人造石(たたき)は注目されてよい産業遺産

天野武弘


 
 最近、たたきが博物館や公共施設の土間やエントランスホールに使われたり、歴史的景観や憩いの場を大事にする史跡や公園などにも施工される例が増えてきたように思われる。たたきがエコロジーな材料として見直されていることの現れであろう。
 ところで、在来の左官技術の一つであるたたきを、新田開発や港湾など大規模な土木工事に応用した時期があったことは意外と知られていない。すでに昭和の初めには廃れてしまった工法であるためであろうか。しかし、このたたきの技術を応用した人造石工法が、明治から大正はじめのコンクリート工法過渡期の時代に土木工事に与えた影響は決して小さくなかった。とくに愛知県では全国に比して多くの工事がされ、築造から100年経ったいまも、現役の堤防や護岸、樋門をはじめ多くの遺構にその堅固なすがたを見ることができる。
 この人造石工法を考案し全国に普及させたのが愛知県碧南出身の服部長七であった。長七が人造石を考案したきっかけは、日本橋南伝馬町で饅頭店を開業したとき、濁り水の濾過設備の研究試行中にたたきの有効性を思いついたこととされる。これを契機に左官屋となり(もともと左官屋の三男で左官の修行もしていた)、宮内省学問所土間のたたき工事や大久保利通邸、木戸孝允邸などのたたき工事で信用を得て、明治10年(1877)の第1回内国勧業博覧会で会場土間や泉水池をたたきで工事する。当時は長七たたきと称していたが、第2回内国勧業博覧会で会場内のたたき工事を一手に行っていたとき、農商務省のお雇い外人から「この人造石は何で作ってあるか」と問われたことから人造石と呼ぶようになった、というエピソードがある。
 服部長七がたたきを土木工事に用いた最初は、明治11年の愛知県岡崎の夫婦橋であった。長さ6mほどの橋を人造石で構築し、洪水でも流されず堅固さを立証させた。そして本格的な大規模土木工事に施工したのが愛知県高浜の服部新田の干拓堤防であった。明治18年に長さ約1450mの堤防を人造石で完成し、海岸堤防にも有効であることを証明し、以後、19年に愛媛県松山の大可賀新田護岸や三津浜波止場築堤、22年に広島県宇品の新田開発と築港、24年に佐渡相川港護岸、27年に四日市港潮吹き堤防(1996年重要文化財に指定)と愛知県豊橋の神野新田干拓堤防(総延長12200m)、明治31年から名古屋築港、明治33年から愛知県の明治用水頭首工や樋門などの工事を手がける。ここにあげたいずれもが今もその一部が現役や遺構として、またコンクリートで嵩上げされているものの内部は人造石が残るなど、当時の様子をしのばせている。
 愛知県では、長七が工事から手を引いた明治37年(1904)以後、人造石の施工標準を独自に研究し、名古屋港の埋め立て地護岸や堀川、中川運河護岸の工事を主に、昭和の初め頃まで人造石工法による工事を継続することになる。また愛知県内では明治34年(1901)から明治36年の3年間だけ見ても172ヶ所で人造石樋門の工事がされている。人造石工事に補助金を付けたことが工事を促したが、この時代、工事コスト面だけでなく人造石の堅牢さを県が認識していた事例として注目できる。
 人造石の工法としての特徴は、構造物のたたきの表層を張石構造とするところにある。すなわち、提体などの外側をたたきの練り土で形成し、このたたきの表層に割石や天然石を張り込むというもの。一見石垣のように見えるが、張り込んだ石は接触しておらずたたきの中に浮いているように造られる。こうした工法がまた水密性を要求する護岸には適していた。ここに人造石かどうかを見分ける目安があるが、目地は現在はほとんどがセメントモルタルで補修されているため、断定するにはたたきの練り土が使用されているか否かを見る必要がある。
 人造石構造物は全国にはまだ知られていないものがいくつか存在していると思われる。意外と身近なところに眠っているかもしれない。産業発展の基盤整備に大きな貢献をした人造石はまさに産業遺産である。また土木技術史の観点からもっと注目されてもいいはずと思う。

本稿は、「土木の文化財を考える会・会報」第8号(2003.5.1)に掲載 (禁無断転載)

Update:2003/10/4、Last update2008/10/19  0000

(中部産業遺産研究会会員)
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