X.資料
(1)米日財団への教育助成申請(二年次関係分のみ)
(2) 研修講話資料
@ 第3回研修(5月20日)
アメリカ合衆国から学ぶこと
−訪問先のラトガース大学(Rutgers
University)を中心に−
藤本 博(南山大学外国語学部英米学科)
はじめに
1.New Jersey 州(“Garden State”),New Brunswick 市について
(1) 地理的位置と州のプロフィール
(2) New Brunswick 市(Middlesex County)とその周辺について
・都市再開発
・Jonson & Johnsonの本社
・日本との姉妹都市提携−福井市、鶴岡市(山形県)
2.ラトガース大学(Rutgers University)について
(1) ラトガース大学の歴史と特徴−アメリカの大学のキャンパス
a 大学の正式名称−Rutgers-the State University of New Jersey
・1766年創立(全米で8番目)
b ・the first College Football game-Princeton vs.Rutgers
・幕末から明治初期にかけて日本から多くの留学生が学ぶ
c キャンパスの雰囲気−コミュニティーとしての大学
大学図書館
b 外国との大学との提携(研究・学生留学)−日本では福井大学、立命館大学他
(2) Jane Voortheers Art Museum
Thomas A. Edison Papers
3.日米文化交流の原点としてのラトガース大学
(1) ラトガース大学と日本の交流史
(2) 日米文化交流史の中のラトガース大学の位置
(ラトガース大学のJane Voorhees Zimmerli Art Museum に関連資料が所蔵・展示)
□ Verbeck, David Murray、William Griffis
□ 1866年以降の10年間に約40名がラトガース大学で学ぶ
(1865−85年までに約300名)
・横井左平太・太平(横井小楠の甥)、日下部太郎
・勝小鹿、岩倉具定・具経、畠山義成、服部一三、白峯駿馬、小川ぜん吉、工藤精一、
駒井重格、松方幸次郎
・13名がラトガース大学に入学、卒業できたのは4名
(3) 日下部太郎(1845−1870)の米国渡航の経歴
(4) William Griffisをめぐって
[詳しくは、別紙年表資料「日下部太郎、グリフィスの一生」「グリフィス日本年譜参照」]
おわりに
・ 明治初期−大正期−第2次大戦後の米国交流
・日米関係−アジア・太平洋の中での関係
【参考文献】
・清水克祐『アメリカ州別文化事典』(名著普及会、1986年)
・亀井俊介他編『日米の文化の交流小事典』(エッソ株式会社広報部、1983年)
・亀井俊介『アメリカの心 日本の心』(日本経済新聞社、1980年)
・アーダス・バークス編『近代化の推進者たち−留学生・お雇い外国人と明治−』(思文閣出版、1990)
・『よみがえる心のかけ橋−日下部太郎/W.E.グリフィスの日本』(福井市立郷土歴史博物館、1982年)
・R.A.ローゼンストーン『ハーン、モース、グリフェイスの日本』(平凡社、1999年)
・塩崎 智『アメリカ<CODE
NUM=00A2>知日派<CODE NUM=00A3>の起源』(平凡社、2001年)
ラトガース大学のこと
−第一期官費留学生・目下部太郎(1845-1870)に思いを馳せて−
私がアメリカ外交史家 Lloyd Gardner のもとで勉強するためラトガース大学(Rutgers-The
State University of New Jersey)に留学したのは1977年のことであった。約2年半に及ぶ滞在では、アメリカの大学独特のコミュニティ的な雰囲気に馴染めたおかげで、留学生活をエンジョイできた。同じキャンパスに学ぶ日本人学生約40名で“Japanese
Night”と称して、折り紙、書道など日本文化紹介の機会を持ったこともあった。
ラトガース大学は、その前身が独立革命直前の1766年に創立された Queen’s College に由来するアメリカで八番目に古い大学であるが、留学中にこの伝統あるラトガースに関わって興味深い事実を二つ知ることになった。一つは、この大学が
College Football 発祥の地だということである。1869年のラトガース対プリンストンが初の College Football Game のようで、試合が行われた
College Ave.Campus の体育館の地にこの記念碑が置かれていた。もう一つは、ラトガースが幕末から明治初期に日本人留学生を多く受け入れ、とくに第一期官費留学生の一人としてこの大学で学んだ日下部太郎が成績優秀者として日本人としては初めて
Phi Beta Kappa の会員に推薦され、1870年4月に不幸にも卒業1ヶ月前にして26歳の若さで病死するが、その誠実な人柄と学問への熱心な態度故に、日米交流の先覚者として語り継がれていることであった。ちなみに、1865年から1885年の間に約300名の日本人がアメリカに留学しているが、1866年以降の10年間に約40名がラトガースで学んでいる。
日下部太郎のことを知るきっかけは、私がラトガースで勉強を始めて間もない1977年10月に彼と彼の恩師W.E.グリフィスを追悼する仏式法要がキャンパス内の教会で営まれたことにあった(グリフィスは、お雇い外国人として1871年[明治4年]に来日し、著書『皇国』などを著し、日本の紹介者として有名)。日下部太郎の出身地である福井の青年会議所の人々が郷土の歴史的人物である彼を詳しく知るために1974年にラトガースを訪間した際に大学の所在地
New Brunswick 市内の墓地にある彼の墓碑が横倒しになっていたことがわかり、彼の墓碑修復と彼の足跡を語り継ぐことを働きかけた結果、福井市長がラトガースを訪問し、その折に営まれたのが前述の法要なのであった。この法要には、ラトガース大学総長他、New
Brunswick 市長、ニューヨーク総領事なども列席し、ここで大武・福井市長が墓地修復のため2,000ドルの寄付を公表したのだった。幸運にもこのような時期にラトガースに学んでいたのだが、当時近くのプリンストン大学におられ、ラトガースと日下部太郎の墓碑を訪ねることを希望されていたアメリカ研究の碩学、斉藤眞先生をご案内したことも今では懐かしい想い出である。日本思想史研究者の橋川文三先生もご一緒で、この時には日下部太郎の墓碑は修復され、他の日本人留学生の墓碑とともに立っていた。
日下部太郎は、開明派の越前藩主松平春獄の命を受けて1867年にアメリカに旅立ち、ラトガースでは数学を中心に学んだ。言葉と習慣の違いや経済的苦労にもかかわらず、在学中に読んだ本は約200冊に及び、困難にもめげない好奇心肝盛な人物であった(この洋書約200点など彼に関する資料は福井市立郷土歴史博物館が所蔵)。教師として彼を励ましたグリフィスが来日したのも、その人柄と優秀さに感激し、彼を生んだ日本を知りたい故にであったと言われる。
日下部太郎とグリフィスの足跡を偲び、日米文化学術交流を深める計画は、1978年に福井の県・市・大学・青年会議所を中心に「日下部太郎・グリフィス学術文化交流基金」が設立されたことで本格的に始まり、81年にラトガース大学と福井大学との学術交流協定が、82年には NewBrunswick 市と福井市の姉妹都市協定がそれぞれ締結された。また、1994年6月には、ラトガース大学 Jane
Voorhees Zimmerli Art Museum に「クサカベ・グリフィス・ジャポニズム・ギャラリー」が完成し、米国最大の「ジャポニズム」コレクションと共に、グリフィスの資料など明治初期の日米交流資料が所蔵されることになった。
ラトガース大学のある New Brunswick はニューヨークからは Penn Station から発車し
New Jersey の州都 Trenton に向かう New Jersey Transit の列車で約1時間のところにあり、ニューヨーク方面に行かれる機会がおありの方には、日米交流の源流の一つを訪ねることにつながるだけに、ラトガース大学と日下部太郎の墓碑を訪問することをお勧めしたい。私もこの夏にラトガース大学を久しぶりに訪ねる機会が持てそうで、今から楽しみにしている次第である。
A 第5回研修
歴史教育からみた米国理解
皇学館大学文学部教授 深草 正博
はじめに
1.コロンブスをいかに教えるか
(1)「発見」の意味−対抗的な見方
(2)インディアンと名付けた真の意味−「タテの異文化理解」教育
2.地名からアメリカ史の特質を読む−「地名教育」への示唆
3.アメリカ合衆国かアメリカ合州国か?
4.ペリーの日本来航航路と現代日本人の世界観−日本史の相対化
5.アメリカ史を環境問題から読む−「環境世界史学」の視点から
おわりに−ボストンは日本唱歌のふるさとか?
1. コロンブスをいかに教えるか
調査時:1996年6月下旬
対象:関西外国語大学短期大学部米英語学科1年生184名(男性3名、女性181名)
質問:次の空欄をうめよ。
1)1543年 ポルトガル人が日本(種子島)____________
2)1492年 コロンブスがアメリカ大陸______________
2.『アメリカンインディアンの悲劇』を見て学生が指摘したインディアンと白人の違い
アメリカンインディアン | 白 人 | |
土地 | 神聖的なもので個人が所有できない | 柵で囲い個人で所有するもの |
自然 | 人間も自然の一部として生きる | 開拓し利用するのがよい |
バッファロー | 生きるための食料として殺す | インディアンを滅ぼすため殺す |
条約、約束 | 口頭、必ず守る | 文書、すぐ破る |
戦い | 名誉のため、女子供は殺さない | 土地所有のため、女子供も殺す |
伝染病 | 免疫がない | 免疫がある |
宗教 | 系統だってない、自然をあがめる | キリスト教 |
住居 | 丸くて木や動物の皮 | 四角くて石や木 |
狩り | 矢、必要な分だけ | 鉄砲 |
性格 | 友好的 | 非友好的、白人以外は劣る |
農業 | 女性の仕事、男性は狩り | 男女ともする |
3.現在の世界地図にかさね合わされた15世紀の東アジア地図
4.ポルトガル人の西アフリカ航海
<出典>1〜3.→栗本一男『国際化時代と日本人』NHK.B.1985
4.→山口修『情報の東西交渉史』新潮出版.1993
5.竹内誠他『教養の日本史』東大出版、1987
<出典>1.2.→安田喜憲『森と文明の物語』ちくま新書、1995
4.ローマ以外の所に立つオベリスクの比較
7.→石弘之『酸性雨』岩波書店