わが国紡織技術の近代化と産業遺産
−ガラ紡績、官営愛知紡績所、自動織機−
 
天 野 武 弘


 
1・はじめに
 
 日本の工業近代化を進めた鍵は、江戸時代の技術ポテンシャルの高さにあったといわれる。それは幕末から明治初期にかけ洪水のように導入された洋式機械技術を、比較的短期日に吸収消化して発展させたことを指して言われる。そのことを示す一例として、たとえば繊維技術で言えば、江戸時代に発達した生糸を撚る機械である八丁撚糸機や布にする機械である高機のように、生産効率を上げるための複雑な機械仕掛けの技術が幕末期までに形成されていたことに見られる。
 日本の工業発展の一つの基礎を築くことになった紡織機械技術のうち、ここでは明治初期に開花したガラ紡の技術と官営の愛知紡績所を主とする初期綿糸紡績所の技術、および豊田佐吉をはじめとする織機の国産化の技術について、在来技術との接点を見ながら述べることにする。あわせて歴史の生き証人ともなるこれらの産業遺産についても紹介する。
 
2・ガラ紡績機の独創性と三河ガラ紡産業の発達
 
(1)ガラ紡績機の独創性
 ガラ紡績機はわが国の独創になる紡績機械といわれるもので、明治6年(1873)に長野県の臥雲辰致(がうんときむね)(1842(天保13)−1900(明治33))によって発明された。ガラ紡績機は明治10年(1877)の第一回内国勧業博覧会に臥雲辰致によって出品され、この時の最高賞であった鳳紋賞牌受賞し一躍有名になった。その後、愛知県の三河地方を中心に全国に普及していくことになる。
 
 ガラ紡績機が独創的な紡績機械といわれる理由は、18世紀にイギリスの産業革命期に発達し、その後の紡績機械の主流となるいわゆる洋式紡績と比べて、紡出方法が異なる紡績機械であったところによる。洋式の紡績機械であるミュール精紡機などでは、紡出する糸に回転を与えて紡ぎ出しているのに対し、ガラ紡績機はこれとは逆に綿の方に回転を与え糸を引き出すという方法が採られた。その紡出機構をまとめると次のようになる。
@駆動軸によって、綿(撚子(よりこ)という)の詰まったつぼが回転する
A上ゴロ(糸枠駆動軸)により、つぼ内の撚子の表面では綿繊維が引き伸ばされ、撚りが掛かりながら糸が紡ぎ出される。
Bつぼの回転は巻き取り速度よりいくぶん速く設定してあるため、しだいに撚りが強くなり、天秤のバランスがくずれて、つぼが徐々につり上げられ、つぼと遊鼓(ゆうご)が離れてつぼの回転が止まる。
Cつぼが止まっている間も巻き取りによる引き伸ばしがおこなわれるため、撚りが甘くなり、つぼは下降し、ふたたび遊鼓と接触して回転が始まる。
Dこの動作が繰り返される。
 この紡出機構について玉川寛治氏は、「紡出糸張力を検知し、糸むらを修正する天秤機構というフィードバック・オンオフ・ドラフト自動制御機構の発明によってはじめて実現したもので、…わが国の自動制御技術史上すぐれて画期的なもの」と高く評価している。この制御機構によって、洋式紡績では欠かせない工程となる綿をほぐし綿の繊維を伸ばし平行にそろえるなどの前工程を省略させ、綿から直接糸にするという数千倍の超高ドラフトを実現させることができた。世界でも洋式紡績のほかに広く普及した紡績機械はこのガラ紡績機が唯一といわれる。ここに発明者の臥雲辰致が賞賛される理由がある。
 ガラ紡績機のこのような独創的な発明には、一つのエピソードが残っている。臥雲辰致が子どもの頃に、綿を入れた竹筒を転がして遊んでいるとき、転がった綿筒から糸が紡ぎ出されたという話である。この機構を考案するヒントになった出来事といわれる。
 
(2)三河ガラ紡績業の盛衰
 愛知県の三河地方に最初にガラ紡績機が入ったのは、第一回の内国勧業博覧会が開かれた年の明治10年(1899)であった。40錘の手回し式のガラ紡績機が、三河ガラ紡績業草創期の最大の功労者となる甲村瀧三郎によってもたらされた。2年後の明治12年(1879)に動力を水車に改良したガラ紡績機が出現し、これが明治10年代後半に三河地方を中心に広がっていくことになる。明治15年(1882)には三河地方では6万8千錘が稼働するという急進ぶりであった。
 三河地方でガラ紡積業が普及した理由は、この地方が明治初期までは全国有数の綿作地帯であり、原料となる綿花が入手し易かったこと。また水車設置に適した河川が岡崎、豊田、額田の山間を流れる矢作川支流に多かったことなどがあげられている。
 しかし、ガラ紡積業発展には大きな試練が待ちかまえていた。1万5千錘というミュール精紡機を備えた規模の大きな大阪紡績(のちの東洋紡)が明治16年(1883)に操業を開始したことによる。この頃からガラ紡はしだいに洋式紡績に押されていくことになるが、それはガラ紡の糸質と生産性からくる問題が根本にあった。
 ミュール精紡機が細くて丈夫な糸を量産したのに対し、ガラ紡績機はその特徴ともなる天秤機構による間欠精紡のために、糸むらが避けられず、またつぼの回転すなわち精紡速度が遅いため、撚りがあまく強さが劣り、生産性も上がらないと言う問題であった。臥雲辰致は糸質改善に努力を重ねるが、ガラ紡績機の紡出機構ではミュール精紡機に対抗できる糸質の生産は無理であった。
 結局、ガラ紡積業者は明治23年(1890)に洋式紡績に対抗することをやめ、ガラ紡の糸質を活かした太糸生産に転換することになった。
 このような思い切った生産転換が逆に、ガラ紡積業を発展させることになり、三河地方では一大地場産業を形成するまでになった。 動力も昭和10年代には水車から電力へと転換が進み、設備錘数も 170万を超える盛況を見せた。第二次世界大戦中は戦時統制により生産は激減するが、とくに戦後の衣料不足の時代には三河地方を中心に全国で 400万錘を超えるガラ紡績機が稼働し、空前の活況をもたらした。
 ガラ紡積が発展した理由を技術面から見ると、一つはガラ紡績機が木製で構造が簡単であったため、地元の機大工によって安価につくられたこと。二つめは糸継ぎや糸質調整などの機械の調整、修繕が容易で、ガラ紡業者自らがおこなえたことであった。
 
(3)三河ガラ紡の産業遺産
 三河地方で大きく発展したガラ紡績産業は、いまでは三河地方にわずか10工場(1996年)ほどを残すのみとなった。すでに産業としては消えつつあるガラ紡であるが、矢作川支流の豊田、岡崎の山間に出向くと、所々に土壁でつくられたかつてのガラ紡工場や、水車のための堰堤や水路の遺構を見ることができる。その遺構はガラ紡産地ならではの景観となっている。
 これら地場産業を形成した工場遺構および、わが国独創の技術によるガラ紡績機は、いずれも後世に残すべき価値の高い産業遺産である。
 近年、産業遺産に対する関心の高まりもあり、ガラ紡績機が博物館等に保存されるようになっている。中部地域でガラ紡績機が保存される博物館、およびガラ紡績遺構の主なところは次のようである。
@ガラ紡績機が保存、展示される主な博物館等
 博物館明治村(愛知県犬山市)、日本和紡績工業組合(愛知県岡崎市)、一宮市博物館(愛知県一宮市)、産業技術記念館(名古屋市西区)、安城市歴史博物館(愛知県安城市)、堀金村歴史民俗資料館(長野県南安曇郡堀金村)
A産業遺産として残る主なガラ紡績遺構(現役工場を含む)
 小野田慎一ガラ紡績工場(豊田市大内町、明治30年(1897)のガラ紡積工場、現役最古の工場、水車が残る)、ガラ紡績用水車(愛知県額田郡額田町、直径6.4mの木製水車)、岡崎市滝町のガラ紡積工場遺構(水車ガラ紡発祥の地、工場、堰堤、水路等の遺構)、臥雲辰致顕頌碑(岡崎市郷土館)
 
3・わが国最初の官営紡績工場−愛知紡績所
 
(1)わが国初期綿糸紡績工場
 わが国の洋式紡績工場の嚆矢は、慶応2年(1866)創業の薩摩藩の鹿児島紡績所である。明治3年(1870)には同藩の堺紡績所、明治5年(1872)には鹿島紡績所が創業している。この3カ所を始祖紡績と呼んでいる。
 明治9年(1876)に新設された勧業寮(のちの農商務省)では、民間の工業奨励策の一つとして洋式の紡績工場の設置をすすめた。その奨励策は、2千錘の精紡機10セットをイギリスより購入し、無利息で10年の分割払いという条件で、民間から希望者を募った。その模範工場として建てられたのが愛知と広島の官営の紡績工場であった。民間から応じたのは次の10工場(十基紡と呼ばれる)であった。
 市川紡績所(山梨県市川大門町)、三重紡績所(四日市市)、下村紡績所(倉敷市)、玉島紡績所(倉敷市)、豊井紡績所(天理市)、島田紡績所(島田市)、長崎紡績所(長崎市)、遠州二俣紡績所(天竜市)、下野(しもつけ)紡績所(栃木県真岡市)、佐賀物産(操業に至らず機械は玉島紡績所に売却)、また、十基紡とは別に立て替え払いによる同様な紡績所である桑原紡績所(大阪府茨木市)、宮城紡績所(仙台市)、名古屋紡績所(名古屋市)の3つを含め、これらを初期綿糸紡績所と呼んでいる。
 
(2)官営愛知紡績所の紡績設備と模範工場としての役割
 このような背景により明治14年(1881)に開業した愛知紡績所は、2千錘のミュール精紡機を備えた紡績工場として、設立される民間工場の模範工場の役割を果たしていく。備えられた機械は、洋式紡績では不可欠とされる前工程の機械である梳綿機(そめんき)(櫛(くし)で解くように綿繊維を引き伸ばして平行にそろえる)、練(れん)条機(じょうき)(綿繊維のむらを平均化し、繊維を真っ直ぐに伸ばし平行状態に並べる)などミュール精紡機に至る一連の機械であった。機械の動力は洋式のタービン水車が使われた。
 愛知紡績所のタービン水車は、開業一年前の明治13年(1880)に横須賀造船所で造られている。一連の紡績機械がすべて輸入される中、何故か水車だけは国産であった。これは愛知紡績所に限らず水車を動力とした初期綿糸紡績所のすべてがそうであった。模範工場であった愛知紡績所をモデルにしたためであった。
 初期綿糸紡績所の建設ではその指導、助言に当った農商務省技師石河正龍(まさたつ)の役割が大きかった。石河は紡績所の立地に当たって、水車を動力にすることを前提にし、明治18年(1885)までに開業した13の紡績工場のうち、9工場に愛知紡績所と同様なタービン水車を設置した。石河は水車は国産でまかなえると判断したようで、ヨーロッパで開発されたフルネイロン水車という形式の水車を、下から吹き上げ式に改良して設置している。
 近年、そのタービン水車の図面が、二箇所の紡績所創業者宅などから発見された。島田紡績所と下野紡績所の水車図面である。両者
とも巻物に描かれた大きなもので、原寸大と二分の一の違いはあるものの同一形式の図面である。この時期に、国産初となる洋式のタービン水車を設計製作した石河の力量は讃えられなくてはならない。
 初期綿糸紡績所の二箇所から同じような水車図面が出てきたことは、その模範とされた愛知紡績所には、その元となる同様な図面があったことが予想される。
 紡績技術の伝習はもちろんのこと、紡績工場の立地から機械設備に至るまで、模範工場としての役割を担った愛知紡績所であったが、模範となるべき業績を上げるまでには至らなかった。その要因は次のようであった。
 @輸入された紡績機械は、綿繊維が30mmの米綿用の引き延ばし装置をもつ機械であったため、約20mmと繊維長の短い国産綿に合わなかった。A紡績所の規模を堺紡績所をモデルにした2千錘紡績であったため、生産をあげるには規模が中途半端であった。B機械の動力には主に水車が採用されたが、水量不足や水害などにより操業に支障を来すことが多かった。また一部ではそのための水路開削などに多額の費用を要した。
 明治16年(1883)に操業を開始し、わが国における本格的な洋式紡績のはじまりと言われる大阪紡績所では、1万5千錘のミュール精紡機と繊維長の長い外国綿が使用され、蒸気機関が動力として使われた。その後に大きく発展する紡績工場の方向が示される紡績所であった。
 このように愛知紡績所を含め初期綿糸紡績所は、上記3点の要因などにより、わが国紡績業の発展の立ち上げの時期に苦難の道を歩むことになり、のちの東洋紡に発展する三重紡績所をのぞき長続きはしなかった。しかし、愛知紡績所をはじめ全国に興った十基紡の存在は、紡績技術での教訓を与えたと共に、その後の大規模紡績工場の出現を誘う要因になったと考えられる。
 愛知紡績所は、広島紡績所が開業前に民間に払い下げられたため、唯一の官営の紡績工場として、わが国紡績業発展の先導役をつとめた。そして明治19年(1886)に民間に払い下げられた。なお、明治29年(1896)に火災により初期の工場は焼失してしまうことになる。
 
(3)官営愛知紡績所の産業遺産
 官営の愛知紡績所の遺構は、水車立地にふさわしい地形を残す岡崎市大平町の矢作川(やはぎがわ)支流の乙川(おとがわ)右岸にある。現在は日本高分子岡崎工場の敷地内である。4mほどの高さを持つ河
岸段丘面には、タービン水車が据えられていた石づくりの水槽が残り、その横には余水を流した総石造りの階段状をした余水路が口を開けている。いずれも創業当時に造られたもで、ほぼ当時の外観を保っている。
 この水車場につながる水路は、工場跡より1.8Km上流の乙川右岸の岡崎市丸山町の、竜宮の淵から導水されている。導水路は、現在は表流水こそほとんどないものの、当時と変わらない経路をたどっている。その水路の所々には石造りの水門などの遺構を残している。
 取水口施設は、花崗岩と人造石で造られた頑丈な樋門を持ち、樋門の取水側には花崗岩の水門を備えている。これらも創業当時のものと推定している。また水車場からの排水路も当時と同じ経路で流れている。
 なお現在この水路跡は、全経路に導水パイプが埋設され、日清紡美合工場の工業用水の取水施設として使われている。
 官営愛知紡績所の遺構は、紡績所の動力であった水車場の施設の一部と、水路をそっくり残している点で、初期綿糸紡績工場遺構の中でも特筆できる産業遺産となっている。また、水車を主要な動力にした全国にある初期綿糸紡績所の設立状況を解明する上にも価値の大きい遺構となっている。
 このほか初期綿糸紡績所の遺構として、東海地方には三重紡績所、島田紡績所、遠州二俣紡績所の三箇所がある。この中では、島田紡績所遺構に水車場と水路および建物の一部が比較的よく残っている。
 
4・豊田佐吉と自動織機への歩み
 
(1)地機と高機
 わが国での織布作業は長い間、地機(じばた)(いざり機)が広く使われ、明治末期まで自家用として用いられた。高機(たかはた)も絹織り用として早くから使われていたが、江戸時代中期の享保年間(1716〜1735)以後、西陣の織工により、丹後(丹後縮緬(ちりめん))、桐生足利地方などに広められた。とくに江戸時代後期の文化(1804〜1817)・文政(1817〜1829)以後、各機業地に普及した。高機が広く普及するのは、明治は入ってからで、とくにバッタンの導入によるところが大きい。知多地方の晒(さらし)木綿に高機が導入されるのは明治中期頃からであった。
 
(2)バッタンによる織布革命
 バッタン(飛杼(とびひ)・フライングシャトル)は、1733年(享保18)にイギリスのジョン・ケイによって発明された。バッタンは、それまで両手で投杼していた杼(ひ)を、杼に付いた紐を引くことにより片方の手で飛ばすことのできるようにした装置であった。これにより片方の手は筬打ちに専念できるようになり、製織能率を手織り機にくらべ3〜7倍にあげること
ができた。
 日本へは明治5年(1872)に西陣の技術者により伝えられ、明治7年(1874)の第2回京都博覧会に出品され初公開された。バッタンは、従来の高機に取り付けるだけで使用できたため、瞬く間に広がり、明治10年代には全国に普及することになった。この後、各機業地でバッタンの改良が試みられ、明治18年(1885)の特許法制定から明治後期までに、36件もの特許が申請されている。
 バッタンはまた高機を広く普及させる要因にもなった。明治40年(1907)の農商務省統計によると、手織機総数は75万台余、この多くが高機と推定されている。
 このようにバッタンはわが国の織布の生産に大きく貢献することになるが、取り扱いが容易で、製織速度が上がることだけでなく、織布の広幅化を可能にしたこと(従来は両手の間隔に制限)や熟練を不要にしたこと(織物のムラがすくない)も大きかった。
 
(3)わが国における明治初期の力織機
 力織機の最初の輸入は、幕末の薩摩藩であった。水力による力織機2台が安政年間(1854〜1860)に輸入される。
 わが国における力織機の製作は、明治10年(1877)の第一回内国勧業博覧会に見られる。そこでは3台の水車動力の織機が出品されている。実用的な国産力織機の登場は明治30年(1897)前後のころからで、その中心となったのが綿織用の豊田式(豊田佐吉)と、絹織用の津田式(津田米次郎)の力織機であった。
 
(4)力織機の国産化と普及
 綿織機では、明治29年(1896)に国産初の力織機が豊田佐吉によってつくられる。この時の動力は汽力であった。これに引き続いて、多田式(大阪紡績)、山下式、鈴木式などの織機が作られていく。
 絹織機では、明治33年(1900)に金沢の津田米次郎が津田式力織機を作っている。これに引き続き、山形の斎藤外市の斎外式など数多くの改良が続くことになる。
 このような国産力織機の発明者は、学校出の技術者ではなかった。おおむね機大工層の息子たちであった。豊田佐吉は大工の息子であり、津田米次郎は金沢藩の工匠の息子であった。
 力織機の普及は、明治27年(1894)の日清戦争以後、輸出向き綿布と絹羽二重の量産の開始と、簡便で割安の国産力織機の出現がその契機となった。とくに輸出用の均質織物の需要は、力織機による工場生産を必要とした。これにより国産力織機の開発が刺激され、開発された割安の国産力織機が売れていくことになった。
 織機1台の値段は、明治末期の桐生織物学校の記録によると次のようであった。
 独・ハルトマン社製力織機   1台 872円
 仏・ジュードリッヒ社製力織機 1台 389円
 津田式          1台 100円
 斎外式          1台  70円
 豊田式          1台  95円
 この当時の織機は、機械の土台となるフレームがまだ木製であった。耐久性と良質の織物、そして自動化のためには織機の鉄製化が要求されていた。
 
(5)豊田佐吉と自動織機への歩み
 豊田佐吉(1867(慶応3)−1930(昭和5))が織機製作に踏み出すきっかけとなった出来事に、明治23年(1890)の第3回内国勧業博覧会があった。この時佐吉は、全国から出品された織機を展示する機械館を半月余にわたって毎日見学したというエピソードが残っている。佐吉はすでにこの時、発明を生涯の仕事にしようと決心していた。佐吉が自動織機開発に着手したのは明治35年(1902)であった。
 ところで、動力織機自動化のための技術とはどのようなものであろうか。それは次の二点であった。
@タテ糸およびヨコ糸切断時に織機を停止させる装置。
Aヨコ糸が尽きたときに機械の運転を止めずにヨコ糸を補充する装置。
 前者の自動停止装置は、最初の動力織機を発明したときの明治29年(1896)に完成し、備えられていた。ヨコ糸の切断時またヨコ糸が尽きたときに自動停止する装置であった(明治31年に特許取得)。
 後者の自動補充装置は、明治36年(1903)に杼換(ひか)え式(シャトルチェンジ)による自動化に成功する。もちろんわが国最初であった。それは当時、イギリスの織機メーカーのノースロップ社が管換(くだか)え式(コップチェンジ)の特許を取得していたための方式であった。
 豊田佐吉は明治41年(1908)に初の全鉄製の織機を開発し、明治42年(1909)には、杼を積み上げてスライダーによって最下部の杼を送り込む形式(プッシングスライダー式)の自動杼換装置の特許を取得する。また大正3年(1914)には、輸出用の広幅織布生産のための豊田式鉄製広幅動力織機(N式)を製作する。これらはのちに完成するG型自動織機の母体となる開発であった。
 そしてついに大正13年(1924)に世界初の無停止杼換え式自動織機(G型自動織機)を完成する。当時の動力織機は毎分およそ200rpmほどの運転速度をもっており、杼換えのための時間は 0.1秒ほどであった。これを成し遂げた技術は、昭和4年(1929)のプラット社との特許権譲渡の協定に発展し、世界の織機メーカーに認められることになった。そのことはまたわが国の機械技術が世界へ脱皮する契機ともなった。
 このように、わが国の自動織機への歩みは豊田佐吉に代表される世界的な技術開発を伴っていた。国産の動力織機は、G型自動織機を頂点にして、昭和の初期までには外国織機に比肩する織機になっていった。
 
(6)産業技術記念館にみる動力織機
 東海地方で歴史的な動力織機を保存する所は、その量と質からみて産業技術記念館に代表される。その中からわが国の織機技術の発展に関わる主な動力織機について紹介する。
@環状織機
 豊田佐吉の究極の目標とされた織機で、杼の運動が従来の往復運動に対し、連続円運動と波動状の動きで円筒織物(織幅740cm)を織る機械である。展示品は佐吉が大正13年(1924)に製作したもので、唯一現存する織機。
A豊田式汽力織機
 明治29年(1896)に豊田佐吉が日本で最初に完成させた動力織機。この織機は150rpmで運転でき、織布工一人当たりの生産性を約20倍に高めた。展示織機は明治32年(1899)に製作され知多地方で稼働していたもの。佐吉が発明した織機の中で現存する最も古い機械。
B豊田式鉄製動力織機(L式)
 豊田佐吉は明治41年(1908)に、日本で初の全鉄製の動力織機を完成する。展示機は明治42年(1909)製作のもの。
CG型自動織機
 展示機は、大正13年(1924)11月に製作した記念すべき第1号機。佐吉が興した豊田紡織で稼働していたもの。
DG形自動織機の集団運転
 佐吉は、発明の真価を得るためには完全なる営業的試験を行うという信念を持っていたが、その試験工場を再現する形で、24台のG型織機を展示。豊田紡織で稼働していたものをベルト掛けに復している。
 このほか、外国製ではあるが日本に一台しか現存しない多丁杼動力織機と縫取紋織動力織機などがある。これらを含め展示される織機は、歴史的にも技術史的にも貴重な産業遺産となっている。また、展示される機械がすべての運転可能な状態となっていることも産業遺産としての価値を高めている。
 
5・おわりに−産業遺産は文化財−
 
 産業遺産を文化財と認識する人はわが国にはまだ少ない。紡ぐ、織る技術は人間の生活にとって欠かすことのできない技術である。紡織が工業生産されるようになった産業革命以後の紡織機械には、歴史に名を残す活躍をした機械が数多く知られている。産業革命発祥の地イギリスではこれらの機械の実物が博物館に保存展示され、後世にその姿を見せている。見るものを圧倒する迫力である。またそれが動くというところに、産業遺産はたんに遺物ではないことを実感させてくれる。
 振り返ってわが国ではどうであろうか。近年、文化財保護法が改正され、産業遺産が文化財として認められるようになってきた。また、企業博物館で産業遺産をテーマにするところや、工場や鉱山などかつての産業施設を利用した形で、一部では産業遺産に光があてられはじめてはいる。なかでも1994年に開館し、紡織技術の産業遺産を系統的に展示する産業技術記念館は特筆できる博物館である。しかしまだ全国的には紡織機械を産業遺産として展示する施設はきわめて少ない。公共の博物館に至っては寂しい限りである。
 産業遺産は人間のつくり出した歴史の生き証人であり文化財である。この認識が広まり、産業遺産への関心が高まることを期待するところである。

 
[参考文献]
(1)内田星美『日本紡織技術史の歴史』地人書館(1961年)
(2)玉川寛治「がら紡績機の技術的評価」『技術と文明』3巻1号、思文閣(1986年)
(3)玉川寛治「わが国初期綿糸紡績業における紡績機械の発展」『シンポジウム 日本の技術史をみる眼 第14回−日本の近代化に与えた紡織機械技術−講演報告資料集』中部産業遺産研究会(1995年)
(4)石川清之「明治10年代における水車紡績の展開(上)」『社会科学論集』市邨学園大学社会科学研究会(1982年3月)
(5)榊原金之助『ガラ紡績の業祖 臥雲辰致翁伝記』愛知県ガラ紡績工業会(昭和24年)
(6)絹川太一『本邦綿糸紡績史1、2、3巻』日本綿業倶楽部(1937〜38)
(7)天野武弘他『官営愛知紡績所遺構の調査報告(第二次)』(1990)
(8)『下野紡績所調査報告書』真岡市教育委員会(平成6年)
(9)都築正信「イギリス産業革命期における飛杼織機」『科学史研究』 188(1993年)
(10)石井正「特許からみた産業技術史」『発明』VOL.76 No1〜6(1976年)
(11)本林孝三・大野俊彦・河合光平「G型自動織機の自動化機構からみた豊田佐吉の研究と創造−産業技術記念館における産業遺産の保存−」『シンポジウム 日本の技術史をみる眼 第14回−日本の近代化に与えた紡織機械技術−講演報告資料集』中部産業遺産研究会(1995年)
(12)天野武弘『歴史を飾った機械技術』オーム社(平成8年)

本稿は、『「中部の産業・科学技術史研究会」活動報告書』平成10年3月、財団法人 科学技術交流財団発行に掲載  (禁無断掲載)


Update:2008/10/24  0000

(中部産業遺産研究会会員)
2003/10
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