鳥取港(旧賀露港)の人造石遺構
−付記・鳥取県東部の産業遺産−
 
天野武弘

 
1 はじめに
 今夏、鳥取県東部を旅する機会を得た。1998年に文化庁の近代化遺産総合調査をまとめた報告書『鳥取県の近代化遺産』を参考にし、いくつかの産業遺産を訪ねた。ここではそのうち、鳥取港(旧賀露(かろ)港)に存在する人造石遺構の調査を主に述べ、訪れた産業遺産のおもだったものを紹介する。
 
2 鳥取港(旧賀露港)の人造石遺構
(1)賀露港の改修
 賀露港は鳥取市の千代川(せんだいがわ)河口に造られた港である。河口の右岸川は鳥取砂丘があるように、千代川河口付近は昔から千代川から排出される大量の砂と漂砂、飛砂によって苦しめられていた。鳥取県の港では県西の境港が交易港として栄えていたが、漁港であった賀露港も交易港としての役割を次第に持ち、藩主池田光政にの時代になる享保年間(1716〜36年)に河川改修が叫ばれている。砂によって閉塞する河口は昔から幾度となく船舶を転覆させており、港への出入りは命がけであった。しかし自然の力はあまりに大きく、計画は中止となっている。飛砂のための砂防林造成が盛んに行われた程度であった。河川改修が大きく取り上げられるようになったのが、幕末から明治であった。明治9(1876)年にオランダ人工師のケ・エ・エステルが修築工事を具申し、県は太政官に請願するが官費補助はできないとして却下され、この時は着工にいたらなかった。明治20(1887)年頃、再度鳥取県知事はオランダ人工師のデレーケを招き視察させ、この時デレーケの意見に従って知事は築港を決意し、実測調査を行った。そして、明治23(1890)年に県直轄で工事がはじめられた。
(2)西突堤工事
 砂による河口閉塞をくい止める目的で行われたのが、千代川河口左岸から北に400mの所にある鳥ガ島までを堤防で締め切る工事であった。この工事で陣頭指示をとったのが服部長七であった。服部長七による人造石工法による工事で、明治23年春に着工された。服部長七は、この時までに広島の宇品築港工事を人造石で完成(明治22年)させ、人造石工法の評判を高めていたときで、鳥取県の招聘による工事であった。
 工事の内容は、鳥取県史によると、突堤の長さは海岸から延長230間(418m)、突堤の高さはおよそ2.5間(4.5m)で、「海岸から鳥ガ島の半ばまで五〇〜一〇〇キログラム程度の石塊が頑強にかみ合わされ、今様のコンクリートモルタルには見かけられない不思議な間詰工で固められ、完全な不透過構造になっている。その後一世紀近い現在まで日本海の荒波によくぞ耐えてきたものだと感心する」と書かれている。また突堤に用いられた石材は千代川下流部右岸の山から切り出したものという。さらに、提体は沈下することなく現存していることから、水中深く掘り下げられた提体の基礎に沈床枠工の存在を認めない訳にはいかない、と述べている。なお、西突堤は明治29(1896)年の洪水で被災し、鳥が島に近いところを60mほど復旧工事をしているという。
(3)東突堤工事
 西突堤築堤によって、北北西からの激浪はくい止めることができたが、千代川河口は新たな問題を生ずることになる。それは、かつては北西に直流していた千代川水流は西突堤によって流れが変えられ、突堤付近に砂丘を造り、新たな閉塞現象に見舞われることになった。そのため、西突堤によって北北東に転流した澪筋の水深と川幅を安定させるために、河口右岸に押し寄せる標砂を遮断するための新たな突堤が必要となった。
 東突堤(導流提)工事は明治33(1900)年にはじめられた。千代川河口右岸から北西方向に長さ195mの突堤で、この構造や石材は西突堤の断面とほぼ同じであったとされる。ここも人造石工法による築堤であったが、服部長七が関わったかどうかは確認されていない。
(4)鳥取港(旧賀露港)の人造石遺構の現状
 賀露港は、その後幾多の改修工事が行われるが、昭和58(1983)年に千代川河口の付け替え工事が行われることによって、千代川からの流砂の影響を受けることがなくなった。この工事によって、東突堤はこの時撤去されたか、鉄筋コンクリート護岸の下になったものと思われる。
 西突堤については、平成に入ってから西突堤西側に新たな漁港が造られ、そのとき漁港の入口を造るために西突堤の陸地側四分の三ほどが撤去された。現在は、鳥ガ島に接する付近100mほどの西突堤が残っている。鉄筋コンクリートに覆われた突堤であるが、当時とまったく同じ位置に現存している。調査によって、鳥ガ島と接する部分に人造石工法の跡を確認することができた。わずかに残る石積みの間にたたきの塊が顔をのぞかせるという状況である。
 ここを管理する鳥取県鳥取港湾事務所は、今回の調査によって人造石に対する認識を新たにしてくれたようである。
 
3 鳥取県東部の産業遺産
 鳥取市を中心に八頭郡、岩美郡をエリアとする鳥取県東部は、山陰線、因美線、若桜線などの駅舎、橋梁、トンネルなど鉄道遺産が比較的多く存在する。また鳥取市内、周辺にに酒蔵など産業に関する古い建物が散在し、登窯、発電所、水道水源施設などの産業遺産も点在している。以下、訪れた主だったところを簡単に紹介する。
 
@大内発電所(八頭郡大内町・中国電力・現役)
 発電所建物は大正11年工事着工、12年に発電を開始。鉄筋コンクリート造。大正10年日立製の横軸フランシス水車1基をすえる。このほか産業遺産として、北股川取水ダムと尾見取水堰堤がある。また水路途中に本谷川をわたる第4水路橋(アーチ橋)がある。
 
A因久山登窯(八頭郡郡家町)
 因久山焼は、明和年間(1764〜72年)にはじまるといわれる。現存の登窯は昭和18年に鳥取地震で倒壊したとき復元したもの。江戸時代の登窯の形態をよく伝えているといわれる。7連の室をもつ。現役窯。
 
B若桜線旧転車台(八頭郡若桜町若桜駅構内)
 若桜線は、因美郡郡家駅から若桜駅までの鉄道で、昭和5年に着工し、昭和12年に全通する。沿線には当初の駅舎、橋梁があるが、若桜駅に川崎車両製(昭和5年製)の手動の転車台が残っている。直径約13.5mの円形くぼみにプレートガーターをおく。現在は放置される。その横に、蒸気機関車のタンクに給水した給水塔(鉄筋コンクリート)が残る。
 
C美歎水源地の堰堤と濾過施設跡(八頭郡国府町)
 鳥取市水道の旧水源地。大正2年に起工し、大正4年に竣工。大正7年の地震で決壊し大被害を出すが、大正11年に復旧。その後60年以上鳥取市の水道をまかなう。昭和53年に新水源地ができたことによって閉鎖。その後取り壊しが検討されたが、景観保存の観点から砂防ダムとして保存が決定され、補強工事と公園整備工事が現在行われている。
 水源地堰堤は、粗石モルタル積み、高さ27m、長さ103m。堰堤の前方に、濾過池が5基ある。濾過池にはそれぞれ濾過調整井バルブ室が建っている。煉瓦造モルタル塗り。
 
D千代川橋梁(鳥取市古市、山陰線)
 山陰線は明治40年4月に鳥取駅まで開通した。千代川橋梁は鳥取駅西側にあり、翌年の明治41年に竣工する。鋼製の22連、プレートガーター橋である。全長375m、鳥取県内最長の橋梁である。その後、橋脚を鉄筋コンクリートで被覆し、橋桁を新調したため当初の面影はないが、草創期の姿を伝えているとされる。

 
参考文献
1)『鳥取県史』昭和44年
2)鳥取県文化財保存協会『鳥取県の近代化遺産』1998年

本稿は、中部産業遺産研究会 第46回研究会(2000.9.17)報告 (禁無断転載)
 
Update:2008/10/24  0000

(中部産業遺産研究会会員)
2003/10
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