三州釜の鋳造遺産

−江戸時代から続く鋳物工場−(愛知県豊川市の中尾工業)

天野武弘


 豊川稲荷の南、約五百メートルのところにある中尾工業(株)は、一五三八(天文七)年創業といわれる歴史のある鋳物工場です。ここに大正時代に鋳造の近代化を求めて設備した構築物などが、いまは産業遺産として存在しています。
  近世の三河国豊川では、中尾工業の前身となる鋳物師中尾氏を中心に鋳物師集団が定住し、三河ではもっとも古くから市場が形成されていました。当時、中尾氏のほか幡豆の太田、碧海の国松、岡崎の木村と安藤の各鋳物師が活躍していたが、中尾氏はこれら三河鋳物師の統率者の役割を果たしていました。
 中尾氏が鋳物業を大きく発展させたのは、それまでの梵鐘など社寺製品のほかに鍋釜の鋳造を始めた元禄(一六八八〜一七〇四)の頃からでした。中尾氏の鋳物業の隆盛は、幕末の嘉永年間(一八四八〜一八五四)にかかれた『三河名所図絵』から知ることができます。そこには数千人の職人が従事し、各種の鍋釜を中心に鋳物製品を船で大阪に運送していたことが記されています。中尾氏は一八四九(嘉永二)年に、大阪の商人と共同で五百石積みの船を購入しています。当時、中尾氏が生産した三州釜は、大阪をはじめ西日本一帯でたいへん有名で、三州釜の称号は優良品を意味する代名詞となっていました。
 三州釜とは、三河地方の鋳物師によってつくられた同じ鋳鉄釜の名称で、その品質の良さと価格の安さで昭和に至るまで名声を博した釜です。釜の大きさは、一九二四(大正十三)年の中尾十郎工場(現中尾工業(株)の前身)の製品カタログである『釜鍋鋳物枚附表』によりますと、大釜と称される釜は外口径が五尺三寸(一六一センチメートル)から三尺(九一センチメートル)、中釜は一尺九寸(五八センチメートル)から一尺三寸(三九センチメートル)、小釜は一尺(三〇センチメートル)から六寸(一八センチメートル)です。このほか「羽反」、塩釜などの各種の鍋や釜、用水鉢など種々の製品に及んでいます。
 一九二三(大正十二)年頃、中尾十郎工場では三州釜の生産拡大をはかるため、二十馬力の蒸気機関を導入し一日二十トンの鋳鉄を生産する炉を築きました。新しい炉は、当時としては最新式のもので、鋼くずを原料にし炉内温度を高めるために熱風を送る装置を備えていました。蒸気動力は熱風を炉内に送風するために使われたものでした。
  この熱風をつくる炉に大きな煙突がつくられましたが、これがいまに残る煉瓦製の大煙突です。百尺(三十メートル)煙突と呼ばれた煙突は、角形で上にいくほど段々状に細くなるという、他にみられない特異な形をしています。当時の炉設備としては大煙突を残すのみですが、当工場のシンボルとして大空にそびえています。
 大煙突から十数メートル離れたところには、鉄筋コンクリート製の四角形をした給水塔が建っています。公称九十トンの貯水量をもつ大きなもので、鋳物工場で使うすべての水をまかなったといいます。その柱の一隅に「大正拾参年拾月成工」と彫られた文字がくっきりと残っています。塔なかほどに意匠を凝らした彫り物をもつ給水塔は、その役割をいまも果たしています。
 伝統技法による三州釜の製造は中尾工業を最後として終えてしまいましたが、それに使われた道具や木製の天井クレーンなどの設備の一部が工場の一角に残っています。三州釜製造に関する数少ない道具や設備です。
 広々とした工場敷地内には土蔵が立ち並び、それだけでも歴史を感じさせる中尾工業は、三州釜製造の伝統ある鋳物工場として、営々と鋳物を吹き続けています。


愛知県産業情報センター発行『あいち産業情報』「産業遺産を歩く 31」1996年11月号(No.136)掲載


(追記)この工場は現在は一部を残し撤去となった。


Update:2008/10/24 0000 (禁無断掲載)

(中部産業遺産研究会会員)
1999/1
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