愛知県鳳来町の布里用水と水路橋

Furi Water for Irrigation and a Watercourse Arch Bridge in Horaicho Aichi Prefecture 

天野武弘

AMANO Takehiro(Toyokawa Technical High School)

 
1.はじめに
 愛知県南設楽(みなみしたら)郡鳳来町布里(ふり)に、明治12(1879)年に完成した全長約5kmの布里用水と、その終末にあたるところに「めがね橋」と呼ばれる石積みの水路橋がある。布里用水は上流部3分の2は今も灌漑用水として使われているが、平成5(1993)年度よりおこなわれている同地内の農村活性化住環境整備事業(以下、整備事業と略)によって、残り部分の改修工事が進められている。それに伴い、水路橋の掛け替えが平成13(2001)年に予定されることになった。しかし、この橋は同地では由緒ある橋であることや、この地域では他に見られない橋であることから保存の声があがり、その文化財的価値の判断が求められた。
 
2.布里用水と水路橋の概要
(1)所在地
 布里用水は、豊川(とよがわ)の支流巴川の丸瀬橋付近に幅20mほどの堰堤をつくり取水し、巴川に沿う形で布里地内にまで導水した。水路橋は、布里地内の南端にあたる大谷貝津(おおやがいつ)と釜土戸(かまつちど)の境となる島沢川に架かかっている。
 
(2)布里用水の開さく
 鳳来町を流れる豊川右岸に位置する布里に、水田用の用水を開さくする計画がたてられたのは明治初年頃、地元の有力者4人によってであった。太田予志(芳造)を発起人とする城田伊平、北川清作、筒井太郎松の「布里用水四人衆」である。布里用水は明治8(1875)年に着工され、4年後の明治12(1879)年3月に完工した。工事費3000円(当時)であった。
 用水の開さくでは、深さ2〜3mの深堀や、数10mに及ぶ岩場の隧道掘削が難工事であった。用水には比較的大きな沢が二カ所あり、水路前半部の栃沢川では数10mの掛樋で渡し、終末部の島沢川では水路橋をつくって渡した。
 布里用水は、延長5kmでありながら落差は1mと少なかったことから、急な流れをつくったり、「袋水」と呼ばれる水たまりをつくって流す「押水流水法」を工夫した。また、水路中間地点の時谷(ときや)には地元でサイフォンと呼ばれる暗渠水路がつくられた。
 なお、開さくに先立つ測量では、長い傾斜を出す測量に提灯が使われたり、竹トンボ型の竹丁字を並べて水平を出すなどの方法がとられた。
 
(3)水路橋の建設と経過
 水路橋の竣工年ははっきりしないが、布里用水が完成した明治12(1879)年には完成したようである。施工者は、布里地内大谷貝津の石工、中尾又吉で、この棟梁のもと、部落の人達によってつくられた。その石積みでは自然石が利用されており、炭窯の工法を応用したともいわれる。橋は、荒石積みのアーチ型で頂部に水路がつくられ、道路橋としても利用された。
 この橋は、平成5(1993)年まで水路橋として使われ、この年に始まった整備事業によって、現在は水路施設を残したまま道路橋として使用されている。
 
3.現状調査
(1)布里用水の現状
 水路は栃沢川付近および終末部分をのぞいて、当時の流れを保っているが、堰堤と水路の大部分は鉄筋コンクリートで造り替えられている。堰堤は昭和28(1953)年の水害、水路は昭和34(1959)年の伊勢湾台風がその契機であった。栃沢川の掛樋のところは、水路を栃沢川上流に迂回させて造り替え、掛樋をなくしている。
 難工事とされた深堀の水路は、堰堤付近にその面影を残し、岩場の隧道は、屈んででなければ通れないほど狭い水路であるが、長さ30mほどあり、手堀の様子を残している。その少し手前には、山をくり貫いて水路を短縮しようと試みた隧道が残っている。地元で「掘り抜きマンボ」と呼ばれる長さ16mほどの隧道であるが、掘削を中止したままの状態で残っている。岩盤が固かったことと、資金が足らなくなったことからのようである。
 サイフォンと呼ばれる暗渠水路地点は、「掘り抜きマンボ」が貫通する出口付近であるが、サイフォンは確認できなかった。
 
(2)水路橋の現状
 水路橋は、全長9.40m、幅2.72m、高さ約5mの石積みのアーチ橋である。アーチ部は幅2.25m、高さ2.65m、奥行きは下部が3.80m、上部が4.10mと、アーチ部が少々膨らんだ形になっている。アーチ部の川底を含め、全面が自然石を使った石積みで施されている。アーチ部の天井には水抜き用(ゴミ排出用)の丸穴が開けてある。下流側の端から0.80m入ったところに直径0.36m、上部に向かい2.10mの長さで、橋頂部の水路底まで通じている。
橋頂部の水路は、下流側の端から0.25mのところに幅0.33m、深さ0.34mで橋全長に渡ってつくられている。コンクリート造の水路であるが、これは後につくり替えられたものである。
 石の積み方は、切石は一切使っていないようで、自然石の丸石を主体に使ってある。また、石積みの目地にはたたきが施されているようである。天井には所々に小さな鍾乳石が長さ数cmで出来ており、橋の躯体はたたき(人造石)構造とも予想される。現在、目地はセメントモルタルで補修されている。これは後補のものと思われる。
 なお、橋周辺の水路は、下流側は痕跡をとどめているが、上流側は整備事業によって旧状は残されていない。
 
4.布里用水と水路橋の価値
 布里用水は、明治初期に地元の手で開さくされ、地元の水田開拓に多大な貢献をした用水である。全長5kmのうち残された3分の2の水路部分には、明治初期に手堀された水路工事の跡が残っている。とくに水路終末に設置された水路橋は、次のような価値を有していると考えられる。
@水路橋としての特徴を残す
 布里用水の水路橋は、橋の上部に水路を持つ、水路橋としての形態をよく残している。全国的に有名な水路橋としては熊本県の通潤橋(つうじゅんきょう)(国指定重要文化財)がある。布里用水の水路橋は規模から見て通潤橋とは比較にはならない小さなものであるが、石積みのアーチ橋であること、橋の中央のアーチ部に水抜き穴が施されていることなど、通潤橋によく似た形態となっている。また小さなアーチ橋であるが、アーチ上部が厚く重厚な感じを与え、美観的にもバランスがとれているように思われる。
A東海地方で唯一、最古の石積みアーチの水路橋
 水路橋としての石積みアーチ橋は、馬場報告(1)によると、愛知、岐阜、三重、静岡を含めた東海地方で報告されておらず、わずかに長野県で2例が報告されているだけである。したがって、布里用水水路橋は東海地方では唯一の石積みアーチ橋と思われる。
 また、建設年代からみても、長野県の2例は明治42(1909)年(久保洞水路橋)と、大正15(1926)年(掛渡井通水橋)に建設のもであり、明治12(1879)年頃竣工の布里用水水路橋は、この地方では最古のものと考えられる。
B「たたき」が使用される
 在来の土木、建築の工法である「たたき」が橋の躯体に使用されている可能性がある。鉄筋コンクリートが普及する過渡期の工法として使用されてきたたたき工法の初期の構造物と考えられ、明治初期に規模の大きな橋に使用している点で、この地方では最初の例とも考えられる。
C地元で由緒ある橋
 水路橋は、布里用水の記念碑的存在であり、また地元では、めがね橋として親しまれ、生活道としても長い間使用されてきた橋である。
 
5.まとめ
 以上の観点より、とくに水路橋は、地元で由緒ある橋として親しまれた橋であること、水路橋としての形態を備えた橋として東海地方では唯一の橋と思われること、技術的にもたたきが応用されている可能性が高いこと、美観的にもすぐれていることなどから、産業遺産として価値、また文化財的価値を有するものと位置づけた。

 
(注1)馬場俊介『近代土木遺産調査報告書−愛知・岐阜・三重・静岡・長野−』名古屋大学工学部土木工学科、1994年2月1日
[参考文献]
 鈴木隆一「布里用水建設の義人4人衆」『広報ほうらい』昭和59年2月15日および、同年3月15日号
[付記]
 調査では、鳳来町教育委員会、鳳来町史編纂委員の林正雄氏、地元布里の太田義一氏、城田了氏にお世話になった。また、岡山大学環境理工学部の馬場俊介教授にご教示をいただいた。感謝申し上げます。

本稿は、産業考古学会1999年全国大会(茨城県竜ヶ崎)研究発表講演論文集(1999.11.13)に掲載

(禁無断掲載)




Update:2008/10/24 0000

(中部産業遺産研究会会員)
2003/10
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