第15師団(豊橋)騎兵第25聯隊の煉瓦造建築物の刻印煉瓦

 天野武弘


 
1 はじめに
 調査した煉瓦は、明治43年(1910)完工の旧陸軍第15師団騎兵第4旅団の騎兵第25聯隊の煉瓦造平屋建(2棟、当時は炊事場、その後、泰東製綱(たいとうせいこう)竃L橋工場の作業所)に使われていたものである。
 第15師団は日露戦争後の戦力増強のための4個師団増設に伴って明治41年(1908)に渥美郡高師村(現豊橋市)に配備された。その翌年に騎兵第4旅団(騎兵第25、26聯隊、日本軍唯一の騎兵旅団)が設置される。敷地の造成は明治40年(1907)12月から始まり、翌年2月から建築工事が開始された。建築工事を請け負ったのは大林組で、地元の建築業者も多く参加した。第15師団本部は現愛知大学豊橋校舎に置かれた。なお、このとき建てられた旧師団司令部庁舎(1棟木造2階建、瓦葺、建築面積1859m2、旧大学本館、現大学記念館)は1998年1月に登録文化財になっている。
 第15師団の廃止は第一次世界大戦後の軍縮の動きの中で、また新兵器の開発を基本とする陸軍軍政改革によって、大正14年(1925)3月に決定された(第4旅団司令部は存続)。その後、師団跡地に豊橋陸軍教導学校(昭和2年)、豊橋陸軍第一予備士官学校(昭和14年)が開校し、昭和21年(1946)に士官学校跡地に愛知大学が創設されている。このほか第二次大戦後は、第15師団跡地に高校2校(豊橋工業高校は昭和24年に現在地に移転、輜重(しじゅう)兵第15大隊の跡地)、障害児学校2校、中学校1校、小学校1校などが移転、創設され文教地区となっている。
 こんにち第15師団に関わる煉瓦造建物は限られた数になっているが、その一つとして騎兵第25聯隊の炊事場建物があった。しかし2001年になり、泰東製綱の移転に伴って宅地化されることになり、残されてきた煉瓦造の旧炊事場も解体となった。
 
2 刻印煉瓦の採取と刻印調査
 煉瓦造旧炊事場の解体は2001年7月に行われた。調査に訪れたのは7月11日であった。2棟のうち1棟はすでに基礎部分を残して解体、もう1棟も建物の三分の二ほどが壊され解体途中であった。許可を得て山積みになっていた煉瓦の中から刻印煉瓦を採取した。そのリスト(23種類50個)を次に示す。
 
表1 旧陸軍第15師団、騎兵第25聯隊の煉瓦造炊事場の刻印煉瓦リスト
刻 印 個数   寸  法   平均寸法   備  考
    1 ? ×110×55 手書き文字
 六   1 230×109×57  
 七   1 232×112×56  
 八   1 228×110×56  
 九
 
  2
 
230×110×58
225×109×57
228×110×58
 

 
 十   1 230×110×57  

 
  1
 
226×108×58
 

 

 



 
  4


 
222×109×56
229×110×56
230×111×58
226×107×58
227×109×57


 



 

 
  2
 
232×112×59
230×109×57
231×111×58
 

 

 
  2
 
230×109×56
229×110×56
230×110×56

 

 
  1
 
228×109×54
 

 
   かも?
  

 
  1
 
230×111×56
 

 

 

 
  2
 
228×109×55
228×110×55
228×110×55
 

 

 
  2
 
222×109×56
226×111×54
224×110×55
 

 
  △















 
17















 
230×110×56
230×110×57
230×110×57
230×111×57
226×108×54
226×109×56
230×112×58
230×110×57
230×109×57
230×109×58
230×110×56
228×110×56
232×111×57
? ×108×56
? ×109×56
? ×109×57
? × ? ×55
229×110×57















 
平均寸法は13個で
算出














 
  △


 
  4


 
226×105×54
230×112×57
226×107×56
232×110×55
229×109×56


 
△を二重に打ち間違えたものか

 
 
 
  1
 
224×107×56
 

 

 
 
 
  1
 
222×109×56
 

 

 
 
 
  1
 
223×105×55
 

 

 
 
 
  1
 
 ?×110×57
 

 
一を二つ打ったものか
 
 
  1
 
 ?×109×56
 

 
七を二つ打ったものか
 
 
  1
 
231×110×57
 

 
手書きのよう
 
 
 
  1
 
225×108×55
 

 

 
 
3 採取した刻印煉瓦について若干の考察
(1)2棟から採取した刻印煉瓦は23種類ときわめて多い。
(2)これらを詳細に見ると、少なくとも煉瓦製造工場は次の4系列(工場)が考えられる。
 @東洋組刈谷分局または大野煉瓦(同組の後進)製造の井桁印の煉瓦(明治15年〜)。  この刻印は水野信太郎氏によって明らかにされている。
 A漢数字の二〜廿七の12種類は、字体がほぼ同じ(型文字)であり、同じ工場でつく  られたものと思われる。数字は職人の責任印であろう。
 B五五、五六、五八の3種類は、型文字であるがAの刻印とは字体や文字の大きさがが  違っている。
 C△および△が二つ重なった刻印は、同一工場でつくられたと思われる。
 なお、Aの漢数字の刻印は、旧福岡県教育庁舎使用の刻印煉瓦と字体がよく似ている(『産業遺産研究』8号の水野信太郎「国内煉瓦刻印集成」との比較)。また、一一と七七の刻印は誤って二つ付けたものとも考えられるが、水野氏同資料によると、一一の刻印は広島水道局使用煉瓦とも似ているところがある。字体はAの漢数字のものとよく似ている。
(3)これらのうち、井桁印と五五〜五八の2系列の煉瓦は、明治30年(1897)築の三龍社旧製糸工場(岡崎市)の煉瓦造建物からも採取されている。
(4)煉瓦の大きさは、明治38年(1905)時点での国内煉瓦の5形態と比較すると、漢数字のものは作業局形(227×109×56)に近く、井桁印は並形(224×106×53)に近い。いずれも現在の規格煉瓦(210×100×60)より大きい。煉瓦の色は少し濃いめのみかん色を呈するものが多い。

本稿は、中部産業遺産研究会52回研究会(2001.9.16)で報告 (禁無断転載)


Update:2008/10/24  0000

(中部産業遺産研究会会員)
2003
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