豊橋歴史探訪「とよはしの産業遺産めぐり」
−牟呂用水と神野新田−

天野武弘


                                               
■日時 2003年3月24日(土) 10:00〜16:00頃
■見学コース
豊橋美術博物館→上旭橋(車窓)→牟呂用水沿い→大江川橋(車窓)→下条取水場→牟呂用水沿い→第7樋管→徒歩で第5樋管(賀茂神社駐車場、トイレ休憩)→牟呂用水沿い→石巻山山頂駐車場(昼食)→牟呂用水沿い→上旭橋(車窓)→水上ビル→神野新田資料館→柳生川運河→牟呂用水最終放水樋管→牟呂発電所址→(時間があれば、園龍寺、新富神社(神野金之助頌徳碑ほか)、二十間川樋門、神野新田堤防上の観音像など)→美術博物館

 
■牟呂用水開さく、神野新田開拓の年表
明治20年(1887)11月 牟呂用水工事着手(同年7月に完成した賀茂用水を延長)
       12月 毛利祥久(長州出身)、牟呂吉田沖に1100町歩(330万坪)の新田開発の計画の許可を受ける
明治21年(1888) 4月 毛利祥久、新田開発に着手
        6月 牟呂用水工事完了(総延長8960間、約16000m)
明治23年(1890) 5月 延長3里に渡る堤防工事完工。「毛利新田」と称す
明治24年(1891)10月 濃尾大地震で堤防決壊
明治25年(1892) 9月 大暴風雨のため堤防決壊、原形をとどめないまでに新田破壊。
          牟呂用水も大被害
       12月 毛利祥久、新田再築を断念
明治26年(1893) 4月 神野金之助、毛利新田を譲り受ける
        6月 神野新田工事着手、服部長七の人造石で工事
           *明治22年に服部長七が完成させた広島宇品築港の人造石堤防の強固な姿を見て神野金之助が服部長七を招く
明治27年(1894) 7月 牟呂用水復旧工事完工、通水開始
明治28年(1895) 3月 神野新田堤防工事を人造石で完工(全長約12.2km)
      *堤防の高さ2丈4尺(約7.3m)+内側に3尺の小堤を設ける
       堤防の構造は、堤体内部は土砂で充填、外法を人造石で水密性を高める、波が反転するようにカーブを描く堤防に仕上げる(長七と神野の創案)
明治29年(1896) 4月 神野新田成工式を挙行、紀徳碑建設式を挙行
           農商務大臣榎本武揚、子爵品川弥二郎はじめ官民約2000人が参列
           民間工事としては世間の注目を集めた工事であった
        9月 牟呂用水を利用した牟呂発電所完成(現・牟呂大西町)
明治30年(1897) 2月 ヌ、ル、ヲの割で製塩事業開始
昭和28年(1953) 9月 台風13号によって4号堤防の一部が決壊、人造石になってから初の決壊(約60年間波浪に耐える)
           昭和19年12月の東南海地震、昭和20年1月の三河地震、翌21年12月の南海地震と連続した地震による堤防の修築工事が進められ、決壊箇所の堤防も草を刈り取り修築中であった。またこの時は、64年ぶりといわれる異常潮位でもあった。そのため裏込めの砂が洗われ決壊を招いた。千町歩の新田と、500戸近い民家が流失
       10月 復旧工事が県直営の工事で始まる。決壊箇所へは石俵を船で投下する方法をとり、2週間で澪止めに成功、3週間で完工。投下した石俵は合計約10万6000表であった。作業従事者はのべ13000名余り。地元総出の工事。
昭和34年(1959) 9月 復旧工事が90%終わった時に伊勢湾台風に遭う。施工済みの神野新田は被害は少なかった。
昭和38年(1963)   昭和28年からこの年まで約10年間に、数次に渡る大規模な国営工事によって人造石堤防はコンクリートによって覆われる
          明治以来続いた人造石の目地塗りに終止符が打たれる
 
■服部長七と人造石
 人造石とは左官技術の一つである「たたき」(石灰とサバ土を混ぜて練ったもの)を土木工事に応用したもの。碧南出身の服部長七が明治初期に考案した工法。
 日本に鉄筋コンクリート工法が普及する明治末期までの間に、全国の港湾堤防や護岸、干拓堤防、用水堰堤などに人造石が多く工事された。愛知県では高浜新田干拓堤防をはじめ、牟呂用水、神野新田、明治用水、名古屋築港などの大規模工事に採用された。また明治30年代には、県内各地の新田や用水の樋管工事に、それまでの木製から人造石に大々的に改築されている。それは、愛知県   服部長七(岩津天満宮所蔵)
土木部が人造の強固な点を認め正式採用したことからであった。
 このことから愛知県には今日でも各地で現役の人造石構築物や遺構をみることができる。
 現在、神野新田の干拓堤防は、すべてがコンクリートで覆われているが、内部は人造石堤防がそのまま残っている。
 現存する人造石構築物は、神野新田紀徳碑(牟呂町市場)のある牟呂用水最終放水樋管周辺にみられる。また牟呂用水には第1樋管(新城市一鍬田)、第5樋管、第7樋管(いずれも豊橋市賀茂町)に人造石をみることができる。
 

■豊橋電灯牟呂発電所の建設と運転
 豊橋における電灯事業の開始は、明治27年(1894)4月の梅田川発電所(現・浜道町)であった。梅田川の水を利用した水力発電所で、30馬力の水車を用いて発電したが、水量不足で失敗する。豊橋電灯が次に発電所をつくったの牟呂用水を利用したが牟呂発電所であった。
 牟呂発電所の設計は名古屋電灯の丹羽正道、工事監督は東京三吉電機の小田庄吉
明治29年(1896) 9月 発電所完成し、運転を開始
      *創業時の設備概要
        水 車:直径42インチ(約1m)の洋式のタービン水車1台(50馬力)
        発電機:単相交流発電機1台(2000v、30kw)
        発電能力:16燭光(約20ワット余り)の電灯600灯分
明治29年(1896) 11月 農業用水であったため年間を通じた水力を確保することが難しく、その水量不足を補うため、ボイラと蒸気機関を導入。この時点で火力を主とする発電所になる
      *ボイラ :1台(50馬力)
        蒸気機関:70馬力 1台
        煙突  :鉄製、高さ80尺(24m)、直径3尺(0.9m)
明治32年(1899) 末 供給電灯数 1000灯を超える
          需要の中心は陸軍歩兵第一八連隊(全体の4割)
明治33年(1900)   発電機を30kwから50kwに更新
明治38年(1905) 4月 ボイラと蒸気機関を各1台追加し、30kwの発電機を使用して出力をアップ
      *この時の発電設備は、
        水 車  1台(50馬力)
        発電機  2台(50kwと30kw)
        ボイラ  2台(50馬力)
        蒸気機関 2台(1台は45馬力、もう1台は30kw用) 
 
■下条取水場
 豊橋最初の近代水道は、明治45年(1912)3月に完成した陸軍第15師団に給水した軍用水道。静岡県境の弓張山系の表流水を飯村町高山で貯水し、緩速濾過による自然流下方式で給水。現在も使用しされている。
【豊橋市の市営水道の歴史概要】
大正13年(1924)5月 豊橋市土木課長長崎敏音によって水源調査が始まる
  2年におよぶ調査の結果、豊川の伏流水を水源とする計画が作成される
  現在の下条西町の豊川河床2.4mの地点に直径1.8cmの子孔が多数開いたコンクリート管を埋め、伏流水を集める集水埋渠方式がとられた。この利点は取水量が安定し、河床が濾過層の役割を果たすことにある。
昭和2年(1927)7月 建設起工
昭和4年(1929)3月 通水試験が行われる
昭和5年(1930)3月 工事竣工、豊橋市街と豊川対岸の下地町12万人に給水開始
  当初、浄水場が隣接して作られる予定であったが、水害の恐れから小鷹野(現浄水場)に変更となる。配水場は小鷹野浄水場となりの多米屏風岩山頂(海抜53m)に設置
現在、取水量は毎秒243リットル。豊橋市給水量の約40%をまかなっている
*ポンプ場
 昭和4年(1929)3月竣工、鉄筋コンクリート地上1階、地下2階、豊橋水道最初のポンプ場
  設   計:豊橋市臨時水道部、
  工事請負人:坂田真吉
 昭和47年(1972)現在の姿に増改築
  特   徴:ポンプ場正面左右に舌を出したインデアンの顔が3個ずつ付く(理由は不明)

大江川橋(牛川町):昭和3年(1928)完成、鉄筋コンクリート桁橋
 神田川橋(牛川町):昭和4年(1929)完成、鉄筋コンクリート桁橋

■豊橋築港計画
 それまでの豊橋港は牟呂町市場にあったが、豊川舟運の船溜まり程度であった。
 豊橋の工業都市化を図るためには臨海工業地帯の形成と豊橋港の建設が不可欠。
昭和 9年(1934)   神野新田前の海面に築港計画決まる
昭和11年(1936) 9月 豊橋市は築港用地として神野新田メの割、ミの割地先の土地を購入
          豊橋港現地測量開始
昭和13年(1938)   戦争拡大のため、メ、ミの割護岸工事と岸壁の一部を作ったのみで放置
 

■柳生川の改修、運河計画
 柳生川運河は、都市計画との関連で、豊橋市前田、渥美郡高師村福岡・牟呂の三耕地整理組合連合会が計画。
 東海道本線柳生川鉄橋下から牟呂港までの延長2500間余(約4500m)を幅15尺(約45m)、干潮水面下6尺(約18m)に開さくし、柳生川鉄橋下に200間四方の船溜まりを設けて牟呂港より200トン級の船を上下させる計画。
昭和 8年(1933) 1月 柳生川運河の開さくが始まる
昭和11年(1936) 8月 ほぼ工事終了。舟運が便利になり柳生川沿岸に新しい工業地帯が広がる
昭和12年(1937)10月 豊橋港築港計画よあわせて運河の拡張工事に着手
          しかし、日中戦争拡大による資材や作業者、運送手段等の不足によって工事が止まる   
 
■参考文献
1)神野金之助『神野新田紀事』明治37年
2)『牟呂用水普通水利組合誌』牟呂用水普通水利組合、昭和12年
3)堀田璋左右『神野金之助』神野金之助翁伝記編纂会、昭和15年
4)酒井正三郎・小出保治『神野新田』神野新田土地農業組合、神野新田土地株式会社、昭和27年
5)『豊橋市史 第四巻』豊橋市、昭和62年
6)『神野新田開拓百年記念誌』神野新田土地改良区、平成5年
7)浅野伸一『水力の夜明けに−評伝 技師 大岡正−』平成9年
8)東海近代遺産研究会『近代を歩く−いまも息づく東海の建築・土木遺産−』ひくまの出版、1994年
9)馬場俊介『近代土木遺産調査報告書-愛知・岐阜・三重・静岡・長野-』名古屋大学工学部土木工学科、1994年
(本稿は、豊橋市教育委員会主催「豊橋歴史探訪」(2003.3.24)の見学資料) (禁無断転載)

Update:2008/10/24  0000 

(中部産業遺産研究会会員)
2003/10
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