アメリカ東海岸における日系人

愛知教育大学 非常勤講

三輪 昭子


1 はじめに

 米国理解教育プロジェクトの2年次の現地研修に一部同行させていただき、ボストンからフィラデルフィアまでのスケジュールに参加することができた。個人旅行では得られない多くの経験をすることができ、プロジェクトに関係した先生方に感謝している。今回の研修を、個人のこれまでの経験に加えて、何らかの新しい成果が出せないかと思い、筆を執ることにした。

 個人としての体験で、東海岸への渡米は初めてではない。前職にある時、縁あって米国東海岸、具体的にはニュージャージー州サウス・オレンジ市を本拠地とし、ニューヨーク市、ボストン市に訪れる機会があった。その後、1992年の8月から2001年7月まで、9年の月日を数える間何度かこの地を訪れてきたが、さまざまな日本人(あるいは日系人)の存在を知ることができた。範囲は限られるが、ニューヨーク市、ニュージャージー州に住んでいた、あるいは住んでいる日本人について報告することにしたい。

 1992年の渡米は、高校生向けに日本語の教科書を開発するというプロジェクトに参加するためであった。名古屋市を本拠地とする河合塾が著作権を有し、代表執筆者はアメリカの大学生用に日本語教科書を執筆した経験のあるジョン・ヤン(John Young)教授によって進められることとなった。私の役割は、教科書に掲載するトピックとダイアローグとを作成することであった。

 ヤン教授は単なる語学だけの教科書にならないようにと、異文化理解の要素や他教科を学ぶきっかけとなる内容を盛り込んだトピックを創作するよう指示した。私にはトピック作成時に参考となりそうな日米の学校文化についての知識を持ち合わせていなかったので、最寄りのコロンビア高校を見学できるよう取り計らっていただいた。翌日、その高校に在籍するアジア系(中国系であった)の生徒がガイドとなって校舎内の施設を案内してもらうことになった。

 ヤン教授は中国系アメリカ人で、その教育のほとんどを日本で受けたという経歴の持ち主であった。ある意味、日系人であるとも言えた。また、河合塾アメリカ事務所には当時日系アメリカ人の女性が勤務していた。彼女の両親は日本人であるが、父親がマサチューセッツ工科大学の教授として勤務していた関係で、大学教育までアメリカで受けていた。彼女の場合は日本人の血を引いてはいるものの、文化的にはアメリカ人であった。

2. ニューヨーク市と日本人

 ニューヨーク市のどこに出かけても、そこにはさまざまな文化がある。それらの文化がモザイクを形成している大都市だ。「多文化都市ニューヨーク(Multicultural New York)」と見出しがつけられるほどである。そして、2001年9月11日、グラウンド・ゼロ(世界貿易センター倒壊の地)での行方不明者が60数カ国の国籍にわたったということからも、ニューヨーク市が多文化・多民族を引き寄せる力をもった都市で、多様な姿を見せており、例えば、それはマンハッタン島の南部、ローワー・マンハッタンでは、歴史的にニューヨークがインディアンの砦から植民地となり、アメリカ合衆国の首都、移民の玄関口、忙しい港町、そして世界の金融センターへと変化した様子がうかがわれる1)。

 ニューヨーク市は、マンハッタン、クイーンズ、ブルックリン、ブロンクス、スタテン島の5区からなる。マンハッタンの中にはチャイナタウン、リトル・イタリーを始め、リトル・ウクライナとか、リトル・インディア、リトル・コリアといったような地区が存在し、そこではそれぞれの文化や伝統が守られ、民族的な香で色づけられているようだ2)。

 最近では新移民の到来で、以前のニューヨーク市とは違った魅力を醸し出している。2000年の国勢調査によると、アジアや中南米出身者の人口増が大きくなり、かつての移民の中心だった白人の割合に迫っている。1990年と2000年とで比較してみると、市全体に占める白人の割合は42%から35%に、黒人が26%から25%に減る一方で、ヒスパニック系は25%から27%、アジア系は7%から10%へと増加している。増加を見せる新移民たちはマンハッタンではなく、クイーンズやブルックリン、ブロンクスという周辺地区に住み、それぞれ別々のコミュニティーをつくり、同胞同士で固まって暮らしている3)。

 外務省で発表されている統計資料「平成12年の海外在留邦人数調査統計」によれば、2000年10月1日現在、ニューヨーク市に在留している日本人(長期滞在者と永住者)は57,780人で、他の都市の海外在留邦人数と比較して最も多い。

 しかしながら、アジア系人口が増加し、最多の在留邦人数を記録しているとはいえ、リトル・ジャパンといったような、日本を表す地区はまだ出来上がっていないようである。ちなみに、第二の邦人数をもつロサンジェルスには「リトル・トーキョー」という地区がある。これには、移民の窓口として、ニューヨークのエリス島はヨーロッパ系移民の検問所、サンフランシスコのエンジェル島はアジア系移民の検問所といったような地理的事情があったように思われる。

3 ラトガース大学(Rutgers University)4)から日本を眺めて

 ラトガース大学(Rutgers University)という大学の存在を知ったのはごく最近である。日本語教科書開発で一緒に仕事をしたヤン教授はシートン・ホール大学(Seton Hall University)の名誉教授であった。その関係もあり、シートン・ホール大学のキャンパスを訪ねたことはあったが、ラトガース大学のような歴史のある教育研究機関が同じニュージャージー州内に存在しているとは知らなかった。

 ラトガース大学訪問が私に与えたものは実に多かったように思う。グローバル・プログラム担当のグーピン教授(Dr. Gopin)との出会いばかりでなく、ラトガース大学と日本人留学生との交流関係、ひいては「第二次世界大戦期におけるニュージャージー州の日本人」と題して、1940年代にニュージャージー州に所在したシーブルック・ファーム(Seabrook Farm)で偶然にも形成されるに至ったエスニック・ビレッジ(ethnic village)での日系人のことについての事例を提供していただいたことだ。

 ラトガース大学との関係で日本を見ると、官費留学生として学んだ日下部太郎と彼の恩師W. E. グリフィスとの出会いが、その後の長き交流を築いたことに一種の感動を抱いた。結局、何かを築き上げるための基礎となるのは、人と人の出会いである。

 話が横道にそれるが、個人的に昨年からNPOの活動に関わっている中で感じるのは、注目される事例をたどっていくと、人と人との結びつきがきっかけとなっている場合が多いということだ。

 人と人とを結びつけていくのは、一体何がきっかけとなるのだろう。ひとつの答えとして、人間性をあげることはできる。しかし、それだけでもない。それに加えられるのは、人が何らかのことを実行する姿勢であったのではなかろうか。日下部太郎の場合、それは学ぶ姿勢であって(もちろん、結果として成績優秀であった)、それがグリフィスに何かを訴えかけたように思われる。

 グリフィスは1871年、お雇外国人として来日した。その背景には、日下部太郎の存在があったと言われている。日下部太郎は越前藩主松平春獄の命を受けて、アメリカのラトガース大学で数学を中心に学んだ。言葉と習慣の違い、経済的苦労などを乗り越えて勉学に励んだ。グリフィスは教師として困難にある彼を励まし、それと同時に彼の人柄、優秀さに感激し、彼を生んだ日本を知ってみたいという動機になったようだ。

 また、個人的な話になるが、語学専門学校の日本語学科に在職中は、異文化の中で、経済的な苦労を重ねながら学習に励む多くの外国人留学生を見てきた。それが彼らの国、アジア諸国へ旅行してみたいという気持ちにつながったことを思えば、グリフィスが抱いたものと同種の感情だったように思う。

4 シーブルック<CODE NUM=00A5>ファーム(Seabrook Farm)

 アレキサンダー・ライブラリー(Alexander Library)の Toyama 館長から提供していただいた「ほうれん草の王様(The Spinach King)」に興味をもち、ここに記された日系人の様子をまとめてみたいと考えるに至った。これは1995年のニューヨーカー(New Yorker)に掲載された記事である。

 かつてニュージャージー州にはシーブルック・ファームという農場があり、その経営者C.F.シーブルックは「農業のヘンリー・フォード」と称されたほどだった。冷凍野菜の生産に携わり、農業に工場制方式を導入し、それに伴って必要となる多数の労働者を求めた。

 1920年代初頭、労働者募集の求人広告を地元新聞に掲載した。その結果、そこで働く人の多くが20世紀の動乱や困難な出来事から逃れてきた難民となった。例えば、イタリア・トルコ戦争を避けてきたイタリア人、1910年末から1920年初頭における白ロシア軍の残兵、世界大恐慌で失業したアメリカ人、ジャマイカ人、1940年代のドイツ人捕虜、1945年のソ連軍進攻から逃げてきたポーランド人とハンガリー人とチェコ人、さらに1944年から1947年の日系アメリカ人、1940年末から1950年初頭にスターリン支配から逃れてきたエストニア人とラトビア人というようにさまざまな民族が集まったので、結果としてエスニック・ビレッジが形成され、そこでは30あまりの数の言語が話されていたという。

 この筆者は「ほうれん草の王様」の息子で、ジョン・シーブルックという名だ。「ほうれん草の王様」とは、彼の父親のあだ名であった。シーブルック・ファームがクリーム状にした冷凍ほうれん草を、同ファームで栽培したほうれん草で製造していた。それを広報用に利用して命名されたものであった。

 日系アメリカ人市民同盟(The Japanese American Citizens League)の同窓会のような50周年のお祝い開催に出席することになったのをきっかけに、ジョン・シーブルックはシーブルック家の歴史をたどると同時に、そのお祝いに出席した600人あまりの日系アメリカ人(そのほとんどが2世、3世で、大半は中年に達していた)に接することでシーブルック・ファームで働いていた日系人のことを知ることとなった。

 日系アメリカ人市民同盟(略称 JACL、以下の表記は JACL)は1930年にシアトルで創設された日系2世の全国組織である。教育を受けていて、アメリカ文化に適応している2世のグループがアメリカにおいて集団としての利害を促進できるようにと結成された。

 JACL の会員になるためにはアメリカの市民権を取得していることが求められている。そのため、1世の日系人は除外されていた。日系1世のための組織には日本人協会(The Japanese Association)があり、これが初期の日系アメリカ人に強力な役割を果たしてきた。2世がアメリカ社会でその足場を拡げてくると、日本人協会の影響力は弱まった。

 1930年から1940年までの間、JACL には50の地方支部ができ、会員は5600人に膨れあがった。JACL は2世に日本との結びつきや伝統から離れるよう奨励し、さらに人種差別を克服する方法としてアメリカ式を受け入れ、アメリカ社会に適所を見出せるよう奨励もした5)。

5 日系アメリカ人、西部から東部へ

 1941年12月7日(アメリカ時間)の真珠湾攻撃直後、アメリカ大陸に住む日系アメリカ人は逮捕され、カリフォルニアばかりでなく、アリゾナ、アイダホ、アーカンソー等全米10箇所もの強制収容所に分けて入れられた。彼らに対する公式の謝罪が行われたのは、1988年になってからだった。法律で収容所帰還者は1人当たり2万ドルの補償金を支払われることが定められた。

 日系アメリカ人が収容所に入れられていた当時、シーブルック・ファームはアメリカ陸軍と取引を開始し、それが大きなビジネスとなったが、労働者不足に関する問題が残っていた。フィラデルフィアにあるアメリカ友愛協会(American Friends Society)から、収容所に入っている日系人を労働者としてリクルートできるかもしれないという話を聞いてきたジョン・シーブルックの父は、多くのアメリカ人に漏れず、殊に東海岸では強制収容所のことをほとんど知らないという状態だったが、これによって労働者不足を解消できるかもしれないと考えたのであった。そこで、シーブルック・ファームはスカウトを送り、祖父の「公正なる取引(Fair Deal)」を提供するよう伝え、アーカンソーの強制収容所の収容者が小グループをつくり、シーブルック・ファームを視察した。祖父であるC.F.シーブルックの約束は、すべての男女に賃金労働、暖房設備のある実用的な家屋、子どもへの学校教育の保証だった。その見返りに彼らは6ヶ月間の労働に合意しなければならなかった。

 日系アメリカ人は、真珠湾攻撃以降アメリカ政府の政策に翻弄されてきた。1942年に強制収容所への収容が決定されたが、その後1944年12月までに強制収容所が閉鎖されることになったので、彼らはそこを出なければならなくなった。 西海岸に戻ることを許されたのであった。収容所に収容されていた時は、ある意味、西海岸での反日的な情勢から守られ、静かに暮らすことができたが、収容所を出なければならなくなって、故郷へ戻るのを不安に思っていた人が多かった。シーブルック・ファームに働きにやってきた多くの人々は他のどこへも行かなかった。シーブルックは彼らの避難所になったのだ。

 当時を振り返って、リチャード・イケダ(Richard Ikeda)氏は「シーブルックは本物のコミュニティだった。そこには親戚関係に似たコミュニティがあったし、コミュニティへの義務があった。仕事はきつかったけど、だれもが同じ船に乗っていたように、一緒に苦しんでいた。葬式があれば、みんなで費用を分担した。誰かが薬を必要としたら、みんなはそれに貢献できることをした。」と語った。また、シーブルックは他のどこと比べても公然なる人種差別主義とはかけ離れたところにあった。ジョンの叔父は日系人に関するいかなる災いも欲していないことを、他の場所の人々に語っていた。

 バリー・シンプル(Barry Semple)というブリッジトン・ハイスクール(Bridgeton High School)の元歴史の教師は60年代当時まだ組織化されていなかったニュージャージー州の公立学校を統合しようと努力すると、KKK(クー・クラックス・クラン)に脅かされた。彼が何よりも戦争嫌いであったのは、日本人たちがシーブルックにいたからであり、彼らが前向きだったからであると後日語ったのだ。

 一方、ミチ・ウェグライン(Michi Weglyn) 氏はシーブルックに住んでいたころの両親の生活について、辛いものだったと語っていた。彼女は母親の手にひび割れができていて、その手の原因が1日中豆の仕分けで、治ることはなかったことを覚えていた。

 また、シーブルックの生活が辛いものであったことを記す、セイイチ・ヒガシデ(Seiichi Higashide)の本があった。その本には、「私たちは1日12時間労働だった。男性は時給50セントで、女性は35セント。残業代はなし。遅刻したり、病気で早退したら、5分単位で時給から差し引かれた。休日は2週間ごとに1日で、有給休暇はなかった。この労働条件はかなりきついと考えられた。」という記述があった。

6 日系人にとってのシーブルック<CODE NUM=00A5>ファーム

 強制収容所からやってきた600もの家族に家を提供したことから、C.F.シーブルックは多くの日系人子孫の記憶に残った。C.F.は日系人にとってある種の身請け人のような役割を果たしたのだ。

 エスター・オノ(Esther Ono)氏は現在シーブルックに美容院を所有しているが、シーブルック氏が私たちのために請け負ってくれたことをやってくれたので、いつも感謝していると言っていた。

 確かにC.F.シーブルックは日系アメリカ人の手助けをすることで、それが良いビジネスになった。彼らには驚くほど忠誠心があり、文句も言わず、一生懸命働き、シーブルック・ファームはそのような労働者を得ることで戦後大きな成功を収めることができた。C.F.はアメリカン・ドリームを実現させた。日系アメリカ人の労働者が、彼らの誠実さを試された時、C.F.シーブルックはアメリカについて信じられる何かを彼らに与えたのであった。

 ジーン・ナカタ(Gene Nakata)氏はシーブルックにやってきた時10歳であった。彼の父がカリフォルニアに戻りたくなかったのは、C.F.に忠誠心を感じていたからであったと語ったらしい。衣類をはじめ家具も何もかも祖父からいただき、C.F.なくして自分の所持品は持てなかっただろうと言っていたのを彼は覚えていた。

 シーブルックは家族経営のビジネスだったので、祖父はオーナーとしての義務感を持っていて、労働者も彼の一部だと感じていた。このようなシステムは極めて日本的であった。所属感は近代企業が取り戻そうとしているものである。

7 まとめ−日系アメリカ人に思いを馳せて

 日系移民とか、日系アメリカ人と聞けば、カリフォルニア州の農民を思い浮かべる。実際、日系アメリカ人の多い州は、カリフォルニア州、ハワイ州、ワシントン州、ニューヨーク州という統計が出ている6)。日本人が米国本土にある程度の数でまとまって移民したのは1869年が最初である。明治時代初頭、戊辰戦争に敗れた旧会津藩の武士ら40名がカリフォルニア州の農園に入植していたのであった7)。

 ニュージャージー州に住む私の知人の中に日系アメリカ人が3人いる。彼らは2世代にわたる日系人で、両親はかつて「移民の子ども」と言われた2世で、その子どもは50歳代になる女性で、いわゆる3世である。すでに両親は引退生活に入り、その子どもは白人アメリカ人と結婚している。3世の女性には完全なるアメリカ人だと感じることが多い。

 偶然にも2000年の夏、彼女の母親と話す機会が持てた。彼女としては、夫は高齢で日本語を忘れてしまっているので、日本語の話せる私と話さないと、日本語を忘れてしまいそうだと語っていた。彼女は、子供時代に日本語学校へ通った話や、最初の日本旅行の事前準備として食事の作法を教え込まれたことを懐かしそうな表情で話してくれた。もちろん、かつてロサンジェルスに住んでいて、強制収容所での経験もあったと思われたが、その詳しい話は聞けなかった。ただ、強制収容所から出て、彼女の従兄弟の住む中西部に向かう途上ずっと監視の目があり、ずいぶん嫌な思いをしたことなど、英語交じりの日本語で話してくれた。

 彼女が強制収容所の話をしてくれなかった背景には、「ほうれん草の王様」の中でも言及されていたことと同じものがあるように感じた。「ほうれん草の王様」の中で、日系アメリカ人の若い世代は、強制収容所の中で何が起きていたのか知りたいと思っても、親世代はその体験が辛すぎるからと言葉にする人は多くはなかったようだ。

 また、2000年10月アメリカのNPO視察のためにニューヨークを訪問した時、マンハッタン島の北部の高台に「イザベラ・ジュリアトリック・センター(Isabella Geriatric Center)という高齢者施設の存在を知り、さらにその施設では日本人を積極的に受け入れているという話を伺い、驚いたものだった。その施設を見学させていただいた時に、その施設に滞在する10人程度の日本人の方たちと昼食会をする機会を得た。

 その10人ほどの中に岐阜県出身の女性がおられ、彼女が日本人としてこの施設に入所した第1号になったことを話してくれた。その方は以前に米国滞在の経験があり、それが躊躇なく米国の高齢者施設に入所できた理由ではないかと思われた。

 日系2世の男性がその10名ほどの中に1名在籍し、彼と話をすることができた。彼はアメリカ軍に入隊した経験を持っていた。以前はカリフォルニア州に住んでいて、移転を繰り返しながら生きてきた。2年程前に妻に先立たれ、最後の地として選んだのがこの施設だったという。もちろん強制収容所での経験はあったのだろうが、彼はその話をしてくださらなかったし、私もあえて尋ねはしなかった。戦後、経済的にゆとりができて、よく夫婦揃って旅行に出たことを話してくださった。彼にとって一番幸せな時期であったに違いなかった。海外旅行をする時に必要なパスポートが取りにくかったことはあったらしい。

 すでに日系アメリカ人の世代は3世、4世が中心となっている。戦後、日本が経済的に豊かになって移民の必要性がなくなり、経済的事情から離れて、自分の望む地に移住することができる時代になった。現実に住居をアメリカに求める人々もいる。2001年9月11日のグラウンド・ゼロで行方不明となり、死亡確認された一人の日本人は現地企業で働く男性であった。彼もまた自分の意志でアメリカ生活を送っていた。ニューヨーク市を中心としたトライ・ステイト(ニューヨーク市通勤可能地区としてあげられている3州、具体的にはニュージャージー州、コネチカット州、ロード・アイルランド州)にもまとまった数の日系人が住んでいて、アメリカにおける新たな時代をつくり始めているようだ。

 私自身もパートナーとしてアメリカ人男性を選んだことで、将来どんなアメリカ経験ができるのか思いを馳せながら、文字を綴ってきた。最近、イスラム系(アラブ系)アメリカ人へのバッシングが続き、かつての日系アメリカ人への処遇に対する反省が生かされていないように感じ、残念に思っている。

1)『ナショナルジェオグラフィック海外旅行ガイド ニューヨーク編』

  日経ナショナルジェオグラフィック社、2000年、p 48 参照。

2)Fay Franklin “EYEWITNESS Travel Guides New York” Dorling Kindersley Book, 1993.

3)スーザン・グリーンバーグ「移民が変えるN.Y.」『ニューズウィーク日本版 2001年8月29日号』p42−45。

4)ニュージャージー州立大学(State University of New Jersey)とも呼ばれる州立総合大学である。1766年に Queen’s Collegeとして創立、1864年に国有地付与(land-grant)大学となり、1917年に州立となった。

5),6)Lan Cao & Himilce Novas “Everything You Need To Know About Asian-American History” Plume, 1996.

7)楠瀬 明子「地域をみる 日本人移住の歴史 第4回 アメリカ西北部」『海外移住第598号』、国際協力事業団、2001年。