生きている水車製材 −天竜市の大谷製材所−

天野武弘


A Sawmill Working by Water wheel Power
- OTANI Sawmill Company at Tenryu City Shizuoka Prefecture -
by Takehiro AMANO


1・天竜川流域に残る唯一の製材用水車

静岡県の天竜川流域の製材工場で、一台の在来型水車が50年近く働き続けている。天竜市阿寺の大谷製材所で製材用動力として使われる水車である。
 大谷製材所は、天竜川中流域の天竜市上阿多古から天竜川の支流阿多古川と並行して走る県道296号線(熊小松天竜川停車場線)に入り、約4Kmほど山間に入ったところである。阿多古川左岸に建つ大谷製材所の周りは、檜の山に囲まれ、林業、製材が盛んであった頃をほうふつさせる雰囲気を持っている。しかしいまは大谷製材所だけが取り残されたかのように一軒だけ建っている。
大谷製材所の工場にはいると、板や角に挽かれた製品が山と積まれ、木の香りが漂ってくる。出入口すぐ右手にはテーブル帯鋸盤、右手奥に送材車付きの帯鋸盤、正面に横切盤の3台の製材機械が鋸屑にまみれているのが見える。目立機のある部屋から地下に下りると、大きな歯車とベルト伝動装置が目に飛び込んでくる。予想を超える大がかりな伝導装置に驚かされる。川沿いに回ると、大きな水車に再び圧倒される。上掛け式の全鉄製の水車である。水車は、工場の板壁に囲まれ、水車の水跳ねを防ぐための鉄板のカバーが付いているため全体像は見えないが、見上げる大きさである。その水車の回る姿はゆっくりではあるが、水量を十分に受け力強さが感じられる。
天竜川流域はかつてはわが国有数の木材生産地で、その流域には多くの製材工場が立ち並んでいた。電力が普及した昭和時代に入っても、とくに上流域では水車はまだ主要な製材工場の動力として多く使われていた。しかし昭和20年代後半には、天竜川流域の水車製材はわずか8カ所となってしまう(1)。そして現在、水車動力の製材所は、天竜川流域では大谷製材所ただ一カ所となっている。
 ここでは天竜川流域で唯一のこされた水車製材の実態を、おもに現地での聞き取りと実測した結果について報告する。

2・天竜川流域の水車製材の盛衰

大谷製材所の実態に触れる前に、天竜川流域の製材業の歴史的状況を概観しておこう。
 天竜川流域でもっとも早く製材機械が設置された製材所は、浜名郡河輪村の産業社である(2)。産業社は明治8年(1875)に建てられ、蒸気機関を動力とした製材所であった。また同じ年に水車を動力にした製材所が磐田郡竜山村に建てられている。丸鋸1台を設備した橋本製材所である。産業社は江戸時代からの主要な港である天竜川河口の掛塚港付近に建てられた製材所、橋本製材所は天竜川の中流域の山間に建てられたいわゆる山元製材所である。いずれも近代的製材工場の民間におけるわが国で最初の製材所であった。とくに橋本製材所は山元製材所の最初の製材所でもあった。
天竜川流域ではその後、相次いで製材所ができ、明治29年(1896)までに23工場(3)が建てられている。その多くは水車を動力とする山元の小規模な製材工場であった。このころは全国的にも民間の製材工場は少なく、明治29年以前に設立された製材所は全国で34工場(馬力数1007)(4)であった。いかに天竜川流域に製材所が集中していたかがわかる。民間製材工場調査の最初の全国統計となる明治38年(1905)の山林局調査(明治39年に山林局報第三号として発表)でも静岡県は、全国491工場のうち105工場と21%を占め、工場数、馬力数、製材高、鋸台数で絶対優位を保っていた。この状況はだいたい大正初年まで続いていくことになる。
 その背景は、江戸時代から柿をはじめ木材が商品として、掛塚港から盛んに江戸市場に出荷されていたことから、天竜川上流の育成的林業が展開されていたこと、および明治19年(1886)から金原明善が着手した植林事業により、天竜林業は全国の林業地帯の模範として一般建築材を供給する林業地になっていたことなどであった。
天竜川流域の水車製材がもっとも盛んにおこなわれたのは大正時代である。大正5年(1916)の山林局の調査(5)によると、静岡県の製材所194工場のうち50%が水力で、丸鋸のみの工場が135工場と69%を占めている。天竜川流域では明治の末年から大正時代にかけて大馬力を要する近代的な製材工場が出現してくるが、大正5年頃はまだ山元の水車を動力とする小規模な製材所が多かったことを同調査は示している。そして特徴的な出来事は、大正12年(1923)頃に水力による製材所が天竜川中流域の二俣(天竜市)以北のみとなったことと、同じ12年に41%あった水車製材の工場数が、昭和2年(1927)に36%となり、首位の座を電力(43%)にゆずったことである。
天竜川流域の製材業は大正12年(1923)頃から昭和2年(1927)頃に最頂点に達するが、昭和初期の経済不況は、能率の悪い小規模工場を中心に整理をすすめることになった。しかし一方、この不況は、年々増えていた輸入材の減少をもたらし、国産材による製品を有利にしたことから、昭和5〜6年頃から国産材を挽く山元製材の回復をもたらした。大谷製材所の前身となる製材所が操業を開始したのもちょうどこの頃であった。
昭和時代にはいると、電力の普及は山元の製材所にまで及び、昭和2年(1927)に36%であった水力による製材所は、昭和9年(1927)には24%、昭和12年(1937)には19%(6)と年々その比率を下げていった。そして昭和16年(1941)に施行された戦時体制下の木材統制法は、小規模な製材所を整理統合することになり、水車製材の多くが整理の対象となった。
敗戦直後には、電力不足を反映し、山元では一時的に水車製材が増えるが永くは続かなかった。天竜川流域で大谷製材所以外の水車製材が姿を消したのは昭和30年代だったようである(7)。

3・大谷製材所の水車製材の実態

(1)大谷製材所の創業
 大谷製材所の前身となる製材所がこの地で操業を開始したのは昭和初期の頃であった。旧製茶工場を利用したものであった。大谷製材所のある阿寺部落はいまもお茶畑の多いところである。この製材所は創業後まもなく現当主の大谷正二氏の父赫太郎氏が受け継ぎ、大谷製材所となった。そのくわしい年代は不明である。しかし昭和16年(1941)には戦時体制下の木材統制にかかり、製材所は閉鎖となった。
 戦後の昭和23年(1948)6月に、同じ場所に製材工場を新築して再出発した。製材工場の再建では、昭和初期に建てられた水車製材の工場形態をほぼ受け継いだようである。このとき建てた工場が現在の工場で、建坪はおよそ65坪(234u)、製材機械は帯鋸盤2台と横切盤、目立機などがそろえられ、山間の工場としては近代化をはかった比較的規模の大きな製材工場として操業が開始された。

(2)大谷製材所の立地
 大谷製材所は、阿多古川の上流域の両側を険しい山に囲まれた標高200mほどの谷筋にある。製材所は、高さ約3.5mほどの崖になった阿多古川左岸に建ち、水車のための落差がとりやすい位置にある。このことが製材所をこの地に立地したもっとも大きな理由であるが、もう一つの理由に大谷氏は木材が入手しやすかったことを挙げている。大谷製材所では、創業当時から木材のほとんどを近くの山で伐採したものを用いてきた。
 大谷製材所のある阿寺部落を含めた上阿多古地区は、檜に適した地質からその植林がされ、林業の盛んな地であった。製材所もかつては大谷製材所から少し下った川筋に3カ所ほどあったという。このように、木材が入手しやすいことが山元製材の利点でもあった。
 しかし、工場であれば今日では致命的な問題点となる200ボルトの動力線がいまだ阿寺部落に届いていない。山間の工場を象徴する状況であるが、動力線が引かれているのは大谷製材所から4Kmほど下流の部落までである。大谷製材所が動力に水車を利用する最大の理由はここにある。

(3)製材工場
大谷製材所は昭和23年(1948)に再建されて以来、製材工場も機械設備もほとんど手が加えられてないという。
 製材工場は図に示すように、地下に動力用の水車と伝達装置、1階に製材用の機械が配置されている。地下に動力および伝達装置を配置する方式は、水車製材の一般的な形態(8)だったようで、筆者が調査した豊川流域の水車製材遺構の多くもそうであった(9)。これは当時の伝達装置のほとんどがベルト伝動で、大きな動力を伝えるには大きなベルト車が必要となり、そのための装置は大がかりにならざるを得なかったことによる。
 地下に伝達装置を設置することは、落差を必要とする水車にとっても好都合である。また1階の作業スペースの確保や安全面からみても必要な方法であった。
 大谷製材所では、帯鋸への動力伝達に苦労したようで、中間軸を4軸から5軸を経由するという複雑な方式がとられている。水車製材の場合、水車軸と鋸軸との距離はふつうは4.6〜6.1m(15〜20尺)(10)といわれるが、大谷製材所では水車が工場のいちばん端に設置されたことから、この距離が11mと長い。このことが中間軸を多くした要因であろう。中間軸が多いということは、これに付くベルト車の比から高速回転を必要とする鋸の増速をはかることができるが、伝導効率の点で不利であり、動力の損失が大きくなる。大谷製材所では、水車の直径を大きくしてこの点をカバーしたものと考えられる。

(4)水車
 大谷製材所の水車は、全鉄製の直径5.3m、幅0.92m、軸径110mmである。全鉄製の大きなものである。木製水車の場合、直径は3m〜4.6m(10〜15尺)が適当(11)とされているが、鉄製であるがゆえに大谷製材所の場合はこれを越えて大きくできたのであろう。水は水車の真上から掛かる上掛け式で、もっとも出力の出る方式である。水車の出力については、大谷氏はモータで製材しているところと比較して、水量のあるときで25馬力ぐらいと推定している。
大谷製材所で、それまでの木製水車から鉄製の水車に取り替えたのは昭和26、7年(1951、2)頃という。地元天竜市の鉄工所で製作され、現地で組み立てがおこなわれた。水車の水受けにリベット継手がされているほかはボルト締めでつくられている。ただ、からみの部分に一部溶接箇所が見られる。これはのちの修理のさいのものであろう。
 50年近く働き続けている水車であるが、一部に錆がういているものの朽ちた様子はない。ただ7〜8年ほど前に大修理がされている。水車の主軸に亀裂が入っための取り替え工事である。この大修理を可能にしたのは、水車のくもてと主軸がボルト締めだったからであろう。水車をジャッキで持ち上げて修理がされた。木製水車の寿命はだいたい10〜15年といわれている。50年以上は保つといわれる鉄製水車の寿命の長さは、コールタールなどの塗装が施されることのほか、このような部分修理が可能なところからもきていると思われる。
 
(5)堰堤と水路
 堰堤は川幅いっぱいにつくられた鉄筋コンクリート造りの横断堰堤である。かつては丸太で組んだ堰堤であったが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風による水害で壊れ、大谷製材所によってつくり替えられたものである。阿多古川上流は河床に岩が多く、木材の流送には不適であった。堰堤には魚道は付いているが木材を流せる構造にはなっていない。
水量は4〜10月の夏場は比較的豊富のようである。しかし11〜2月の冬場は水量が少なく、帯鋸が1台しか回らない時があった。堰堤が丸太で組んであったときには、堰をかさ上げして水を溜めたこともあった。
水路は阿多古川左岸沿いに工場までほぼ一直線につくられ、堰堤から水車までの水路の長さは180mほどである。堰堤近くの水路は鉄筋コンクリート造りで、幅1.15m、深さ0.55mである。ここもやはり伊勢湾台風による水害で改修されていたが、工場近くの水路にはところどころにかつての石垣や木製水路が残されていた。
 水路は工場内では床下を通り、水車の真上まで引かれている。水車のすぐ手前に二つの水門があり、仕切り板(差蓋)を付け替えることによって、水車側と余水側に水流を切り替えるようになっている。水門から水車真上までは木樋で通している。

(6)製材機械
鋸工場に設置される機械は合計6台である。メインの機械が手押し送材車付き帯鋸盤で、おもに大割りや角材用に使用されている。テーブル帯鋸盤は小割や背板用、横切盤は板の幅をそろえるために使われている。この3台が現役の製材機械である。残りの3台は丸鋸および帯鋸の目立用の機械であるが、10年ほど前から使われていない。鋸の目立ては外注に出している。帯鋸は一日に4〜5枚は取り替えるため鋸の目立ては手間のかかる作業であったが、今では目立て屋が3日ごとに来てくれるから便利だとのことである。
 機械はいずれも戦後に設置してから更新していない。なお戦前には、木材統制にかかるまで丸鋸と竪鋸の各1台で製材していた。竪鋸は板挽き専用の製材機械であった。

(7)製品および製材量
大谷製材所では、木材の買い付け、伐採、製材、出荷までの作業をすべて自前でおこなっている。これは製材をはじめた当初の頃から続けているもので、いわゆる賃挽き製材ではなかった。製品のほとんどが建築材で、現在では大工からの注文により、一軒分をまとめて挽くことが多い。
 製材量は、最近は1日およそ10石程度である。1石とは1尺角×長さ10尺の角材の体積であらわすが、角材と板材では同じ石数でも手間が大きく違い、石数だけでは製材量をはかれないようである。
労働時間は昔から朝7時から夕方5時までで、途中約2時間おきに40分の休憩をとっている。従業員は、敗戦直後は6〜7人ほどいたが、いまは子息と従業員1人の3人である。
 製品の出荷先はほとんどが地元の天竜市である。戦後直後は馬で浜松までよく運んだ。2日がかりであった。ときおり運送屋の木炭自動車を使ったこともあった。

4・大谷製材所の産業遺産としての位置づけ

天竜川に隣接する愛知県の豊川流域では、昭和38年(1963)を最後に水車製材は姿を消している(12)。また中国、九州地方の二カ所の製材所で、水車が動力として稼働していた(13)が、このうち熊本県大津町の太田黒製材所の水車はすでに7、8年前の水害で壊れ、岡山県勝田町の共和林業の水車はときどき稼働させる程度となっている。(14)。
 このように、わずかに残されてきた水車製材も次第に姿を消している。水車が現役で稼働する大谷製材所は、おそらく全国的にも残された水車製材の数少ないうちの一つであろう。
 また大谷製材所は、産業遺産として各地に残る水車製材遺構の実態を解きあかすうえでその存在意義が大きい。製材業の発展の中で水車動力の果たした役割は大きいが、その実態は数えるほどしか記録されていない。現役の水車製材の実態を記録することは、遺構として各地に残る水車製材の実態を解きあかす糸口になるものと思われる。
 水車製材遺構では、ほとんどの場合、水路や水車堀、ときには伝達装置や製材機械の基礎が発見できる程度である。水車が残っていることはきわめて稀である。このことを考えたとき、大谷製材所の水車や伝達装置をはじめとする設備状況はじつに参考になる。
 大谷製材所に動力線が引かれるという計画はないようである。いまも十分にその役割を果たしている大谷製材所の水車は、まさに生きている水車製材である。貴重な産業遺産ともなる水車製材は、まだ当分は操業が続けられるようである。

本調査では大谷製材所のご当主大谷正二氏に大変お世話になりました。また実測では愛知県立豊川工業高等学校の機械科教諭山本喜嗣氏の協力を頂きました。感謝申し上げます。


(注)
(1)天竜川木材協同組合連合会『天竜』(昭和29年)P16の表「天竜川流域製材工場現勢(昭和29年4月調べ)」およびP20〜26の「組合員名簿」より抽出
(2)宮原省久『木材工業史話』林材新聞社(昭和25年)P23
(3)静岡県木材協同組合連合会『静岡県木材史』(昭和43年)P170の表「天竜川材木商同業組合地区の製材工場」より抽出
(4)船越昭治『日本の林業・林政』(財)農林統計協会(昭和56年)P129の表「設立期別製材工場数(「明治林業逸史」571頁より作成)」および、前出『静岡県木材史』P187、P190
(5)前出『静岡県木材史』P192の表「大正5年製材工場規模(山林局調)」より
(6)前出『静岡県木材史』P357〜361の表「天竜川流域材木商同業組合管内製材力」より
(7)大谷製材所当主の大谷正二氏は、製材業に携わりはじめた昭和30年以後、天竜川流域で大谷製材所のほかに水車製材所を見たことがないという。
(8)西垣晋作『簡単なる水力応用製材工場』(大正12年)、西日本工業大学・池森研究室解説版(1988年)の、図3「製材工場機械配置」より
(9)松倉源造・天野武弘『聞き書き・豊川流域の水車製材と筏流送』(1995)P37の図21「横川製材所機械配置図」ほか
(10)前出『簡単なる水力応用製材工場』池森研究室解説版、P8
(11)前出『簡単なる水力応用製材工場』池森研究室解説版、P10
(12)前出『聞き書き・豊川流域の水車製材と筏流送』P9の表「奥三河豊川流域の水車製材所遺構」より
(13)室田武『技術のエントロピー』PHP研究所(1985)P67
(14)いずれも現地への問い合わせによる。共和林業では小割用の帯鋸の動力として月に数回程度動かしている。岡山県下では水車製材は共和林業だけという。


本稿は、産業考古学会『産業考古学』83号(1997年2月20日発行)に掲載


(追記)現在は水車は稼働していない



Update:2008/10/24  0000  (禁無断転載)

(中部産業遺産研究会会員)
1999/1
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