんなにえらいといわれる學者だろうが、イカれない、究學心の貫徹を心がけることがだいいちです。」わかっていたことなのに、わかっていなかった。見ていても、見えていなかった。それは衝撃だった。アメリカで學ばなければ、まさにこの心底の「啓蒙」もなかった。覺悟が決まることもなかった。そしてこの度の研修旅行を通じても、歸國後にアメリカを襲ったおぞましい同時多發テロの問題を考えあわせても、この確信は揺らぐどころか、却って強まったと言ってよい。しからば、そこでアメリカが教え、自分が自問自答を余儀なくされた極めて素朴な疑問とは何であったか。「アメリカには何故國旗が溢れているのか」が、それである。

 ペンシルヴァニア大學の近邊にあったマクドナルドがそれを教えてくれた。その平べったいマクドナルドの建物のてっぺん中央に、雨風に晒されて濁れてはいたが、星条旗が翩飜とひるがえっているのに、ある風の強い日不圖、気が付いた。何故、ここに國旗が?気付いてみれば、街角の郵便局を初め無數にある公けの建物やホテルは無論、學校には校旗とともに、教師の机の上にはそのミニチュアが、そして民家にも、誇りやかに、それこそ無數に星条旗が掲げられている。このアメリカのありふれた日常が、わたしには不思議な光景と映った。子供の頃、「旗日」という言い方があって、祝祭日には家々が門口に日の丸を掲げる慣わしがあったが、いつの頃からか、気付いた時にはこの見慣れた光景が失われていた。日章旗と言えば、オリンピックかサッカー・ゲームに限ると相場は決まっているし、國歌・國旗法の制定以前は、官公庁ですら、その掲揚は建物の内部におさまっていた。この彼我の歴然たる差は何だろう、何に由來するのだろう。同じ獨立國家、主權國家でありながら、何故、星条旗は毅然として掲げられ、日の丸の掲揚は躊躇されるのか、この問題を解かねばならなかった。ケネディは格調高い大統領就任演説で、アメリカ國民に對して國家の品性を説き、國家を食い物にせず、むしろ品格ある國家への貢獻を各自の標的とせよと、當然のように訴えたが、同じ民主國家・日本にあって卑屈にならず、これと同じ言動を敢えてなすには、相當の勇気と覺悟を必要とするだろう。素朴な疑問は大きな廣がりをみせ、そもそも國家とは何であり、近代日本とは一體何であったか、近代日本の理想と現實の相剋、近代日本の背負わされた重さと辛さの意味を、事實を確認しながら、根底から問い直さねばならなくなった。この點で、これまで教師たちがわたしに教えたことは正しかったか、教師たちはわたしを騙さなかったか、嘘を教えなかったか、と。國際法上、戰争とは主權國家間における複數の正義が衝突する、紛爭解決のための文明の作法、技術であって、善でも惡でもなく、國内刑法上の惡あるいは罪たる殺人とはその次元も、範疇も異にするが、戰後一度も戰爭をしたことのない國の平和教育が何故、殺人との類比で戰爭を一方的に彈劾し、「戰う」ことを惡の領域に封じ込める反戰教育と等値されて來たのか、と。政治の要諦は、國家が國民の生命・生活・財産を護ることに盡きるとすれば、確かに戰爭は悲慘で、平和は尊いが、アメリカを鏡にすれば、わが國の所謂一國絶對平和主義とは何だったのか、とおのずから問わねばならない。國民を護らない國家を國民は信頼しその品格を誇ることができようか、と。あるいは、修羅場を經驗したことのない軟弱なわが國の戰後民主主義とは一體何なのか、と。

 そもそも不正と正義の國家間に、安全保障の戰爭は成り立たない。もしあるとしたら、それを戰爭とは呼ばない。別言すれば、國益を賭して國際法に從って衝突する複數のナショナリズムの間に、本來善惡も優劣もないのである。アメリカのナショナリズムが優れて肯定されるものなら、他國のそれも當然肯定さるべきである。しからば、50餘年前、わが國は何故野蠻で無謀な「強盗戰爭」(スターリン)、侵略戰爭を起こしたとされるのか。そして當時のわが國が呼稱した「大東亞戰爭」を何故、占領時のある時點のGHQ通達から、わが國にとっては軍國日本の不正な侵略戰爭であり、アメリカにとっては正義の自衛戰爭たる「太平洋戰爭」と呼ぶように強いられたのか。この言葉が歴史を僞造する可能性を秘めつつ、人爲的に作り出された閉ざされた言語空間でわが國の戰後歴史學と歴史教育のパラダイムとなり、まさに不磨の用語と化した悲喜劇には、如何なる事情があったか。結果的にこうした問題に答えるべく、1948年(昭和23年)、GHQの一員としてその内部情報に觸れ、アメリカに歸國したヘレン・ミアーズは即發禁本となった『アメリカの鏡:日本』を書いて、告發した。西洋列強が深く關わり、作り磨き上げた鏡としての近代日本には、日本の傳統的價値を完全に破壞し、戰前の日本を全面否定する「野蠻な」西洋自身の姿が映り、近代日本に「犯罪」を教唆した「罪」は紛れもなく、その「犯罪」を裁こうとする聨合軍の側にあるとした。「永久」占領とはその自己正當化だ、というのである。平和の恢復を願いながら、同じく後世のイデオロギーテ的粉飾とは無縁のk・カール・カワカミ『Japan in China』(1938年)がリアルタイムで指摘したように、西洋自身が作り出した國際法に日本は忠實に行動しただけであったが、その國際法を自己否定し日本を斷罪した東京裁判におけるパル判決書と軌を一にするミアーズの告發書は、占領が終了した1953年(昭和28年)、ようやく『アメリカの反省』(原百代譯)と題された邦譯が日の目を見た。ダグラス・マッカーサー自身が述べたとおり、この書は占領終了まで決して上梓を許されなかったのである。しかし、同じマッカーサーが1951年(昭和26年)、アメリカの上院軍事外交合同委員會の公聽會の席で、日本が戰爭に突入した動機は、その大部分が安全保障の必要に迫られてのことだったと、證言している。R・ステイネット『欺瞞の日』(2000年、邦譯「眞珠湾の眞實」)は公開されたアメリカの公文書に基づいて、それを裏付けた。渡辺京二『逝きし世の面影』(1999年刊)は、この近代日本が忘れると同時に忘れさせられた、開國以前の穏やかで豊かな文明の諸相を、幕末・明治の外國人訪日記から精査した好著であろう。

 かくて日本の鏡アメリカ、日本の反省――人は自分と異質なものに出會って初めて自分を自覺する。從って、自由であるためは強制を不可缺とする道理で、自分が自分であるためには絶えず他者を必要とする。この強制としてのアメリカ、異質な他者としてのアメリカの經驗を通して、わたしは自分と本氣で向き合うこと、歴史を學び直すことを教えられた。しかし、それはおのずから現状の「反省」に行き着くことを強いる。

 この度の旅行の初めに、ボストン市部のクインシー市場で今も記憶の底にこびりつく、小さな光景を見た。人だかりのする路上の通路で風船細工をする、ピエロの出で立ちの大道藝人がいた。あやすように、時に叱るように話しかけて細長い色取りどりの風船を巧みに捻る藝人の前には、幼い子供たちが半圓を作って、一人2ドルを小さな手に握り締め嬉々として順番を待っていた。親たちはその周圍を取り巻いて三々五々、あるいは立ち、あるいはベンチに腰を下している。その中に、右手の手首を失った黒人の女の子が一人いた。やはり周圍の目を氣にするかのように、時折その圓らな瞳をあたりに投げかけている。わたしはちょっと息を呑み、その幼子と目の合うのを恐れる自分を意識した。その子の順番が來ると、藝人は何事もないように、風船で冠を拵え、腰には帯状に細工した風船を巻き付けてあげた。幼子は喜び勇んで子供の輪を外れると、すっと親の許に驅け寄った。その親と思しき人は、落ち着いた風情の白人の婦人だった。そして子供を迎えると、微笑んで僅かに抱擁し、輕くその頭を撫でると、その子を膝の上に乗せた。これだけのことである。アメリカには、他の國々から養子を貰う一般の人々が澤山いるし、問題は多々あっても、口先だけの隣人愛でないものを實踐している人々のいることは、18年前にも直接知っていた。この養子となって未知の國に來た黒人の女の子は、アフリカの民族紛爭に巻き込まれ親をなくした子だろうかとは、わたしの勝手な想像である。むしろ思いを馳せたのは、この養母の子育てに見られる、毅然として親の責任を果たそうとする決意であった。思春期を思えば心が痛まずにいない、手首を失った血の繋がないわが子を、心を鬼にして衆人監視の前に敢えて晒す、愛情の深さであった。手首のないことは恥ずかしいことではない、好奇な人の目はあろうが、そんなことに負けてどうする、怖じ気づかないで毅然として生きてゆけと、幼子を心で愛撫する養母の目が語りかけているように思われた。こういう底力のある、懷の奥深い人々の僅かでもいることがアメリカの救いであり、その限りで、アメリカもまだまだ捨てたものじゃないと、思った。「大人の國民」、「責任」、こうした言葉が重りのようにわが心に沈んだ。

 それに對して、背筋の寒くなるような得體の知れない何かが不氣味に進行し、人の道義が地に墮ちた現代日本の精神状況を一言で表わせば、「幼兒化」であろう。子供どころか、大人自身が50年かけて幼兒化したのである。人々は口を開けば「かわいい」を聨發し、どんなものも「かわいく」なければ、無價値と言わんばかりである。こうして巷には無藝で幼稚なジャリタレが幅をきかし、野垂れ死にを覺悟して藝に徹するプロの藝人、誇りやかなプロの職人、プロの料理人、プロの教師、プロの學生、プロの父親、プロの母親等々が延々と姿を消し、無責任な馴れ合いばかりが横行し、果ては國家と國民を護ることを本懷とするプロの政治家、そしてそうした政治家を信頼し國政を信託するプロの國民の消滅に止めを刺す。幼兒化は高貴なプロ意識の喪失という、傍若無人の無責任と表裏一體をなしている。高貴とは他に媚びず、責任を逃れぬ尊嚴の謂である。この幼兒化した「國家なき國民」の育ての親は、紛れもなく戰後民主主義であろう。曾て丸山眞男が戰前の國體、即ち息の根を止めるべき「天皇制」(コミュンテルンの所謂32年テーゼ)を一大無責任の體系と稱したことの是非は別として、むしろ慾望民主主義と大衆民主主義を全開させて凶惡化した戰後社會の現状こそ、一大無責任の體系と言うに相応しくないだろうか。その特徴は、舌足らずで幼稚に「自己チュウ」と聯呼される、凶暴な自家中毒に陷った自己王國化と、エゴイズムを自分の尊嚴にかけて自己抑制する自立心の欠如とに求められよう。一見矛盾するように思われるこの二つの特徴は、他者の無視、そして自分を超えるものの前に膝を屈し頭を垂れてわが身を愼む心性の喪失を共通項として齎されたのではないか。傳統社會を解體して析出される個の尊嚴と、その個人主義の別稱たるエゴイズムの發揚に無制限の價値を置く「民の聲は神の聲」という、神なき世界のヒューマニズムの恐るべき錯誤がそこにある。畢竟、神なくして民主主義は成立しうるのか。強いられたとはいえ、この根本問題を實驗する日本の戰後民主主義の現實に、思うに、アメリカの經驗は、否、を突きつけるであろう。責任と畏敬を忘れたからである。神の子供として世界で最も甘やかされ、次代の神となる日本の子供の、目に餘る傍若無人の爲體がその象徴である。