広島旧宇品新開築港の人造石樋門

天野武弘(
記)

調査者:天野武弘、大橋公雄
調査日:2000年10月7日(土)
調査目的:発掘された人造石遺構の調査
調査地:広島市旧宇品新開築港を主とする広島市内
調査物件:@旧宇品新開の干拓堤防の発掘遺構2箇所(海岸通の建設工事現場の地下)
     A宇品海岸第一公園の土留め部分の人造石(旧堤防跡)
     B宇品海岸三丁目の三ツ樋(人造石樋門)
     C宇品新開西側旧堤防跡の石垣(現西通り、人造石の可能性を持つ)
     D広島刑務所の人造石塀(長さ約1キロメートル近くあり)
調査協力者:広島市郷土博物館学芸員小林奈緒美、山縣紀子両氏、郷土史家藤解詮雄氏
その他:このほか旧軍施設の糧秣支廠(現広島市郷土博物館)および被服支廠(大型の煉瓦倉庫4棟、遊休施設)の煉瓦建物などを見学調査

 
1 はじめに
 上記調査協力者より人造石の発掘がされたとの情報提供により、調査に出かける。広島の宇品新開の干拓堤防については、服部長七の人造石工法によって完成したことが知られているが、これまでその後の埋め立てや改修工事によって残存する人造石構造物はないと思われていた。新たな発見との思いで調査に出かけた。
 調査の結果、二箇所の工事現場のうち一箇所でかつての人造石堤防の遺構を確認する。もう一箇所の工事現場の人造石遺構はすでに埋め戻されていたが、それに連なる位置に人造石と思われる堤防跡(宇品海岸第一公園)を発見。また三ツ樋と呼ばれる旧宇品新開の樋門がほぼ人造石構造の原形を残す形で存在していることを発見。さらに思いがけなく、広島刑務所を囲う塀のうち西側を除く三方が人造石で構築された塀であることを発見する。なお工事現場跡から人造石のサンプルを採取する。
 これらの遺構調査のうち、ここでは人造石樋門の三ツ樋について産業遺産の観点から報告する。
 
2 宇品新開築港の経緯
 宇品の新田開発は、1662年(寛文2)からはじまっている。本格的な新開は1878年(明治11)ころに士族授産事業として計画され、1880年(明治13)に千田貞暁県令(のちに知事)が赴任してから宇品築港も加えられ進められた。内務省に働きかけた結果1881年にお雇い工師ムルデルが派遣され工事計画が作成された。しかし、建設予算10万円のところ18万円のと算出されたことから暗礁に乗り上げた。1883年(明治16)になり、千田県令と懇意の農商務大輔品川弥二郎から服部長七を紹介される。服部長七の人造石工法による見積もりは11万円余(請負額は8万7千円余)であった。これによって宇品新開、築港の工事が服部長七の人造石工法によておこなわれることが決定する。人造石工法の採用は経費削減がもっとも大きな理由であった。
 新開工事は1884年(明治17)9月からはじめられ、宇品島とつなぐ西側堤防1204間(約2200メートル)、東側および南側堤防計1666間(約3000メートル)が翌年12月にひとまず築堤され潮止め工事が行われる。しかし潮止めに失敗し堤防も破壊される。さらに1886年(明治19)3月に樋門が何者かによって破壊され(計画当初は漁民などから激しい反対にあう)、9月には大暴風雨によって築堤が二箇所で大決壊をするなど工事は度重なる災難に見舞われた。その結果工費は3倍の30万円余、工期は30ヶ月の予定が倍の63ヶ月(5年3ヶ月)がかかる。完成は1889年(明治22)11月であった。新開南端に桟橋が造られ宇品島との間に港が整備された(この港が明治27年の日清戦争以後軍港として重要港になる)。新開地は208町余(208ヘクタール)で、このうち広島授産所に170町81%(うち120町を小作地として貸し与える)の新開が割り当てられた。
 
3 宇品新開築港と服部長七
 宇品新開築港の工事は、服部長七にとっても今後を左右する大工事であったことが想像される。それまでに愛知の服部新田干拓堤防などでの工事経験はあるものの、これだけの海岸堤防の大規模工事は最初の経験であった。当時はまだ十分に人造石の評価が定まっていなかったことから工事を担当する広島区長は、広島県の地質課長に11項目の質問状を送って評価をうかがっている。その中で地質課長は種々人造石が強固であることを述べたあと、これまでに服部長七が人造石でつくった岡崎の夫婦橋(20間)、高浜の服部新田(800間)、備前の呼松村新開堤防(400間)では未だ破壊、修繕もないと解答している。これがコスト面と合わせて工事発注の決めてとなった。
 宇品新開の築堤護岸の当初計画(ムルデルの調査に基づいた計画)の概要は、外側に粗朶組約1間、内側に人造石1間半の馬踏みをつけ、南東に二箇所の樋門を設ける(『広島財界太平記』)となっている。服部長七の工事もほぼこの形で進められたと思われる。工事の様子は、当時作業に従事した人の談話によると「工事に着手の始めは、西東南の順に、三方へ石垣を造るということでした。海の中へ三町毎に櫓を組み立て、その上は石灰や真砂土など人造石をつくるに必要な物の置き場になっていて、人造石が出来ると其処から海へ落とすようになっていました。」(『広島県財界太平記』)とある。海中に落としたととれる表現であるが、おそらく干潮時にであろう。
 服部長七の工事請負書から主な築堤の概要をみると(『千田知事と宇品築港』昭和15年)、西側堤防1204間の堤防は片側(海面側)が人造石で、提身は土砂、扣繋(石材?)が記され、堤防の平均の高さ1丈5尺5寸(4.7メートル)、平均厚さ上2尺(0.61メートル)、下4尺(1.2メートル)である。東と南の堤防も同じ記載である。なお、土石材は地元調達がされ、近くの似島(にのしま)などから真砂、花崗岩が運ばれている。
 順調かに見えた工事も潮止め工事のとき、堤防からの漏水によって破壊したが、その復旧費は服部長七が負っている。人造石工事もこの時期にはまだ完全ではなかったのであろう。長七の気概が感じられるエピソードである。
 宇品新開築港工事は、当時は琵琶湖疎水工事とともに天下の二大工事として併称された。5年の歳月をかけた宇品の工事は、人造石工法の評価を大きく高めることにつながり、品川弥二郎の口利きもあったが、これ以後全国各地の大規模工事に関わっていくことになる。
 
4 人造石樋門三ツ樋の現状
 宇品新開の南東の角に位置するところに二つの樋門がほぼ隣接して設けられた。潮止めするときや排水などに用いられた樋門である。樋門の寸法は、さきの工事請負書によれば、人造石樋長7間(12.7メートル)、幅2間(3.6メートル)、平均高さ6尺(1.8メートル)で、樋門の地盤(14坪)および眼鏡(5.3坪)も人造石となっている。
 現存する樋門は、樋門の扉がつく水門部にあたるところ(眼鏡にあたる部分か)と思われる。この日門は隣接する二つのうちどちらかは定かでないが、おそらく東側につくものと思われる。
 樋門の現状は、下部が人造石、上部が鉄筋コンクリート造で、最上部には鉄製の形鋼が設置され、三筋の水路にはそれぞれ門扉開閉用の丸ハンドルなどの設備がついている。すでに水路の前後は閉鎖され、機能は終えている。上部の鉄筋コンクリートおよび開閉設備はずっとのちのものであろう。下部の人造石部分は目地にたたきの練り土が顔を覗かせており、張り石構造となるつくりからも人造石工法によって造られていることを確認した。三筋の水路部分は水面下にあり確認できなかったが、おそらくいずれも眼鏡状をしているものと推定される。
 
5 人造石樋門三ツ樋の産業遺産的価値
 宇品新開築港工事は人造石工法による最初の大規模工事であった。人造石工法の発明者服部長七にとっても全力を注いだ工事であったであろう。潮止めに失敗するなど苦難を経て5年という長大な歳月を広島で過ごし、人造石工法に確信を持つことになった工事と考えられる。のちの名古屋築港(明治31〜36年)にあたって、当時の築港関係者が宇品の工事関係資料を参考にしたことが、名港管理組合の保存文書からも明らかになっている。宇品の教訓から得た人造石工法の確立と成功による評価の高まりは、それ以後の人造石工事の施工に弾みをつけたと思われる。
 宇品新開築港の人造石構造物この点で大きな意味を持っている。今回発見した宇品新開の樋門は、のちの補修がされているものの下部構造は人造石の形態を残しており、きわめて高い確率で当時のものと推定できる。しかも、宇品新開築港の人造石遺構が十分に確認されていないなか、ほぼ当時の様子を残す人造石樋門は唯一の、しかも人造石によって完成した宇品新開築港の重要な遺産と位置づけることが出来る。
 また、全国的な視野で見ても宇品の人造石樋門は、現存するもののなかではおそらく最初期にあたると思われる。宇品以前に服部長七が行った人造石工事で現存している遺構は服部新田に痕跡が認められる程度であり、人造石構造物の原形をとどめるものはない。したがって宇品の人造石樋門は、服部長七が工事した人造石構造物のなかで現存するもっとも古いものということができる。
 これらの点で、宇品に残る人造石樋門は、宇品新開築港の産業遺産として、また人造石構造物の最初期の産業遺産としてきわめて高い価値を有しているといってよい。
 なお、宇品新開築港の人造石遺構について、今後の調査によっては、たとえば当初の西堤防にあたる現在の西通りの石垣、当初に工事用の道路として西堤防の内側に堤防を築堤した現在の御幸通り、南堤防にあたる現在の海岸通りに人造石の堤防跡など、当時の人造石遺構が新たに発見される可能性を持っていることを付記しておきたい。(天野武弘 記)

主な参考文献
1)広島県『千田知事と宇品港』昭和15年
2)『広島県史』近代1
3)『広島財界太平記』
4)空辰男『加害基地宇品』
5)竹島浅吉『宇品築港物語』渓水社

本稿は、中部産業遺産研究会 第47回研究会(2000.11.19)報告 (禁無断転載)


Update:2008/10/24  0000

(中部産業遺産研究会会員)
2003/10
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