豊川のだるま窯(瓦焼成窯)

天 野 武 弘


 
1.だるま窯とは
 だるま窯(地上式小型平窯、俗称だるま窯と呼ばれる)の原形は平安時代につくられる。桃山時代には完成。当初は焚き口は一つで外観が達磨が座禅している姿に似ていたことから付けられる。桃山時代の発掘例には焚き口が2つ付いており、この頃にはだるま窯を2つ背中合わせに付けた窯となる。形は達磨と違う形になったが俗称が今日まで使われる。その理由は定かでない。
 
2.瓦生産の歴史
古墳時代
 588(崇峻 1)年 百済より瓦博士派遣(飛鳥寺の建立、最初の瓦葺寺院)、製瓦技術の初伝来
奈良時代
 741(天平13)年 国分寺、国分尼寺の建立始まる、全国に瓦普及の始まり
平安・鎌倉時代  瓦の効用は、防水、造形美、防火、しかし重い、費用がかさむ
          この時代は竹釘で止める檜皮葺(ひわだぶき)や柿葺(こけらぶき)が発達、瓦葺きは後退
         平安時代以降平窯が瓦窯の主流となる。
         茨木市の総持寺境内で小型平窯が発掘、古代の地下式、半地下式の窯から地上式に構造変化。小型化と地上化がだるま窯誕生へとなる
室町時代     三州瓦の起源(安城の桜井村で瓦づくり始まる)
桃山時代     戦国武将によって城に瓦が使用され出す。需要が急増
         兵庫県宝塚市の旧清遺跡発掘の窯。全長3.1m、2口の焚き口を持つ。
           近世だるま窯の最古の発掘例
         1589(天文8)以前と見られるだるま窯が神戸市西区の如意寺で発掘
江戸時代
 初期      瓦は寺院、城、大名屋敷
 1628(寛永5) 江戸時代初期のだるま窯が姫路市大釜窯跡で発掘、一乗寺本堂の瓦窯と判明
 1657(明暦1) 明暦の大火、江戸城本丸、二の丸焼失。瓦は贅沢で消火の邪魔という利用で大火以後江戸の民家の瓦葺が禁止される。
 中期頃     三州瓦の地歩がつくられる(碧南、高浜あたりに定着)。江戸に船便
         産地発展の要因に、矢作川下流域に良質の粘土(三河土)
 1674(延宝2) 近江の三井寺出入りの瓦工西村半兵衛が棧瓦(さんがわら)を考案(軽く、安く、葺きやすい)
         京都、大阪方面に普及
 1720(享保5) 将軍吉宗、江戸の瓦葺禁止令を廃止。防火に瓦葺きは必要の理由から
 1723(享保8) 拝借金制度が瓦に適用され瓦葺が普及。瓦葺の屋根、土蔵造りの町屋、大名屋敷の海鼠壁(なまこかべ)といった江戸の町ができはじめる
 1857(安政5) 官営長崎製鉄所(現三菱重工長崎造船所)に最初の煉瓦造工場建設
          赤煉瓦焼成に瓦師が当たる
明治時代
 1873(明治6) 横浜でフランス人ジェラールがフランス瓦をつくる
 1902(明治35) 三河高浜の石原熊次郎がだるま窯を石炭炊きに改良
           燃焼室床にロストルを付け、風道を設ける
 明治末     農村でも瓦葺きが見られるようになる
大正時代
 1915(大正4) 動力式土練機ができる。専門業者の出現、量産化が始まる。
 1923(大正10) 手動式の瓦成型機考案(3年後に電動化したフリクションプレスができる)
 1925(大正12) 関東大震災で一時瓦の信用落とす。引掛棧瓦(明治初期に工部省営繕課の考案)を励行させる
昭和時代
  昭和初期    瓦葺きは全国的に普及
 1928(昭和3) 塩焼きの赤瓦が完成
 1929(昭和4))この年の「工場通覧」に、高浜に94名、新川に40名など碧海郡に162名の瓦業者が記録、瓦業者急増。瓦産地としての形態できる
 1946(昭和21) 福井の北陸窯業で初めてトンネル窯による釉薬瓦が生産
 1951(昭和26) 愛知県にトンネル窯導入(東洋瓦工業)
           昭和30年代〜40年代にかけ全国に普及
 1953(昭和28) 赤瓦が黒瓦(いぶし瓦)の生産を追い越す
 1955(昭和30) 真空土練機が普及
 1964(昭和39) 陶器瓦(釉瓦)が赤瓦の生産を追い越す
 1973(昭和48) ブタン焼成いぶし瓦が全国で普及し始める
 
3.豊川のだるま窯−犬塚製瓦所を中心に−
 豊川における瓦生産は、国分寺、国分尼寺の建立にその発祥を求めることが推測されるが、確証は見つかっていない。記録として残る最初の瓦生産は、管見では、碧海郡大浜郷鶴ヶ崎(現碧南市浅間町、山神町、新川町)から豊川の牛久保に移住した板倉文右衛門が、1799(寛政11)年に野口に転じて瓦業を行うという碑文(光輝院境内の石碑)に見ることができる。板倉文右衛門が最初に牛久保に移住した年は不明であるが、寛政年間初期かそれ以前であることは碑文から読みとれる。板倉文右衛門はその後三代続いて瓦業を営み、江戸末期から明治中期頃まで豊橋石巻の石灰焼成も行っている。
 野口町を中心にして瓦産地が形成されるのは明治に入ってからであろう。表に示すように10箇所ほどの瓦業者が明治時代に創業している。野口には5軒の瓦屋があって野口瓦と名が付くほど栄えたいた。当時はすべてだるま窯による瓦焼成であった。1988(昭和63)年現在残っていただるま窯は、野口町と接する八幡町の犬塚製瓦所にある1窯だけであった。だるま窯による操業はすでに1985(昭和60)年で終わっていた。その後一度も火入れされることなく平成になって取り壊された。
 
     表1 豊川の製瓦所
  製瓦所名  所在地 創業 廃業 備考



45





10
11
12
13
板倉文右衛門*1
加藤製瓦所
曽田栄次郎
山口清次郎
小松浅吉
犬塚製瓦所

生田福太郎
岩田糸蔵
板倉文右衛門*2
磯部金作
渡辺瓦店
榎本瓦店
杉浦
豊川市野口町
  〃
  〃
  〃
  〃
豊川市八幡町

  〃
  〃
豊川市牛久保町
豊川市国府町
豊川市本野ヶ原町
豊川市代田町
豊川市為当町
1799(寛政11)年
明治
明治
明治
明治
明治

明治
昭和初期
寛政年間初期?
明治
明治
戦後
不明
昭和10年代
現役
昭和戦前
昭和10年代
大正の頃
昭和60年

大正の頃
昭和10年代
明治20年頃
昭和初期?
S63時点現役
  〃
  〃

ガス窯

原源松より譲渡

M45に竹本吉五郎より譲渡



息子の代まで
ガス窯
ガス窯
ガス窯
*1:初代板倉文右衛門は、碧海郡大浜郷鶴ヶ崎(現碧南市)から牛久保に移住し瓦業を始める。寛政11年に野口に転じて瓦業を行う。三代目の板倉文平のとき廃業。
*2:初代板倉文右衛門が牛久保の光輝院境内で創業(寛政年間初期かそれ以前))。二代目板倉文右衛門が安政6年に牛久保で瓦業を行う。
 
■犬塚製瓦所の概要
 所在地 :愛知県豊川市八幡町鐘鋳場284
 創業年 :1912(明治45)年に曾祖父の犬塚庄二郎が竹本吉五郎の窯を譲り受ける。
      屋号ヤマ庄として、庄二郎、春夫(1984年現在80歳)、竹二郎と受け継ぐ
 廃業年 :昭和60年頃(だるま窯は1998年頃解体)
 だるま窯の築年:昭和24年頃(築30年以上経つ)
         当初は2窯あった。
         最盛期には窯は3,4年で作り替えた。
 築窯:本体と地下構造に煉瓦を1500〜1600個ほど用いた。地下の峠部分(犬塚春夫氏はピラミッドという)は川砂をたたいてつくった。峠と床との間は約50cmほどのすきまを付けた。床厚は50cmほどにした。
    床は煉瓦でつくり、床の畦は長手方向に5筋付けてある。畦のすきま(燃焼室から炎が通る道)は約200cmほど(実測では170〜220cm)、煉瓦幅は240cm前後である。焼成室の下部には床より20cmのところから高さ30cm、幅22cmの炎通過穴が畦に合わせて5箇所に左右それぞれにあけてある。
    本体の原形は煉瓦とくず瓦を骨格にして窯形を竹でつくった。これにこもを被せて赤土を塗り乾燥させた。さらに乾燥した赤土の上に順次赤土を塗り重ねていく。赤土にはスサを混ぜたが、内と外では分けて使った。外側は赤土とスサだけであったが、内側は赤土と粘土を焼いたものとスサを混ぜたものにした。
    築窯の日数は一ヶ月ほどかかった。
 窯の主要寸法:(本体外形)長さ610cm、幅330cm、高さ215cm、
        (燃焼室)高さ165cm、焚き口から燃焼室底面までの斜面長さ130cm、
             最底部幅130cm
        (峠・ピラミッド)高さ82cm、峠の斜面長さ160cm、    
        (焼成室)最大高さ170cm、焚き口面からの深さ88cm、幅210cm、奥行き210cm
        (焚き口)高さ35cm、幅40cm
        (窯口)正面、裏正面とも幅35cm〜50cm、上部幅90cm、開口部は上部160cm
        (焼成室と燃焼室の壁厚)28〜30cm
        (焼成室上部の壁厚)45cm
 だるま窯の規模:1000枚窯といわれた。近年は1200枚入れている
 窯詰め:4段積み。ひと並べは50枚くらい、平瓦では目板をかって積む
 製品:黒瓦(いぶし瓦)、注文に応じて種々の瓦を焼成、八幡神社用の瓦焼成の準備中
 焼成法:@1日目の朝から午後にかけ窯入れ
     A夕方より火入れ、窯の乾燥に入る(燃料はすべて木材、ガスは一切使用しない)
     B2日目の昼頃より本炊きに入る
     C3日目の朝、火を止め、松葉によるいぶしを行う(約2時間)
     D約48時間密閉する
     E5日目の朝、窯だし
 生産量:月に1回程度の火入れ
 
4.だるま窯の形態
(1)形状の変遷
平安時代:原形は焚き口が一つの平窯、瓦の出し入れは焚き口の反対側
桃山時代:達磨窯を二つ合わせた平窯、焚き口は左右に付く、瓦の出し入れは中央部から
明治時代:1902(明治35)に三河高浜の石原熊次郎がだるま窯を石炭炊きに改良
          燃焼室床にロストル(火格子)を付け、風道を設ける
                       ‥‥この窯が普及、今日に残る
明治時代:1905(明治38)に福井県武生の青木嘉七が大型の石炭炊きだるま窯(半倒焔式)に改造。越前瓦の業績に貢献。瓦窯の研究に没頭。瓦学の提唱。しかし果たせず。窯も普及せず。
(2)だるま窯の構造
 燃焼室に瓦を詰める。通常700〜1000枚、大きいものでは1200枚。4段ほどに積む。
 焼成室左右の燃焼室で石炭または木材で加熱。炎は焼成室床下および側壁下部から焼成室へ。
 炎の流れは下から上に昇る「昇焔式」。焼成温度は900〜1050℃。
 欠点は焼成室の上下で温度差が大きいこと。上部ほど焼きが甘くなる。
 
表2 だるま窯の比較
   犬塚製瓦所*1  カクダイ製瓦所*2  鈴木製瓦所*2  丸栄製瓦所*3
所在地  豊川市八幡町  豊橋市石巻町  豊橋市飯村町  高浜市高浜町
出身  碧南    高浜  高浜
操業年  明治45年  (現在3代目)  昭和8年  
操業停止年  昭和60年      
窯数   1   1   1   1
窯築年  昭和24年頃    昭和40年  昭和8年
窯停止年  昭和60年  昭和61年  昭和50年頃  現役
窯廃棄年  平成10年      現存
窯の形態  昇焔式      昇焔式
窯最大長さ  6100mm  5600mm    5600mm
窯最大幅  3300mm  4800mm    3400mm
窯最大高さ  2150mm  2000mm    2100mm
焼成室長×幅 2100×2100mm      
瓦枚数  1200mm  1000枚  1000枚  700枚
燃料  木材、松葉  木材、松葉  LPガス  LPガス
焼成温度      1100℃  1050℃
焼成時間  約36時間    約30時間  約36時間
窯出入期間
焼成回数/月
 4昼夜
 1回

 

 
 3昼夜
 2〜3回
原料土    自家の田    業者より購入
主な製品  いぶし瓦  いぶし瓦  いぶし瓦  いぶし瓦
*1:1984年調査による。
*2:1989年調査による
*3:1984年調査による。なお文献(5)によると、窯築年は大正12年、窯最大長さ5.64m、最大幅3.52m、最大高さ2.08m、焼成室の長さと幅は1.95m×1.92m、焼成時間は平成5年の時で実質焼成時間は21.5時間、冷却期間含めて4昼夜(5日カマ)となっている。
 
5.各地のだるま窯(犬塚製瓦所、参陽商工便覧、高浜案内、高浜2、豊橋2、豊田2、菊間)
    図、写真別掲
 
6.まとめ
 野口瓦の名でだるま窯生産した瓦業は、犬塚製瓦所を最後に豊川から消滅した。地下部分は残っている可能性を持つが今はアパートの駐車場としてアスファルト化されている。昭和24年頃から約30年間使われた窯は途中で何度かの修理はあったものの、だるま窯が一般には2、3年で築き直してきた点を考えるときわめて長寿の窯であった。昭和50年代操業終盤の頃は製瓦所の周囲が宅地化されたこともあり、操業時には黒煙への苦情が耐えなかったという。ガス化への流れにも坑し、薪材と松葉でのいぶしにこだわり続けていた。
 窯の形態からみると、明治後半に改良された石炭炊き後のロストルと風道を持つ窯である。下から炎の上がる昇焔式の窯である。焼成室の床の畦は、江戸時代の発掘例では、3〜4条で、明治以降は5条が一般化する(5)が、犬塚窯は5条である。畦つくりに煉瓦が使われていることからくる新しい手法の窯である。
 焼成室の規模をみると、窯の全長が時代が下がるに従い4mから5〜6mに大きくなる傾向が指摘される(5)が、表2から愛知県内で調査した4つの窯との比較では最も大きい。焼成室の規模は、ていたこと、また、だるま窯が全国的には大型化していく中で、三州瓦系だるま窯は明治期以来6尺(1.8m)を基準にし1辺が2mを超えない範囲でかつ室内を正方形に(5)という特徴を持っていたが、犬塚窯は2.1mと若干大きめであるが、正方形をきちんと形づくっている。1200枚詰めていたというように通常の1000枚窯より若干大きめではあるが、犬塚窯は三州系だるま窯の形態を持つ窯であったということができる。
 

*参考文献
(1)駒井鋼之助「三州瓦−その歴史的変遷−」『日本伝統産業史の研究』雄山閣、昭和47年
(2)駒井鋼之助『かわら日本史』雄山閣、昭和56年
(3)『高浜町誌資料第八 明治百年記念 三州瓦のあゆみ』高浜市町誌編纂委員会、昭和43年
(4)吹田市立博物館『平成9年度特別展 達磨窯−瓦匠のわざ400年−』、平成9年4月
(5)関西大学文学部考古学研究室「高橋栄・秋人瓦窯実測調査報告」『関西大学博物館紀要 第4号』平成10年
(6)藤原学『達磨窯の研究』学生社、2001年
(7)パンフレット「日本の屋根−瓦の性能・機能編−」三州陶器瓦工業組合
(8)パンフレット「三州瓦今昔物語」三州瓦工業協同組合
(9)天野武弘「豊川市の産業遺産」豊川市郷土史研究会報告、昭和63年9月
(10)天野武弘「豊橋地域の石灰生産」『豊橋市埋蔵文化財調査報告書第64集 西野石灰焼窯址』豊橋市教育委員会、2002年3月

本稿は、中部産業遺産研究会57回研究会(2002.7.7)で報告 (禁無断転載)


Update:2008/10/24 0000

(中部産業遺産研究会会員)
2003/10
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