地場産業を育てた水車
−東海地方を例に−
 
天野武弘

 
1.はじめに
 水車は日本においては、古くから人に代わる動力源として使われてきた。灌漑用として、米搗用、産業用として、とくに江戸時代には広く普及した動力源として無くてはならない存在であった。また多くの絵画にも描かれたように親しみのある動力源でもあった。別の見方をすれば日本は水車に適した河川を多く持っていたということである。谷筋を一気に下る水流は、日本の河川の特徴を現しているが、水車動力にとっては比較的短い距離で落差や水量を得ることができという利点を持っている。水車は日本では動力源としてもっとも適したものとして広く普及する要素を持っていた。
 水車が油絞りや米搗き、陶土粉砕用など産業用に使われるのは江戸時代の頃からであるが、それが広く使われるのは明治に入ってからであった。とくに産業近代化による西洋技術の導入がそれに拍車をかけた。産業の発展と共に木製の大輪を持つ在来型水車も爆発的に数を増やしていくが、それとは別に洋式の水車タービン(水タービン、水力タービン、タービン水車とも呼ばれる)の導入はそれまでの日本にはなかった新しい産業を生み出すきっかけをつくった。すなわち発電であり、大出力を可能とする例えば炭坑の排水や紡績工場などの工場動力としてであった。
 水車タービンや火力による発電の開始は、工場の動力源を水車から電動機に換えていった。その流れは、水力発電所が各地に建設される明治中期以降、しだいに加速され、例えば三河のガラ紡産地では昭和の初めには電力が水力を上回るというように、水車の時代の終焉を迎えるようになる。水車が東海地方から姿を消していくのは1959(昭和34)年の伊勢湾台風による壊滅的な被害を被った頃からである。しかし、地域によっては連綿として今日まで現役で稼働しているところも僅かではあるが存在している。
 東海地方においては地場産業を育てた水車として、愛知のガラ紡績用、愛知や静岡の製材用、静岡の製茶用、岐阜の陶土用などがある。発電や洋式紡績などの動力源としても使われた。これらを主にかつての水車の果たした役割やその使われ方、動力伝達機構などについて述べる。
 
2.東海地方の水車

■ガラ紡水車
(1)ガラ紡の歴史
◇臥雲辰致(がうんときむね)の発明
 1873(明治6)年、ガラ紡機(手回し式)が長野県の臥雲辰致によって発明。
 1877(明治10)年、第一回内国勧業博覧会で最高賞を得て一躍有名になる。
   全国に普及し、とくに愛知県の三河地方ではガラ紡の一大産地を形成する。
◇水車紡績
 1877(明治10)年12月、ガラ紡機にはじめて水車動力が付く。
 愛知県幡豆郡西尾町(現・西尾市)の宮島清蔵が額田(ぬかた)郡常盤村滝(現・岡崎市滝町)の青木川沿 いに掛かる野村茂平次の水車を借りて操業。
 ガラ紡水車は、西三河地方を流れる矢作川(やはぎがわ)流域の河川に並び、水車紡績といわれる。
 1888(明治21)年、額田郡内の水車紡績業者481名、112,290錘を数える急速な発展を遂げる。
◇船紡績
 1878(明治11)年、船紡績が始まる。
  船紡績とは、船にガラ紡機を積み、繋留した船の両側に水車を付け、川に流れで水車を回し  て動力とするもの。
  幡豆郡の鈴木次三郎が矢作川に船を浮かべて操業したのが最初。
 1898(明治31)年頃には100隻余の船紡。この頃が最盛期。
 1934(昭和9)年に消滅。
◇電力の導入
 明治末に三河のガラ紡工場に電力導入が試行。
 1932(昭和7)年、水車紡績の中心地岡崎、豊田の山間に電力が導入。急速に電力に切り替わる。
 1933(昭和8)年、経営者数451名(紡績錘数約43万錘)のうち、
           電力38.0%、水力57.5%、電力水力併用4.6%
 1940(昭和15)年、675名(約100万錘)のうち、
           電力59.4%、水力28.6%、併用12.0%と電力が水力を超える
 1957(昭和32)年、旧三河ガラ紡糸工業組合の経営者数1373名(130万余錘)のうち、
           電力96.1%、水力0.4%、併用3.5%と水車はほぼ終焉
 2002年現在、水車稼働は皆無。ただしガラ紡用水車(在来型)は5カ所に現存。
           いずれも在来型で、岡崎に1(鉄製)、豊田に3(鉄製)、額田に1(木製)
 
(2)水車が残るガラ紡工場
◇小野田和紡績工場(愛知県豊田市大内町)
創業:1897(明治30)年9月
操業停止:2000(平成12)年5月8日
工場:創業時に建てたものに一部増設
水車:1926(大正15)年に鉄製に更新(現在に残る水車)、当初は木製
   水車は1971(昭和46)年頃に使用を停止。
水車の諸元:直径3.6m、幅0.68m、落差3m、上掛け式水車、平均2馬力ほど
電力の導入:小野田工場の地域に動力線が敷設された1934(昭和9)年。以後水車と併用。
稼働機械:ガラ紡機が2台(896錘)、合糸機(7錘)1台、撚糸機1台(168錘)←2馬力のモータ
     打綿機(よりこ巻機付き)1台、ふぐい1台←1台ずつ直結
      以前は、すべて水車1台で運転、水量の少ない時は打綿機とガラ紡機を交互に運転
堰堤:自然の大岩を利用、大正の頃に造り替える、堰堤高さ約2.8m、人造石堰堤
水路:40m
 
◇加藤銑三ガラ紡工場(愛知県豊田市大内町)
創業:不詳、大正時代という。
廃業:1980(昭和55)年頃
水車:1948(昭和23)年頃に豊田市内の鉄工所製、4分割にしたものを現地で組み立てる。
   直径3.063m、幅0.724mの鉄製、落差4m、上掛け式。形態は小野田和紡績のものと同じ
   1977(昭和52)年頃まで稼働
稼働機械:ガラ紡機が2台(1280錘)、合糸機が2台(14錘)撚糸機が1台(240錘)、打綿機、     ふぐいが各1台
堰堤:川幅9m、右岸に取水口、高さ約1.35m、コンクリート造
   昭和20年代後半に造り替える、それ以前は丸太づくり
水路:長さ126m
◇滝川沿いのガラ紡遺構
 滝川沿い800mの区間に水車動力のガラ紡工場が10カ所、うち遺構7カ所を確認
堰堤の構造:コンクリートおよび石積み、水量の少ないときは全水量を取水できる構造
水路の長さ:30mの短いものから最長126m、平均55m
落差:7カ所の工場間の距離約810mで40.3mの標高差、およそ100分の5の急勾配
   堰堤から水車までの落差は3mから5m、上掛け式水車にできる条件を備える
   落差のとれないところは、中掛け式にして水車の直径を大きくして使用
伝達機構:1〜2段の歯車変速と、カウンターシャフトを2〜3本経由、平ベルト伝動
     水車は床下、カウンターシャフトは天井が一般的
     水車出力は水量によって変動、聞き取りでは平均2〜3馬力
 
■製材水車
 東海地方の製材産業は、明治初期に天竜川流域から始まった。天竜川中下流の遠州地方、愛知県東三河の豊川(とよがわ)下流の豊橋、木曽材を主に製材した名古屋地域が主な産地であった。とくに天竜川流域は、1886(明治19)年に金原明善が着手した植林事業などによって、全国的にも林業、製材業の先進地として栄えた。大正時代に入り、輸入材が増えるに従い、静岡県清水を中心にした地域の製材が大きく発展するが、一方で、昭和初期の経済不況による輸入材の減少や国有林の伐採は、国産材の生産を盛んにさせ、とくに山間部にも中小の製材所を林立させた。その山間の製材所では、おもに水車が動力として使われた。河川を利用した在来の技術で設置することができ中小の製材工場の主要な動力源として広く使用された。しかし、昭和10年代には電力が普及し、水車は減少の一途をたどっていくが、なかでも戦時統制による整理統合は水車を動力とする中小の製材工場を激減させた。戦後一時は水車の復活も見せたが、季節による水量の不安定さからくる動力の不足や不安定さは電力への傾倒を強めた。とくに、1959(昭和34)年の伊勢湾台風による被害は大きく、天竜川流域や、豊川流域では昭和30年代には製材用水車はほとんど姿を消すことになる。
 
(1)大谷製材所(静岡県天竜市阿寺)
 *東海地方では数少ない現役水車、製材用では唯一の現役水車
創業:昭和初期、経済不況で輸入材の圧迫がなくなり、国産材が有利になっていた頃
工場:工場は第二次大戦直後に新築、旧製茶工場を利用
   工場立地は、川面から高さ3〜4mの崖面が形成される地。
   12間(約23m)の工場地下10mほどは、高さ2〜3m床下スペース。ここに水車を設置。
   伝動装置も床下スペースに設備。
水車:直径5.3m、幅0.92m、水受数30個、鉄製水車、上掛け式、出力25〜30馬力
   昭和20年代半ばに鉄製(それまでの木製水車は10〜15年の寿命)に更新。
   1980年頃亀裂の入った主軸を取り替え、水車は石垣囲いの中、落差は8m
伝動機構:水車から歯車で約4倍に増速、機械へは3〜5つの中間軸を経由して順次伝動。
稼働機械:帯鋸2台、横切丸鋸1台ほか
堰堤:幅25m、コンクリート、かつては丸太組
水路:長さ200m余、コンクリートおよび石垣造り、幅1.5m、深さ0.55m
水車稼働日数:受注生産を主に伐採から製材まで一貫生産のため、水車稼働は平均月に10日ほど
水車稼働理由:動力線が引かれてない、電力費がかからない、「支障ない」水車への信頼感
 
(2)豊川流域の水車製材遺構
 豊川流域の製材が盛んになるのは、段戸山(設楽町(したらちょう))御料林が払い下げとなった1919(大正8)年から1921(大正10)年頃。
 1934(昭和9)年、北設楽郡に59工場と最盛期を迎える
 1941(昭和16)年、戦時下の木材統制法で、水車製材は整理統合の対象となり急速に消滅
           確認した水車製材所は、豊川流域に31箇所
@北川製材所(愛知県南設楽郡鳳来町川合)
 1963(昭和38)年まで水車による製材がされる
 豊川流域で最後の水車製材。
 
A東川製材所(愛知県南設楽郡鳳来町湯谷(ゆや)温泉)
創業:1908(明治41)年
廃業:1945(昭和20)年に戦時統制によって閉鎖、戦後再開。直後に火災で焼失廃業。
遺構:鉄製の在来型水車が現地に残る。豊川流域で現存する唯一の製材用水車
   直径5m余
   堰堤:川幅いっぱいに作られる。高さ数10cm、丸太とコンクリート。
   水路:長さ300m余、取水口をふさぎ「散歩小路」として観光道に利用。
 
B高野製材所(愛知県南設楽郡鳳来町下吉田)
創業:1909(明治42)年。黄柳川(つげがわ)沿いでは最初の製材所
廃業:戦時統制によって閉鎖、戦後再開されることなし。
遺構:水路の一部が痕跡をとどめる程度。
   創業者宅に、創業当時の水路工事関係の「工事設計書」や図面が残る
「工事設計書」によると、
   水路長さ144間(約240m)、自然の岩を利用して10尺(約3m)の堰堤(松材と石積)
   材木業者に配慮し、筏流し口と、魚道を付ける(設計変更を求められる)
   水路幅3尺(約90cm)、深さ1尺(約30cm)の掛樋。
      1927(昭和2)年に水害にあい、一部コンクリート製の水路に作り替える
   水車は、水受数16個の木製在来型水車で、縮尺図より推定直径約7m
 
C横川製材所(愛知県南設楽郡鳳来町名号(みょうごう))
創業:1928(昭和3)年、1931(昭和6)年に水車設置。
廃業:1961(昭和36)年
水車:タービン水車(島田駅前の大石鉄工所製)、コンクリート水槽内に設置
   工場床下に伝導装置、
遺構:1996(平成8)年に工場解体、石垣造りの水路が残る。
   水車と伝達装置の一部が鳳来町のやまびこの丘資料館に保存展示予定
 
■製茶水車
(1)製茶産業の歴史
・日本茶は、1859(安政6)年の横浜港開港以降、明治期に日本を代表する輸出商品  
・その中心を担った静岡県は、1900年代に茶業の基盤を築き、1930年後半には全国有数の生産量・茶業は栽培・摘採・製茶・再製の各工程で、多数の機械が使用される巨大な装置産業
・とくに製茶工程の機械化は、明治期から積極的に行なわれた。最初の機械は、1897(明治30) 年に高林兼三が開発した粗柔機 
・製茶機械導入の黎明期には人力・家畜・蒸気機関・水車・発動機、電動機などが使用。
・大井川の上流域の「川根茶」は高品位で香気に優れていることで知れている。 
・機械製茶(蒸熱(じょうねつ)→冷却→粗柔(そじゅう)→揉捻(じゅうねん)→中揉(ちゅうじゅう)→精揉(せいじゅう)→乾燥の工程)が確立した1910年代から 1950年代にかけこの一帯に水車を製茶機械の動力源にした工場が多くできる。上田工場もその 一つ。
・1960(昭和35)年頃から各機械に電動機を直結する動力分散型が主流となる。
・水車は、1955(昭和35)年前後に多発した風水害で壊滅的被害を受け終止符が打たれる。
 
(2)上田製茶工場(静岡県島田市笹間下大平)
創業:昭和初期
操業停止:1999(平成11)年まで水車を動力源として製茶機械を稼働
水車:ぺルトン水車、直径0.62m、バケット14枚、出力2馬力(豊水期)〜0.5馬力(渇水期)
伝達機構:地下にペルトン水車、天井に動力伝達装置、平ベルト車で各機械に伝動
稼働機械:1950(昭和25)年頃に製茶機械を一式導入、1965(昭和40)年頃製茶機械を更新
     米搗き、製材機械を付属
堰堤:堰堤は無し、滝壷を利用して取水
水路:全長122m、5インチ(127mm)塩ビパイプを利用、工場裏山上水槽に貯水後、水車に送水。
   落差12m。
   水は水車のほか、洗い水や山女の養殖用にも使用

■陶土水車
 岐阜県東濃地方で磁器用の土の生産が始まったのは、天保の頃(1830-44年)
 磁器用の長石質原料を粉砕するため1846(嘉永3)年に水車を動力とした千本杵が導入
 明治初年の頃には、水車1台で平均10〜20本の杵。水車径は平均で1丈2尺〜3尺(約3.6-3.9m) 1873-4(明治6-7)年に、水車数は54台、杵数約540本が稼働
   水車数の増加は、江戸時代の窯株の統制が1871(明治4)年に廃止が誘因
 1881(明治14)年の土岐郡(現土岐市、多治見市、瑞浪(みずなみ)市、笠原町)には378台の陶土水車が記録
 1914(大正3)年、洋式の粉砕機械トロンメルが導入
     水車タービンも大正時代に導入
 1921(大正10)年に電力導入
 1949(昭和24)年、在来水車は20台約20%に減少
 1955(昭和30)年、佐々良木川(ささらきがわ)流域の釜戸(かまど)地区101台の水車が記録
   この地域では、水車とトロンメルによる石粉づくりが長く行われる
   ここに東濃地方で唯一となったトロンメル水車が陶土工場稼働
 
◇安藤工場のトロンメル水車(岐阜県瑞浪市釜戸町石拾)
創業:1900年代(明治30年代)
工場立地:神徳川(じんとくがわ)沿い
水車:当初は木製水車(千本杵)
   1977(昭和52)年2月に鉄製に替える、10年ほど前に再度更新(町内の鉄工場製)
   月に20日ほど稼働(フル稼働)
水路:全長160m(コンクリートと鉄製掛樋)、水田にも利用
堰堤:石とコンクリート
動力伝達:歯数は水車軸側が118枚、トロンメル側が65枚の歯車伝導
稼働機械:トロンメル(1000kg)1台、第二次世界大戦後に設置、
電力:1965(昭和40)年頃、電動機(3.7kW)設置
 
◇釜戸地区のトロンメル水車
 1984(昭和59)年の釜戸地区を調査した記録によると、
水車設置状況:佐々良木川水系101工場のうち64工場(63%)で、1台の水車で左右に設置した2       台のトロンメルを回す、安藤工場と同じ形態
水路長:佐々良木川水系30工場の平均で64m
水車直径:同水系97工場の平均で5.22m、ほとんど
水車材質:木製が多く、鉄製は15工場のみ。鉄製に替えた時期は1957(昭和32)年が最も早い
     多くは安藤工場と同じ時期の1975(昭和50)年前後
電動機の導入:1965(昭和40)年が最も早い。1984年時点で23工場 
 
■水車タービン
 日本の産業の近代化とともに西欧から多くの機械が導入された。機械は近代化のシンボルでもあった。水車もそれまでの日本にはなかった水車タービンが導入され、革新的な動力として近代的工場に設置された。東海地方では、明治10年代に官営の愛知紡績所緒を始め島田紡績、遠州二俣紡績所などに導入された。
(1)官営の愛知紡績所−わが国初期綿糸紡績所の遺構−(愛知県岡崎市大平町)
創業:1881(明治14)年、官営紡績所として日本最初の開業(現・日本高分子岡崎工場)
   1886(明治19)年、民間に払い下げ
廃業:1896(明治29)年、火災によって工場の大半を焼失
遺構:堰堤、水路、石造りの水車場、排水路などが残る
水路:長さ1.8km。現在は工業用水路として使われる。
   水車場すぐ手前には余水路、総石造りの幅3.5m、長さ26m、20段の階段。
機械:2000錘のミュール精紡機はじめ紡績機械一式、イギリスから導入
水車:フルネイロン水車、高さ約4mほどの段丘地を利用、水槽内に水車設置(開放型)
    水槽を利用して水に速度と圧力をかけて動力を得るもの、落差5〜6m
取水口:当時の樋門が残る。幅16m、長さ9.3m。
 
◇各地に残る初期綿糸紡績所の遺構
・中部地域では、愛知紡績所のほかに、島田紡績所(現・島田市)、遠州二俣紡績所(現・天竜 市)、三重紡績所(のちの東洋紡・四日市市)が建設。遺構が残る。
・水車は、いずれも水車タービン
 
(2)水車タービンの種類
・在来型水車 :重力水車ともいい、主として水に働く重力によって水車を回転させる。
・水車タービン:水の持つ速度エネルギーと圧力エネルギーを利用して水車を回す。
         衝動水車と反動水車に分類。
   衝動水車:水の速度エネルギーだけを利用→ペルトン水車(高落差用)
   反動水車:水の速度エネルギーと圧力エネルギーをともに利用
          →フランシス水車(高・中・低落差用)、プロペラ水車(低落差用)など
◇水車タービンの歴史
1832年、フルネイロン水車完成。実用的な最初の近代的水車(50馬力、2300rpm)
1930年代、ジラールによって衝動水車発明。1970年に現在の碗形のバケットを持つものに改良
1849年、渦巻き形ケーシングと流量調整用の案内羽根を持つフランシス水車完成
     ・水は常に羽根車内を充満して流れる。羽根車内では、羽根(13〜21枚ほど)に沿って      圧力変化を生じ、相対的に速度変化を起こす。
     ・羽根車と放水面の間に吸出管(ドラフトチュウブ)を設け、落差を有効利用できる。
     ・水車の回転数が早く、小型にできる。小型、高出力
1912年頃、低落差用のカプラン水車(可動翼を持つプロペラ水車)発明
       羽根を通過する水量を有効に作用させる可動翼を持つ

■発電水車
 水車タービンの代表的な使用例として水力発電がある。今日稼働する水力発電所では、すべてで水車タービンが使われている。
 世界最初の水力発電所:1882年、アメリカに建設、250個の白熱電灯
 日本最初の水力発電所:1888(明治21)年の仙台の宮城紡績三居沢(さんきょざわ)発電所(自家用)
 事業用水力発電所の最初:1892(明治25)年の京都の蹴上(けあげ)発電所(ペルトン水車)
 愛知県最初の水力発電所:1894(明治27)年の豊橋電灯梅田川発電所(失敗)
             1896(明治29)年の豊橋の牟呂発電所(火力と併用)
 愛知県で水力だけで成功した最初の発電所:1897(明治30)年の岡崎の岩津発電所
      ここは中部地方最初の長距離送電(16km)に成功した発電所(全国注視の発電所)
      点灯数は、1897(明治30)年:436戸755灯。
           1899(明治32)年:1531灯。
 岩津発電所に続き明治期には、4つの発電所が矢作川に建設
 その後、昭和初期までに26カ所の発電所建設
 現在、矢作川には、その後の新設や廃止を経て26カ所の発電所が運転
 岩津発電所は、中部地方で現役最古の発電所
 今日、日本の水力発電所で使われる水車のうち70〜80%はフランシス水車
 
3.おわりに−産業遺産としての水車−
◇水車を捉える視点
・在来型水車はほとんど見かけなくなった。稼働する希少価値。
・水車自体も残る姿をめったに目にしない。
・在来型水車は産業遺産として捉える。
・水車は、堰堤、水路、水車場、伝動機構、工場、機械などを含めたシステムとして捉える。
・水車はどの産業に使われたか、どんな役割を果たしたか。
・水車は地域を発展させた原動力。
・地域に与えた影響、社会経済面、文化面などから。
・水車製作の技術面。
・在来型水車だけが水車ではない。発電における水車タービンの果たす役割は絶大。
・水車タービンもまた産業遺産。
・水車は地域発掘、地域の産業発展などの歴史を知る、課題研究、総合学習のテーマになる。
・水車の見直し、環境にやさしいエネルギー、水車のある風景。

 
主な文献
(1)天野武弘・永井唐九郎「水車遺構に見る動力伝達システムの研究−東海地方の事例から−」『日本機械学会2000年度年次大会講演論文集』2000年8月、「同、その2−静岡の製茶工場の事例から−」『同論文集』2001年8月、「同、その3−岐阜のトロンメル水車の事例から−」『同論文集』2002年9月
(2)松倉源造・天野武弘『水車製材と筏流送』豊川を勉強する会、1995年
(3)天野武弘「天竜川と豊川流域の水車製材」『日本の産業遺産U−産業考古学研究−』玉川大学出版部、2000年
(4)天野武弘「矢作川のガラ紡績水車」、「天竜川中流の製材水車」『水車と風土』古今書院、2001年
(5)天野武弘『歴史を飾った機械技術』オーム社、1996年
本稿は、2002.10.5 三鷹市水車ボランティア養成講座用レジュメ (於:三鷹市教育センター)  (禁無断掲載)


Update:2008/10/24  0000

(中部産業遺産研究会会員)
2003/10
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