奥三河地域の産業遺産

天野 武弘
 
 
1 産業遺産(Industrial Heritage)とは
・過去(現在)の産業活動で重要な役割を果たした(果たしている)機械、道具、装置、建築物、構造物、図面、写真などのうち今日に残された有形資料の総体
・人類が積み重ねてきた技術の体現(すべての産業が対象)
・その時代の到達点を示す「モノ資料」
・技術発展の画期となった価値あるもの
・産業の発達過程を示す歴史の生き証人
・価値あるものは後世に伝え残す
 
▼産業遺産の調査研究の始まり
・産業遺産を研究する学問を産業考古学(Industrial Archaeology)という
   産業考古学は
    広義の歴史学の一部門、基本的に考古学の一分野をなすもの
    経済史や歴史学などの学問では主に文献資料を元にしての研究
    産業考古学はモノ(産業遺産)に即して研究することを基本にする学問
・発祥は、1950年代のイギリス(1973年にイギリス産業考古学会発足)
・産業革命当時の工場建物、機械などの破壊と消滅が発端
・日本には高度成長期の1969年に紹介される。産業遺産の急速な消滅の時期
・1977年に日本の産業考古学会発足
・この地域では、1984年に愛知の産業遺跡・遺物調査保存研究会(現・中部産業遺産研究会)が発足
 
▼産業遺産は存在形態から次の三つに分類
  産業遺跡…土地と切り離せない形で遺存、複数の遺構、遺物を含む
    (例)工場跡、鉱山跡、鉄道跡、港湾跡、運河跡、発電所跡
  産業遺構…遺跡のなかで限定された機能を持つ不動性の建物や構造物、装置
    (例)工場建物、竪坑、高炉、トンネル、駅舎、橋梁、水門、堰堤
  産業遺物…原位置から切り離して移動できるもの
    (例)機械、工具、計測器、自動車、鉄道車両、各種製品、図面、写真、文書
 
2 奥三河地域の産業概観
 
(1)対象とする地域と産業の範囲
 対象地域は南北設楽郡および豊川流域の新城から若干の豊橋を含むまでとする
 産業の範囲は、すべての分野とするが、おもに鉱工業、土木、運輸を主に述べる
 
(2)奥三河の産業
 明治42年12月末『工場通覧』および、昭和11年12月末『愛知県工場総覧』より概観してみる。
 
▼表1(明治42年12月末『工場通覧』)から、奥三河地域の職工5人以上の工場42社を見ると、
  ・製糸業と木材業で全体の85%を占める。
  ・製糸業がもっとも多く全体の50%を超える。製糸業は南設楽郡の東郷村8社と新城町4社に集中。
  ・製材業は北設楽郡に集中。南設楽郡の4社はすべて新城町で桶、箪笥、戸棚の製造。
  ・製糸業と木材業以外はすべて現新城市。
  ・創業年では、明治30年代から製糸業が増える。製材業は20年代から徐々に増える。
  ・愛知県内最初の製材工場は、明治21年創業の北設楽郡豊根村の丸川製板所。
  ・職工数では、製糸業は女子が男子を大幅に上回る。最大は110名の工女。100名以上2社。
  ・原動力は、製糸業では一部に水車動力もあるが、ほとんどが蒸気機関を使用。すべて1馬力。
   製材業ではすべて日本型水車(在来型水車)を使用。馬力は製糸業に比べ大きく、最大は11馬力の水車。その他の業種では使われていない。
 
     表1-1 明治42年の奥三河の地域別工場数 (明治42年12月末『工場通覧』より作成)
  北設楽郡 南設楽郡  八名郡   計(率)
 製糸業    3   14     5   22(52.4%)
 木材蔓茎製品業    9    4    1   14(33.3%)
 醸造業        3      3 (7.1%)
 織物業        1      1 (2.4%)
 印刷製本業      1      1 (2.4%)
 雑業(蚕網製造)        1      1 (2.4%)
   計    12   24    6   42
       注)職工数5人以上の工場
 
     表1-2 奥三河の創業年別工場数     (明治42年12月末『工場通覧』より作成)
  江戸時代 明治10年代 明治20年代 明治30年代 明治40年代 不明   計
 製糸業      1    1   13    7     22
 木材蔓茎製品業           3    4    6   1   14
 醸造業    1    1          1      3
 織物業          1          1
 印刷製本業            1        1
 雑業(蚕網製造)              1        1
   計    1    2    5   19    14   1   42
  注)職工数5人以上の工場
 
▼表2、3(昭和11年12月末『愛知県工場総覧』)から見ると、
  ・製材業が圧倒的に多く、北設楽郡や八名郡では突出している。
  ・南設楽郡では、製材業と製糸業以外はすべて現新城市に集中している。
 
    表2-1 昭和11年の奥三河の工場数 (昭和11年12月末『愛知県工場総覧』より作成)
  北設楽郡 南設楽郡  八名郡   計(率)
 製材業   38    6    5   49(71.0%)
 製糸業    2    2      4 (6.8%)
 織物業    1    1      2 (2.9%)
 醸造業    2    4      6 (8.7%)
 機械器具製造業      1      1 (1.4%)
 印刷業      2      2 (2.9%)
 屋根瓦製造業      1      1 (1.4%)
 医療材料製造業      1      1 (1.4%)
 電気業    3        3 (4.3%)
    46   18    5   69
     注)職工数5人以上の工場
 
▼明治42年〜昭和11年に至る奥三河における産業の変化(表1と表2、3との比較から)
  ・製糸業は激減(大正9年と昭和5年の生糸価格の暴落によると考えられる)。昭和11年時点で明治42年から継続する工場はなし。
  ・製材業は北設楽郡を中心に大幅に増加。製材業の増加は、寒狭川筋では明治30年に帝室林野局が段戸の天然木を整理し、造林事業を積極化したため、大正初期まで大規模な立木払い下げが行われたことによる。その後、段戸の木材輸送の効率化を図るために敷設された田口線が昭和7年に全線開通する。昭和6年に田峯森林鉄道、昭和9年に田口森林鉄道が開通し、田口線を起点に総延長約40kmで木材を搬出。
   明治42年から昭和11年まで継続する製材工場は4〜5工場。
  ・明治42年から今日まで続く工場は、醸造業の日野屋など。
 
    表2-1 明治42年と昭和11年の奥三河の工場数の比較
          (明治42年12月末『工場通覧』および昭和11年12月末『愛知県工場総覧』より作成)
   北設楽郡  南設楽郡   八名郡     計
   M42  S11  M42  S11  M42  S11  M42  S11
 製材業   9  38   4   6   1   5  14  49
 製糸業   3   2  14   2   5    22   4
 織物業      1   2   1       2   2
 醸造業      2   3   4       3   6
 機械器具製造業          1          1
 印刷業       1   2       1   2
 屋根瓦製造業          1          1
 医療材料製造業          1          1
 電気業      3              3
   12  46  24  18   6   5  42  69
     注)職工数5人以上の工場
 
 
3.奥三河の産業遺産
 
(1)奥三河に所在するおもな産業遺産
 農林業  :農具、養蚕具、伐採・運材用具、炭窯など
 工業   :製材、醸造、精米、製糸、紡織、ガラ紡(明治村)
 鉱山   :津具、粟代など
 電力   :発電所(見代、長篠、布里、横川、押山、眞弓)
 土木・建築:橋梁(アーチ橋、黄柳橋)、布里用水、牟呂用水、隧道など
 運輸   :田口線、飯田線
  現地遺構(一部現役)および博物館、資料館に所在
 
▼豊川流域の水車製材遺構
 豊川流域の製材が盛んになるのは、段戸山(設楽町)御料林が払い下げが契機
 1934(昭和9)年、北設楽郡に59工場と最盛期を迎える
 1941(昭和16)年、戦時下の木材統制法で、水車製材は整理統合の対象となり急速に消滅
           確認した水車製材所は、豊川流域に31箇所
 
@北川製材所(愛知県南設楽郡鳳来町川合)
 1963(昭和38)年まで水車による製材がされる
 豊川流域で最後の水車製材。
 
A東川製材所(愛知県南設楽郡鳳来町湯谷温泉)
創業:1908(明治41)年
廃業:1945(昭和20)年に戦時統制によって閉鎖、戦後再開。直後に火災で焼失廃業。
遺構:鉄製の在来型水車が現地に残る。豊川流域で現存する唯一の製材用水車
   直径5m余
   堰堤:川幅いっぱいに作られる。高さ数10cm、丸太とコンクリート。
   水路:長さ300m余、取水口をふさぎ「散歩小路」として観光道に利用。
 
B高野製材所(愛知県南設楽郡鳳来町下吉田)
創業:1909(明治42)年。黄柳(つげ)川沿いでは最初の製材所
廃業:戦時統制によって閉鎖、戦後再開されることなし。
遺構:水路の一部が痕跡をとどめる程度。
   創業者宅に、創業当時の水路工事関係の「工事設計書」や図面が残る
「工事設計書」によると、
   水路長さ144間(約240m)、自然の岩を利用して10尺(約3m)の堰堤(松材と石積)
   材木業者に配慮し、筏流し口と、魚道を付ける(設計変更を求められる)
   水路幅3尺(約90cm)、深さ1尺(約30cm)の掛樋。
      1927(昭和2)年に水害にあい、一部コンクリート製の水路に作り替える
   水車は、水受数16個の木製在来型水車で、縮尺図より推定直径約7m
 
C横川製材所(愛知県南設楽郡鳳来町名号(みょうごう))
創業:1928(昭和3)年、1931(昭和6)年に水車設置。
廃業:1961(昭和36)年
水車:タービン水車(島田駅前の大石鉄工所製)、コンクリート水槽内に設置
   工場床下に伝導装置
遺構:1996(平成8)年に工場解体、石垣造りの水路が残る。
   水車と伝達装置の一部が鳳来町のやまびこの丘資料館に保存展示予定
   同製材所の創業期からの製材関係文書788点が鳳来町に保存
 
▼津具鉱山と粟代鉱山
(1)東三河の鉱山概要
 東三河地方には規模の大きな鉱山や歴史的な鉱山は少ない。津具金山、豊橋の石灰鉱山などが江戸時代から知られ比較的早くから採掘された。第二次大戦前後にはマンガン探鉱をはじめとする試掘が各地でされるが、ほとんどはじきに採掘を停止。本格採掘は津具鉱山と粟代鉱山に代表。
 
(参考)東三河の鉱山
 愛知県の東三河で試掘や採掘された主な鉱山。
 津具村の津具鉱山(金、アンチモンを採掘)、新城市の中宇利鉱山(第二次大戦中にニッケル鉱を採掘、戦後に銅鉱を試掘)、設楽町の田口鉱山(マンガン鉱を1949年〜1960年前半まで採掘)、東栄町の粟代鉱山(三信鉱工、現在、絹雲母を採掘、精製)、宝飯郡音羽町の宝鉱山(マンガン鉱、戦後の一時期試掘)、豊橋市の石巻鉱山(マンガン鉱、昭和25年閉山)。渥美半島の砂鉄、高師小僧、鳳来町の三河白砥など。
 
(2)津具鉱山
 元亀3年(1572):武田信玄が津具川で砂金を発見したことが伝えられる
 明治27年(1894):金鉱脈の露頭が発見され本格採掘が始まる
 昭和9年(1934):企業経営による本格採掘開始。平均品位1トンあたり18g、1日50トンの浮遊選鉱場を建設し、鉱石は日立鉱山へ送る
 昭和32年(1957):閉山。掘った坑道総延長は6000m、坑口30箇所余り
 
 現在、信玄坑はじめ坑口跡や昭和9年以降建設の選鉱場の遺構がわずかに残る
 
(2)粟代鉱山
 粟代鉱山は、良質のセリサイト(絹雲母)を産出する鉱山として知られる。日本で数少なくなった坑道掘りの鉱山は産業遺産の観点でも捉えられる。
・場所:北設楽郡東栄町振草字稲目平(三信鉱工株式会社本社、選鉱工場は振草字上粟代宮平)。
・沿革:
  昭和21(1946)年8月 三河タルク鉱業(株)として創業(創立者は三崎明麿氏、豊川鉄道、鳳来寺鉄道、田口鉄道の運輸営業面を担当、三信鉄道社長秘書)
             金鉱脈の開発を目的としたが白土(当初はタルク(滑石)と称す)を採掘
  昭和24(1949)年   三信鉱工鰍ノ社名変更(東大教授湊博士の分析で良質の絹雲母と判明)
             絹雲母採掘精製を開始。織布・サイジング用(たて糸糊付け)に納入
  昭和31(1956)年5月 電気溶接棒フラックス原料として納入開始
             (最盛期には、神戸製綱、川崎製鉄などに月150トンを納入)
  昭和39(1964)年1月 日向(ひおも)坑開坑
  昭和43(1968)年1月 化粧品原料に納入開始
  昭和43(1968)年4月 竪坑開さく。エレベーター設置
  昭和61(1986)年5月 5ミクロン以下の絹雲母精製技術を開発
  昭和61(1986)年10月 90m竪坑、エレベーター設置
  平成6(1994)年8月 新露頭開発開始
  平成8(1996)年10月 本多山坑開坑
  平成9(1997)年6月 井戸入(いどいり)坑開坑
・歴史的選鉱設備を残す
 鉱山の産業遺産の観点でみると、日本で坑道掘りが限られた数となったいま、坑道掘り自体が重要な産業技術、産業遺産の観点でとらえられる。
 選鉱設備では、初期の選鉱機械の一つであるフレットミルとウイルフレーテーブルが現役
 
▼奥三河の発電所とその遺構
 明治26年(1893):2月、豊橋商工会議所設立、最初の事業として電灯会社の設立。同年9月豊橋電灯株式会社(資本金15000円)設立
 明治27年(1894):4月、梅田川発電所(豊橋)完成(水力発電では全国で5番目、発電機は三吉電気製の国産2号機、安定供給ならず)
 明治28年(1895):9月、牟呂発電所完成(出力15kw、牟呂用水を利用、遺構が残る)
 明治33年(1900):産業組合法が公布。大正時代になって奥三河各地に地元資産家による電力会社や電気利用組合が組織
           大正9年大野電気贋ムヶ瀧発電所(鳳来町豊岡、遺構が残る)
           大正13年七郷電気利用組合(鳳来町能登瀬、遺構残る)
           大正14年只持電気利用組合(鳳来町只持)など
 明治39年(1906):豊橋に陸軍(15師団)を誘致、その電力需要に応える発電所建設の検討
 明治40年(1907):見代(けんだい)発電所建設(作手村、出力360kw、愛知県内で本格的水力発電所の最初)
           豊橋市および周辺の町村に電力供給(明治40年1808灯→41年7358灯)
 明治41年(1908):下地発電所(豊橋、火力発電所、出力150kw)建設
 明治43年(1910):子会社の寒狭川電気株式会社設立(電気技術者今西卓を迎え長篠発電所の建設)
 明治45年(1912):2月、長篠発電所竣工、4月から送電開始、21000余灯に倍増(現役)
          ナイヤガラ発電所の嚆矢、溢流堤に特徴的景観
          日本最初の竪軸式発電所、昭和22年落雷で建物は全焼、翌年当初と同じ建物に復旧、発電機(ドイツ、ジーメンス社製、500kw)もコイル交換されるが当初のもの、水車はフォイト社製、大正8年(1919):布里(ふり)発電所建設(510kw、現役)
          木材流送業者の建設反対により竣工が大幅に遅れる。解決策として貯水池から材木を流す一直線の導水路を山をぶち抜いて作る。木材を流すときは発電機を止めゲートを開いて寒狭川におとした。この材木落とし施設は産業遺産。
          昭和58年(1983)に全面改修。
          電業社製水車のランナー(羽根車)が鳳来町の山びこ民俗伝承館に展示
 大正11年(1922):横川発電所建設(550kw、現役、豊川水系最後の発電所)
          昭和62年(1987)に全面改修。電業社製ランナーが中電奥矢作揚水発電館の水力発電を模したシンボルタワーに展示
 
▼黄柳橋ほか奥三河のアーチ橋(大正時代の和風アーチ橋)
 愛知県の三河山間部には、鉄筋コンクリート製オープンアーチ橋(RCオープンアーチ橋)の名橋がある。南設楽郡鳳来町の黄柳橋と北設楽郡稲武町の漆瀬橋および郡界橋など。いずれも大正時代に架けられた道路橋。わが国初期のRCオープンアーチ橋がまとまってみられる三河山間部は、土木技術史の面から注目される。
 
(1)黄柳(つげ)橋(平成10年に登録文化財)
 場 所:鳳来町乗本。県道69号線(別所街道)が黄柳川に架かる橋
 建設年:大正7年(1918)11月、愛知県の土木技師、吉田仙之丞と舘喜八郎によって設計
 規 模:長さ50.2m、幅3.6m、高さ14mの深い渓谷に架かる
 特 徴:完成当時、アーチスパン30mは、大正時代のRCオープンアーチ橋のなかで国内最大
     大正期のRCオープンアーチ橋を代表する橋に位置づけられている
     デザイン面からも他にはない特徴をもつ
      橋の路床板とアーチ環が大きく離れ、路床を支える井桁状の支柱が例がないほど高い
      井桁状の支柱は木材建築を意識、この点から和風RCアーチ橋と呼ばれ、大正期の特徴を色濃く持つデザインとして高く評価される
 現 在:地元で眼鏡橋として愛され、保存運動によって、平成7年に歩道橋として再生
 
(2)漆瀬橋
 場 所:稲武町川手ウルシゼ。国道257号線が名倉川に架かる橋。
 建設年:大正7年(1918)7月完成。和田清三が設計
 規 模:長さ27.8m、幅3.4m
 特 徴:中部5県で最古期のRCアーチ。2本のアーチは平行でなく8本の支柱が両端に行くほど外側に12度開いた三次元曲線を描く形状。デザイン的にも優れた橋、三河山間部に分布するRC開腹アーチ群の典型。資金不足のため橋床は木製
 
 
(3)郡界橋
 場 所:稲武町小田木と東加茂郡足助町の境を流れる段戸川に架かる(国道153号線、飯田街道)
 建設年:大正6年(1917)完成。
 規 模:長さ24.9m、幅4m
 特 徴:愛知県最初のRCオープンアーチ橋
     横桁を柱で支える木組み風の和風アーチ、X字タイプの高欄
 
▼布里用水と水路橋
(1)布里用水の概要
 布里用水は、豊川の支流巴川から取水(丸瀬橋付近に幅20mほどの堰堤)
 巴川に沿う形で布里地内まで導水する灌漑用水、全長約5km(現役)
 用水開さくの計画は明治初年頃
   地元の有力者「布里用水四人衆」によって起こされる
 用水開さく工事は、明治8(1875)年に着工、4年後の明治12(1879)年3月に完工
     深さ2〜3mの深堀水路(当時は素堀、昭和34年鉄筋コンクリートで改修)と、
     数10mの岩場の隧道掘削が難工事(一部は途中放棄、16m現存)
 用水には二カ所の沢
   栃沢川では数10mの掛樋(現在は撤去)、島沢川では水路橋(現存)
 布里用水は、落差は1mと少なく、
  「袋水」と呼ばれる水たまりをつくって流す「押水流水法」を工夫
  水路中間地点にサイフォンと呼ばれる暗渠水路
 
(2)水路橋
 布里用水の終末付近の鳳来町布里釜土戸(かまつちど)の島沢川に架かかる
 布里用水が完工した明治12(1879)年に完成
 施工者は、布里大谷貝津の石工、中尾又吉
   この棟梁のもと、地元の人達によってつくられる
 全長9.40m、幅2.72m、高さ約5mの石積みのアーチ橋
 橋の構造は、石積みアーチ橋の頂部に水路、道路橋としても利用(平成5年まで水路橋として使 用、同年開始の整備事業で改修中)
 
(3)布里用水と水路橋の価値
 @水路橋としての特徴を残す
   橋の上部に水路を持つ自然石を使ったアーチ橋、橋の中央のアーチ部に水抜き穴がある
     規模は小さいが形態は熊本県の通潤橋(つうじゅんきょう)(水路橋、国指定重要文化財)に似る
   重厚な感じを与え、美観的にバランスがよい
 A東海地方で唯一、最古の石積みアーチの水路橋
   愛知、岐阜、三重、静岡ではなし、長野県で2例(明治42年と大正15年)のみ
   布里用水は、明治12(1879)年で、建設年代も古い
 B「たたき(人造石)」使用の可能性
   土木に応用した、たたき工法初期の構造物と推察
 C地元で由緒ある橋
   布里における水田開拓の記念碑的存在、めがね橋として親しまれる
 
▼牟呂用水と人造石
 明治20年(1887)11月 牟呂用水工事着手(同年7月に完成した賀茂用水を延長)
 明治21年(1888) 4月 毛利祥久、新田開発に着手
         6月 牟呂用水工事完了(総延長8960間、約16000m)
 明治23年(1890) 5月 延長3里に渡る堤防工事完工。「毛利新田」と称す
 明治24年(1891)10月 濃尾大地震で堤防決壊
 明治25年(1892) 9月 大暴風雨のため堤防決壊、新田破壊。牟呂用水も大被害
        12月 毛利祥久、新田再築を断念
 明治26年(1893) 4月 神野金之助、毛利新田を譲り受ける
         6月 神野新田工事着手、服部長七の人造石で工事
            *明治22年に服部長七が完成させた広島宇品築港の人造石堤防の強固な姿を見て神野金之助が服部長七を招く
 明治27年(1894) 7月 牟呂用水復旧工事完工、通水開始
 明治28年(1895) 3月 神野新田堤防工事を人造石で完工(全長約12.2km)
 明治29年(1896) 4月 神野新田成工式を挙行、紀徳碑建設式を挙行
            農商務大臣榎本武揚、子爵品川弥二郎はじめ官民約2000人が参列
            民間工事として世間の注目を集めた工事
         9月 牟呂用水を利用した牟呂発電所完成(現・牟呂大西町)
 昭和38年(1963)   昭和28年からこの年まで約10年間に、数次に渡る大規模な国営工事によって人造石堤防はコンクリートによって覆われる
 
・牟呂用水に現存する人造石構築物
  第1樋管(新城市一鍬田)
  第5樋管、第7樋管(いずれも豊橋市賀茂町)
  神野新田紀徳碑(牟呂町市場)のある牟呂用水最終放水樋管周辺
 
【参考】服部長七と人造石
 人造石とは左官技術の一つである「たたき」(石灰とサバ土を混ぜて練ったもの)を土木工事に応用したもの。碧南出身の服部長七が明治初期に考案した工法。
 日本に鉄筋コンクリート工法が普及する明治末期までの間に、全国の港湾堤防や護岸、干拓堤防、用水堰堤などに人造石が多く工事された。愛知県では高浜新田干拓堤防をはじめ、牟呂用水、神野新田、明治用水、名古屋築港などの大規模工事に採用された。明治30年代には、愛知県土木部が人造石工法を正式採用、県内各地の新田や用水の樋管工事に、それまでの木製から人造石に大々的に改築。
 愛知県には今日でも各地で現役の人造石構築物や遺構をみることができる。
 
▼田口線
(1)田口線の歴史
 明治33年(1900)豊橋−大海間の豊川鉄道開通
 大正12年(1923)大海−三河河合間の鳳来寺鉄道開通
 昭和2年(1927)田口鉄道鰍ェ設立
   段戸山の御料林の原木を搬出する目的(宮内省帝室林野局も資本参加)
 昭和4年(1929)鳳来寺口駅−三河海老間が開通
 昭和5年(1930)三河海老−清崎間が開通
 昭和7年(1932)清崎−三河田口間が開通、全線22.6km開通
 昭和31年(1956)豊橋鉄道に併合し、豊橋鉄道田口線となる
 昭和43年(1968)8月31日廃止
 
(2)田口線のおもな遺構
・田口線起点の本長篠駅のプラットホーム(当時の状態を残す)
・大井川橋梁(高さ10m、石積み)
・三河大草駅跡(プラットホームが残る、田口線2番目の駅)
・三河田口までは富保隧道、峰隧道などの隧道、橋梁などがいくつか残る。
・かつての線路跡が道路やトンネル(稲目トンネルなど)として利用される。
・終点の三河田口駅舎
・田口線を走った電車「モハ10型」(奥三河郷土館に展示)
 
▼博物館に保存展示される産業遺産
・豊根村民俗館・ビジターセンター(豊根村坂場):養蚕・山樵・紡織用具
・東栄町立博物館・併設民俗館(東栄町本郷):轆轤、手機、座繰器、養蚕・山樵用具など
・稲武町郷土資料館(稲武町小田木):養蚕・山樵・紡織用具
・古橋懐古館(稲武町稲橋):足踏み轆轤、座繰り器、製粉機、農具など
・奥矢作揚水発電館(稲武町小田木):発電用水車、発電機など
・面の木ビジターセンター(津具村高笹):木挽き鋸など山樵用具、復元炭窯など
・津具村立民俗資料館(津具村見出原):足踏み轆轤、金摺り石、津具の山樵用具(国指定民俗資料)
・作手村歴史民俗資料館(作手村高里):瓦生産用具一式、高機など
・設楽町立奥三河郷土館(設楽町田口):7万点余の収蔵品、田口線車両、養蚕・山樵用具など
・山びこ民俗伝承館(鳳来町玖老瀬):布里発電所ランナー、田口鉄道の遺品、農林業の各種用具
・医王寺民俗資料館(鳳来町長篠):水車、養蚕・紡織・山樵用具、電話交換機など
・博物館明治村(犬山市):新城市から収集したガラ紡機が保存展示
 
 
4.産業遺産の評価と活用
   産業遺産は多種多様、無秩序で発見
   価値判断するために整理、分類が必要
(1)評価の枠組み
  @日本の産業技術史上価値あるもの
  A愛知県内で古くて価値あるもの
  B愛知県(地域)特有の産業に関する価値あるもの 
  C当該企業(地域)にとって古くて価値あるもの
  
(2)産業遺産を活用した各地の事例
◇工場を産業遺産として活用
  産業技術記念館、ノリタケの森(名古屋市西区)
  博物館酢の里(半田市、蔵と運河を利用)
  倉敷アイビースクェア(保存活用の先駆、昭和44年、倉紡企業資料館とホテル)
  薩摩藩の集成館(我が国初期の機械工場、紡績機械、反射炉跡など)
◇地域に分散する工場、施設を産業遺産として活用
  常滑焼(窯のある広場資料館、登り窯、角窯、煉瓦煙突ほか)
  菅谷たたら(島根件県吉田村、たら製鉄の地域文化を伝える)
  織物の町・桐生の町並み(近代化遺産拠点都市)
  大牟田の三池炭坑(竪坑、三池港施設、専用鉄道など)
◇土木・建築物を産業遺産として活用
  横浜みなとみらい21(旧横浜船渠1,2号ドック)
  清水港テルファ(木材積込用クレーン)
  大井川鉄道(SL運転)
  碓氷峠鉄道施設(煉瓦造の第3橋梁、トンネルなど)
  琵琶湖疎水(煉瓦の水路橋、旧ポンプ場、閘門、インクライン、発電所跡など)
  隅田川橋梁群(震災復興で架橋)
◇鉱山跡を産業遺産として活用
  佐渡金山、生野銀山、足尾銅山、別子銅山、中竜鉱山、尾小屋鉱山、釜石鉱山など
◇産業遺産を移築、移設して展示(博物館、資料館)
  博物館明治村(明治建築、明治期の機械ほか)など各地の博物館(企業博物館含む)、資料館
 
(3)産業遺産の活用について
・産業遺産はまちづくりの一つの核になる可能性を持つ
・産業遺産は一度失われると戻らない
・産業遺産の現況調査の重要性
  産業の興りの背景、在来技術、導入技術(機械技術)、人の関わり
  地域の特徴的な(歴史的な)産業をつかむ
  手業(職人技)の技術の発掘と集積
  現役企業、職人技のウォッチング(産業観光)
  職人の手業や機械の動きは引き込まれる要素を持つ
  企業、地元の協力は欠かせない、新製品も10年後には産業遺産
・各地で、青空博物館、屋根のない博物館、地域全体生きている博物館構想、自治体の取り組み
・マップ、見学コースづくり、学校教育、生涯教育、産業観光に
 
■世界各地で産業遺産の研究が進められる、関心の高まり
  TICCIH(国際産業遺産保存会議:International Conference on the Conservation of the Industrial Heritage)
  ICOMOS(国際記念物遺跡会議)
  UNESCO(世界遺産)
  文化庁(近代化遺産調査が1992年以降県別に調査継続中、平成13年度から3年間愛知県の調査が始まる。近代化遺跡調査も分野別で継続中)
  産業考古学会、日本産業技術史学会、中部産業遺産研究会などによる研究の蓄積
 

【産業遺産に関する主な参考文献】
1)山崎俊雄・前田清志『日本の産業遺産−産業考古学研究−』玉川大学出版部、1986年
2)愛知の産業遺跡・遺物調査保存研究会『愛知の産業遺跡・遺物に関する調査報告』1987年
3)愛知の産業遺跡・遺物調査保存研究会『愛知の産業遺産を歩く』中日新聞本社、1988年
4)産業考古学会編『日本の産業遺産300選』1,2,3、同文館、1993〜94年
5)東海近代遺産研究会編『近代を歩く−いまも息づく東海の建築・土木遺産−』ひくまの出版、1994年
6)中部産業遺産研究会『ものづくり再発見-中部の産業遺産探訪-』アグネ技術センター、2000年
7)前田清志・玉川寛治『日本の産業遺産U』玉川大学出版部、2000年
8)前田清志『日本の機械遺産』オーム社、2000年
9)伊東孝『日本の近代化遺産』岩波新書、2000年
10)日本ナショナルトラスト監修『日本近代化遺産を歩く』JTB,2001年
11)増田彰久『近代化遺産を歩く』中公新書、2001年

本稿は、穂の国森づくりの会、第3回森づくりセミナー「奥三河の森と暮らし」で報告(2003.3.1於:豊橋市民センターカリオンビル)  (禁無断転載)


Update:2008/10/24  0000

(中部産業遺産研究会会員)
2003/10
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