産業考古学と東海地方の産業遺産

天野武弘


一 はじめに

 産業に関する歴史的な建造物、工場施設、土木構造物、遺構などを解体するか保存活用するかのニュースがときどきマスコミの話題となる。最近の例でいえば、大阪市の住友長堀銅吹所遺跡(江戸時代の銅製錬所跡、調査後一九九二年に埋め戻し、その上にビル建設、一部保存展示)、福岡県北九州市の新日鉄八幡製鉄所東田高炉(一九九四年、会社と北九州市で保存活用が合意)、愛知県半田市の旧カブトビール赤煉瓦工場(一九九六年、市が買収し保存活用へ)、熊本県荒尾市の三井炭鉱四山鉱立坑櫓(九州最古の炭鉱用櫓、一九九六年解体)、東京港区汐留の旧新橋停車場鉄道遺構(一九九六年、保存活用を要請中)などである。
 これらは、産業遺産とか産業遺跡、産業記念物、産業文化財という言葉で語られている。その語義には多少の違いはあるが、私たちは最近ではこれを一括して産業遺産と呼んでいる。この産業遺産を調査研究する学問が産業考古学である。
わが国では、一九七七(昭和五二)年に産業考古学会が発足し、産業考古学研究と産業遺産の調査研究、保存を柱に学会活動が開始されている。ここでは産業考古学および、私が関わった産業遺産調査の一事例と東海地方の産業遺産を紹介する。

二 産業考古学とその活動

(一)産業考古学会の発足
 産業考古学という言葉が現れたのは一九五〇年代はじめのイギリスであった。この頃のイギリスでは各地に残る産業革命当時からの建造物や機械の調査・記録が、破壊、消滅を惜しむ多数のアマチュアグループによってはじめられていた。各地にはそれぞれの産業考古学会が形成され、産業遺産の記録と保存の活動が盛んに行われた。その保存活動の中から、イギリス産業革命期の一大拠点であったコールブルックデールに、当時の工場群を保存活用する形で一九五九年に博物館が開設された。こうした産業遺産の保存活用が、さらに産業考古学への関心を呼び起こし、一九七三年に学術団体としてのイギリス産業考古学協会が発足した。同年には産業考古学の国際組織である「国際産業遺産保存会議(TICCIH)」が結成され、イギリスのアイアンブリッジを会場にして第一回大会(八カ国が参加、日本は一九七五年の第二回大会から参加)が開かれている。
 わが国においても一九六〇年代ごろからのエネルギー革命、地域開発、スクラップ・アンド・ビルド政策などの進行によって、産業近代化に貢献した機械や装置、工場建物や土木構造物など多くの産業遺産の廃棄が急速に行われることになる。産業考古学が日本に紹介されたのはそんな頃の一九六九(昭和四四)年であった。それが契機となり、産業遺産の破壊を憂慮する人々が全国から結集し、産業考古学会が設立されたのである。

(二)産業考古学会の活動
今年(一九九七年)で、発足二十周年となるわが国の産業考古学会は、その性格から地域での調査、保存活動に重点を置いた活動が進められてきた。ほぼ全国を網羅した地域に所在する十を越える支部、関連学会、研究会と連携を取りながら、産業遺産の情報交換、調査研究、保存問題などが取り組まれている。また鉱山・金属、電気、水車と臼、鉄道技術史、映像記録など十一の個別テーマでの分科会活動、春の総会・研究講演発表会、秋の全国大会、産業遺産の見学会のほか、調査・論文などを載せた機関誌『産業考古学』が年四会発行されている。このうち、学会活動の特徴でもある保存に関する活動と顕彰制度について少しくわしく紹介する。

産業遺産の保存に関する活動

重要な産業遺産が十分な調査もされず消えていくことを憂慮した人々によって産業考古学会が発足した経緯から、産業遺産の保存に関する活動は学会の主要な柱となっている。
 学会発足二年後の一九七九(昭和五四)年に最初の保存要望書が出されて以来、一九九六(平成八)年までに二十九件の保存要望書等が関係各所に出されている。その主なものを次に列挙する。
福岡県朝倉町の重連水車(一九七九年)、北海道の小樽運河(一九八〇年)、横浜新港埠頭赤煉瓦倉庫(一九八四年)、名古屋市の庄内用水元杁樋(一九八六年)、長崎県の高島炭鉱の産業遺産(一九八六年)、国鉄の鉄道文化財(一九八六、八七年)、福岡県の八幡製鉄東田高炉(一九八九、九〇、九四年)、大阪の住友長堀銅吹所跡(一九九〇年)、岩手県の釜石製鉄所高炉(一九九五年)、東京の旧新橋停車場鉄道遺構(一九九六年)、熊本県の三井炭鉱四山鉱立櫓(一九九六年)など。
 重要な産業遺産の保存については、最近ではマスコミにも取り上げられ市民の関心事にもなってきている。そのことが保存に向けての力になっているが、「産業遺産は文化財」という認識は一般には薄く、保存活用への道のりは険しく、なかなか理解が得られないというのが現実である。

「推薦産業遺産」と「功労者表彰」

 産業考古学会では、学会活動のユニークな活動ともなっている「推薦産業遺産」(一九八三年度より実施)と「功労者表彰」(一九八五年度より実施)という二つの顕彰制度を設けている。
推薦産業遺産は、保存を必要とする重要な産業遺産のうち、国あるいは地方自治体による文化財指定を受けていないものについて、学会が独自に選定・推薦をするもので、所有者や関係者にその重要性をあらためて認識してもらうことを目的としている。全国に約六百名(一九九六年度)いる学会員からの「推薦候補」を審査して、年一回の総会で決定されている。一九九六年度現在、全国で四十五件が推薦産業遺産として認定されている。
保存功労者表彰は、地味で苦労の多い産業遺産の調査・保存に功労のあった個人または団体に対し、その努力を讃え、保存活用がより促進されることを願って実施されている。この種の表彰ではわが国唯一の制度ともなっている。手続きは推薦産業遺産と同様に行われ、一九九六年度現在、四十八件(個人三十、団体十八)が表彰されている。

[表]推薦産業遺産一覧


三 産業考古学と産業遺産

ところで、産業考古学と産業遺産については、その言葉がまだ一般化してないところもあると思われるので、その捉え方について少し触れておく。

産業考古学とは

産業考古学(Industrial Archaeology)とは、「残存する各種の物的資料を基にして、過去の産業活動を復元・再構成し、その面から人間の歴史への認識を、豊かに精密にしようとするもの」(1)である。物的資料を扱うという点で、また過去の人々の営為を再構築するという点で、それは広義には歴史学の一部門であり、また基本的には考古学の一部門をなすもの(2)ということができる。ただ産業考古学は、先に述べたように、発生的に考古学の一部門として登場したわけではない。その手法が基本的に考古学と共通の性格を持っているということである。
 各種の物的資料(「もの資料」)は極めて多種多様であり、歴史認識の素材とするためには整理、検証が必要である。このことは文献史学においても考古学においても早くから重視されており、産業考古学が学問研究として目指すところでもある。
 なお、わが国の産業考古学研究の母体である産業考古学会では、研究対象の年代は限定していないが、近世以降、とくに幕末・明治時代以降の近代に重点がおかれている。この点がわが国産業考古学研究の特徴ともなっている。

産業遺産とその分類

 産業遺産(Industrial Heritage)とは、産業の発展に貢献してきた機械や装置、工場建物や土木構造物など、人間が築いてきた過去の生産活動を具体的に示す「もの資料」を総称する言葉として使われている。産業遺産は産業の発達過程を知る、いわば歴史の生き証人であり、産業考古学研究の基礎資料となるものである。
だが、発見される産業遺産は、多種多様でしかも無秩序な実体として現れてくる場合がほとんどで、そのままでは価値判断のできないものが多い。これを産業考古資料とするためには、まずは整理、分類することが必要となる。その方法として、産業考古学では産業遺産の存在形態から、次のように産業遺跡、産業遺構、産業遺物という三つに分類(3)している。
 産業遺跡は、工場跡、発電所跡、鉱山跡、港湾跡、運河跡、駅跡などのように、人間の生産活動の痕跡が、土地と切り離せない形で残された場所をいい、一般に複数の遺構と遺物を包含している。
 産業遺構は、工場建物、駅舎、製鉄炉、トンネル、水門、橋梁などのように、遺跡中あるいは狭い範囲に残されている不動性の生産活動の痕跡で、限定された機能を持つ単一の構造物をいう。
 産業遺物は、機械、工具、計測器、製品、自動車、鉄道車輌、図面、写真、文書などのように、生産活動の結果として残された物的資料で、原位置から切り離してほかへ移動させることが可能なものをいう。
つぎに産業考古学調査の一事例を述べる

四 産業考古学調査の事例

 東海地方の産業遺産調査が組織的に動き出したのは、一九八四(昭和五九)年に「愛知の産業遺跡・遺物調査保存研究会」ができたときからである。トヨタ財団の調査助成により二年間に五百八十九件の産業遺産をリストアップ(4)することができ、その後の産業遺産調査の出発点になった。調査の過程では、保存問題にも直面し、ガラ紡績機、発電所の発電用水車、用水樋門などの保存に成功することになる。その後、調査の範囲も拡大し、現在は「中部産業遺産研究会」として調査保存活動が続けられている。その中で、私が主に関わった産業遺産調査について調査経過を交えて紹介する。

@官営愛知紡績所遺跡と初期綿糸紡績所の調査

官営愛知紡績所は、わが国の綿糸紡績奨励のために明治政府が設立した紡績所である。一八八一(明治一四)年に開業し、一八八六(明治一九)年に民間に払い下げられるまでその役割を果たした。当時、官営の紡績所は愛知と広島の二カ所に建てられたが、広島の方は開業前に民間に払い下げられたため、愛知紡績所は唯一の官営紡績所であった。
 立地場所は愛知県のほぼ中央部に位置する岡崎市で、水車を動力にしたため矢作川の支流乙川沿いの段丘地に建てられ、一・八キロメートルの水路が開削された。岡崎を中心とする西三河地方は江戸時代からの綿作地帯であった。当時は国産綿を使用して紡績振興を図る意図を持っており、そのことからの立地でもあった。
 愛知紡績所は民間に払い下げられたのち、一八九六(明治二九)年に火災により紡績工場を焼失するが、焼失を免れた綿糸倉庫や開削された水車のための水路、水車場の施設はその後も再利用され今日まで残ってきた。最近になり、現在この地を使用している日本高分子(株)岡崎工場の整備拡張により、綿糸倉庫は撤去され、水車場遺構上に事務所が新築された。本格調査を開始したのはこの工事がはじまる年の一九八八(昭和六三)年であった。
調査は岡崎市の学術研究奨励補助金を受け、建築および文化財、産業考古学の専門家の協力、助言を得て二年間にわたって実施した(5)。工事では、官営愛知紡績所遺跡の重要性について、会社からも一定の理解が得られ、調査の協力とともに、とくに水車場遺構上の事務所建設では、現状をできるだけ壊さない工法が採用された。その結果、官営時代に造られた総石造りの水車場施設は、高さ四メートルほどの段丘面に口を開ける形で当時の姿を残すことになった。
官営愛知紡績所遺跡の価値は、わが国初期綿糸紡績所の模範工場として建てられた経緯から、その後に建設される同規模の、全国十数カ所の綿糸紡績所の工場立地、工場建築、機械設備などのモデルとして建てられたことにあり、その主要な施設であった水車のための取水口、水路、水車場など、動力系統の遺構がほぼそっくり残ってきたという点にある。
 産業考古学の調査では、産業遺産の価値を特定するため、同種の産業遺産との比較検討が重要な作業となる。そのために関係する産業遺産の現地調査をはじめとする「もの資料」の調査が要求される。ここが文献史学と大きく違う点であるが、文献調査を軽視しているわけではない。より「もの資料」にあたることを重視しているのである。その一例を次に述べる。
 調査の過程で、官営愛知紡績所遺跡の重要性を確認するため、明治十年代に官営愛知紡績所をモデルとして建てられた全国の初期綿糸紡績所のうち、水車を動力にした紡績所である豊井(天理市)、三重(四日市市)、桑原(茨木市)、遠州二俣(天竜市)、島田(島田市)、下野(真岡市)、姫路(姫路市)および官営の広島(広島市)の各紡績所跡を現地調査した。
 その結果、島田紡績所跡(水路と水車場、工場建物の一部などが残る、建物は一九九四年に解体)と下野紡績所跡(水路の一部と工場遺構、移築された工場建物の一部などが残る、一九九一、九二年度に産業考古学会による総合調査(6)が実施される)に比較的残存遺構の多いことがわかったが、官営愛知紡績所遺跡は、一連の動力水系をよく残しているという点で、特筆できる遺跡であることが確認された。
 また調査の過程で、島田紡績所の創業者宅から、紡績所の動力源であったタービン水車の図面(原寸二分の一で描かれる、官営愛知紡績所と同種の水車図面)や、紡績機械の配置図面をはじめ各種の文書を発見することができた。のちに下野紡績所でも、創業者の関係者宅からタービン水車の同様の図面、文書等が発見されている。
また明治期の官営工場については、関係文書が残されていることが知られており、公文書調査も行った。ここでも官営愛知紡績所の紡績機械工場の平面図、立面図や水路図面などを発見することになった。その発見図面に基づいてあらためて現地調査を行ったところ、図面とほぼ完全に一致することが確認され、官営愛知紡績所遺跡の産業遺産としての価値をより決定づけることになった。
 このような調査の結果から、官営愛知紡績所遺跡は文化財級の産業遺産と位置づけたが、現在も水路など遺跡の大部分を産業施設として利用していることもあり文化財指定には至っていない。産業考古学会では学術的文化的に貴重な産業遺産として、一九九〇(平成二)年に「推薦産業遺産」に認定している。

A三龍社旧製糸工場の調査

三龍社は、一八九七(明治三〇)年に創業し全国でも有数の製糸工場として栄えた企業である。愛知県岡崎市の矢作川をはさんで岡崎城の対岸に位置する三龍社には、製糸業隆盛当時に建てられた煉瓦造の工場施設、設備の一部が残り、わが国初期の製糸産業を解きあかす産業遺産として調査の対象になっていた。
本格調査を開始したのは、三龍社本社工場移転のため旧製糸工場を解体することになった一九九一(平成三)年であった。調査は、産業史、産業遺産、建築史の三分野からなる調査団によって行われた。
 この調査の特徴をなす調査団の結成であったが、その経過は次のようであった。三龍社の製糸部門は一九八四(昭和五九)年に操業停止となる。残された製糸施設であるボイラー室、八角の大煙突、アーチ状の煙道、繰糸工場、繭倉庫など各種の煉瓦造建物は、明治三〇年から大正時代初期にかけて建てられたもので、景観的にも特徴ある建築群としてその保存活用が求められていた。その予備調査の段階で、保存活用のためには建築史専門家からの歴史的評価を得ることが不可欠になったこと。また三龍社には、創業時からの『事業報告書』をはじめとする多数の文書や、製糸作業や設備状況を写した大量の写真が存在していることがわかり、経営史の面からの専門的な調査も必要になったこと。これらの経緯から三者による総合的な調査(7)が行われることになった。
産業遺産の調査では、とくに近代の産業遺産をおもな対象としているため、調査分野は多岐にわたることが多い。そのため産業遺産の価値判断では専門家の力を借りなければならないことがよくある。必要に応じて調査団を組むか、グループによる調査が必要となる所以である。また調査では遺跡、遺構など広範囲で大きな構造物を対象にする場合が比較的多く、かつ現地調査を基本にし、実測も行うことから、個別調査であっても少なくとも数回のグループ調査が必要となってくる。この点もまた産業遺産調査の特徴である。
しかし歴史的評価を得ても保存には困難をともなう。三龍社の煉瓦造建築は、東海地方の煉瓦建築の中では年代・用途の面で非常に貴重な遺構(8)であることがわかったが、結局は解体となってしまった。新規事業等に活かす提案は採算の面からか受け入れられなかった。
 建物は解体となったが、数度にわたる詳細な建築調査により復元も可能な図面ができたのをはじめ、製糸用の道具や器具、生糸検査用機器、繭用具、発電機、刻印赤煉瓦などの建築用資材、生糸見本などの各種記念品、文書、写真など各種の産業遺物となる産業遺産が、岡崎市郷土館などで保存されることになった。製糸機械が構造改善事業で廃棄されたのは惜しまれたが、保存された産業遺産は製糸業や製糸技術の一端を記す「もの資料」として、いつかまた活かされるときが来るであろう。産業遺産調査では、緊急時には可能な限りまずは保管するという姿勢が時として必要になるのである。
産業遺産が産業考古資料となるためには、こうした収集、記録された「もの資料」の量的な蓄積がもとになり、先に述べたように整理・分類され、学問としての体系を形づくる道につながるようにすることが必要となる。その意味でも「もの資料」の収集、記録は、産業遺産調査では不可欠の作業となる。だが、近代の産業遺産については、いまだ保存への理解は十分とは言えない。とくに産業遺物には機械などのように重量物もあり、保管場所がネックとなる場合が多い。三龍社旧製糸工場の産業遺産の保存では、岡崎市はじめ関係者の理解と協力が大きかった。

五 東海の産業遺産紹介

愛知の産業遺跡・遺物調査保存研究会(現中部産業遺産研究会)では、過去に五百八十九件の愛知県内の産業遺産をリストアップし、主要なものを一九八七(昭和六二)年の八月から十二月にかけ「ふるさとの産業遺産」と題して中日新聞に百一回にわたり連載した。それに加筆訂正、追加して百十七件の産業遺産を紹介した単行書『愛知の産業遺産を歩く』を翌年の一九八八(昭和六三)年に中日新聞本社から発行した。また岐阜産業遺産研究会では、一九九四(平成六)年二月から九六(平成八)年九月までの三年間にかけ「ぎふの産業遺産」と題して、同じく中日新聞に五十回にわたり連載した。このほか地元の各種情報誌(9)にも三重、静岡の産業遺産を加え会員で分担し連載を行ってきた。
詳細はこれらを参考にして頂きたいが、その一部を紹介する。

明治用水旧頭首工(愛知県豊田市)

 一九〇一(明治三四)年に着工し付帯工事を含め一九〇九(明治四二)年に完成した旧頭首工の遺構である。頭首工とは川をせき止め水を用水路に引き入れるための施設をいうが、当時、矢作川をせき止める幅百十六メートルの横断堰堤は至難の工事と考えられていた。これを成し遂げたのが人造石工法による工事であった。
 人造石工法とは、左官技法の一つである「たたき」の技術を改良して土木構造物に利用したもので、愛知県碧南の服部長七により考案され、明治から大正時代にかけコンクリート工法が普及する過渡期に、全国的に採用された土木工法である。こんにち頭首工としての役割は終えたが、歴史的価値が認められその一部が明治用水土地改良区によって管理されている。また産業考古学会も推薦産業遺産として認定している。
人造石工法の遺構は東海地方には比較的多く、このほかに代表的なものとして次のものがある。牟呂用水樋門(明治二七年・愛知県新城市、豊橋市)、四日市旧港潮吹き防波堤(明治二七年・四日市市、文化庁による登録文化財)、明治用水葭池樋門(明治三三年・豊田市)、五六閘門(明治四〇年・岐阜県穂積町、産業考古学会の推薦産業遺産)、庄内用水元杁樋(明治四三年・名古屋市守山区、名古屋市によって保存)など。

ガラ紡績機とガラ紡工場(愛知県岡崎市、豊田市ほか)

ガラ紡とは綿から糸にする紡績法のひとつであるが、その紡績メカニズムが世界にも例のない独創的なものとして知られている。一八七三(明治六)年に信州の臥雲辰致により発明され、一八七七(明治一〇)年の第一回内国博覧会で最高賞を得て、全国に普及した。とくに愛知県三河地方で普及し、全国一のガラ紡産地となった。しかし洋式紡績の効率の良さに押され、こんにち、愛知県内ではガラ紡工場は十工場に満たない数となっている。
ガラ紡績機は愛知県内には、明治村機械館、一宮市博物館、産業技術記念館などに、明治から昭和初期の頃に製作されたもの数台が保存展示されている。また、豊田市の山間にあるガラ紡工場のひとつは、一八九七(明治三〇)年の創業で、水車動力時代の工場形態を残し操業が続けられている。稼働中であるが貴重な産業遺産として位置づけている。ガラガラと音を立てて回るその動きは見ていて飽きない。

 誌面の都合もあり、このほか私が調査および見学したもののうち、地域別に主要な産業遺産をあげておく。したがい地域、分野が偏ることをお許し頂きたい。

〈愛知県〉

・旧豊田紡織本社工場(トヨタ発祥の工場建物、現産業技術記念館、 豊田佐吉のG型自動織機一号機などが展示、名古屋市)
・製土工場と製土機械群(明治期の陶器工場遺産、ノリタケカンパ ニリミテド本社内、名古屋市)
・鍋屋上野浄水場第一ポンプ室・東山給水塔(名古屋水道事業史の 遺産、名古屋市)
・明治村機械館(移築された鉄道寮新橋工場内にわが国初期の各種 機械が保存展示、犬山市)
・碍子博物館(世界の碍子を一堂に展示、日本ガイシ小牧工場内、 小牧市)
・大同アーク炉(国内現存最古の電気炉、大同特殊鋼知多工場内、 知多市)
・旧カブトビール赤煉瓦工場(明治期のビール工場、半田市)
・博物館「酢の里」(半田の酢造りの施設、道具が展示、半田市)
・常滑の登窯、煉瓦煙突(常滑焼きの産業遺産が点在、常滑市)
・長篠発電所の溢流堤(豊川水系最初の発電所堰堤と水路、新城市)
・国産初のモノレールカー(上野公園を走る、日本車輌豊川製造所 内に保存展示、日本車輌製旧国鉄納入一号機関車も展示、豊川市)
・豊川流域の水車製材遺構(奥三河に点在する水車を動力とする製 材所の遺構、鳳来町、設楽町)

〈岐阜県〉

・木曽三川治水遺跡(背割堤や船頭平閘門など近代治水事業の遺産、 羽島市および愛知県立田村)
・長良川発電所(明治の赤煉瓦建物と初期の発電機が保存、美濃市)
・旧八百津発電所(木曽川最古の発電所を八百津町郷土館に活用、 館内には旧設備などを保存展示、八百津町)
・東海道線の長良川鉄橋(明治期の雄大なトラス、岐阜市と穂積町)

〈三重県〉

・菅島灯台(わが国最古の煉瓦造灯台、鳥羽市菅島)

〈静岡県〉

・島田紡績所遺跡(初期綿糸紡績所の一つ、島田市)
・韮山反射炉(世界で現存する唯一の反射炉、韮山町)
・相良油田(太平洋側で唯一の現存油田、相良町)
・大井川鉄道(蒸気機関車など鉄道遺産を保存、運転、金谷町)
・旧地名発電所遺跡(大井川水系二番目の発電所で、まとまった遺 構が残る、中川根町)

六 おわりに

 今年(一九九七年)の正月四日の中日新聞に「工場や産業遺産に光を」「“テクノ中部”観光本格化」の見出しで産業遺産に注目する記事が大きく報道された。夕刊一面のトップ記事である。「モノづくりの伝統を丸ごと観光資源に」、「観光資源とは無縁とみられていた工場や産業遺産に新しい光を当てる試み」として、工場や産業遺産を観光資源にして観光客を誘致したいという内容である。その主体は、中部運輸局の働きかけで東海四県の自治体や商工会議所、ホテル、旅行業界など四十六の組織でつくられた協議会である。
昨年(一九九六年)十月には文化財保護法が改正され、文化財登録制度が導入された。これは従来の文化財指定制度に加え、重要文化財ほど評価が定まらないが文化財として価値がある近代の建造物について、国が緩やかに指導、助言、勧告して保存しようとするものである。いわば将来、指定文化財になりそうなものを登録して保護していこうとしたもので、初年度に文化財保護審議会で、四日市の潮吹き防波堤や愛知県岡崎市の八丁味噌本社事務所など百十九件が答申された。建造物がおもな対象であるが、その内訳では産業用施設が四十八件と最も多い。すでに全国で三千件が登録文化財として候補が上がっているといわれる。
 またこれ以前の平成二年度より「日本近代化遺産総合調査」が開始されている。これは文化庁が建造物を中心とする近代の産業遺産の調査を目的に、全国規模で調査を開始したもので、各都道府県を調査主体にして二か年にわたる国庫補助事業として開始されている。すでに群馬、秋田、福岡、新潟、大分、北海道、埼玉、富山、岐阜、三重が調査を終わり、岩手、山梨、山口、広島、鳥取、長崎で現在調査が進められている。その調査報告の一部を見ると、建築物だけでなく産業遺産に該当するものも多く含まれている。
このように近年、産業遺産への関心が、国や自治体にもおよび、産業遺産という言葉も少しづつではあるが知られるようになってきた。また産業技術に関する博物館も企業博物館を中心に増えてきている。しかし産業遺産はまだ一般にはなじみのない言葉であり、その調査では理解されないことも多い。とくに保存問題では顕著である。「産業遺産は文化財」の言葉が定着することを願うものである。


(注)
(1)飯塚一雄「産業考古資料の基本的分類」『産業考古学』第七九号、産業考古学会、一九九六年、四頁
(2)飯塚一雄「産業遺産の分類について」『産業遺産データベースシステムの研究−中間報告−』産業遺産データベース研究会、一九九五年、一三頁
(3)同、一五頁〜
(4)愛知の産業遺跡・遺物調査保存研究会『愛知の産業遺跡・遺物に関する調査報告』一九八七年
(5)天野武弘他『官営の愛知紡績所の緊急調査報告』一九八九年、同『官営愛知紡績所遺構の調査報告(第二次)』一九九〇年
(6)下野紡績所調査団『下野紡績所調査報告書』真岡市教育委員会、一九九四年
(7)三龍社旧製糸工場調査団『三龍社旧製糸工場に関する産業遺産調査研究報告』一九九二年、および、渡辺則雄・篭谷直人「合資会社三龍社『事業報告書』第一期(一八九七年)〜第二六回(一九二二年)の紹介」、天野武弘「三龍社旧製糸工場の産業遺産」、水野信太郎「三龍社旧製糸工場の建築」いずれも『岡崎市史研究』第一五号、一九九三年、二頁〜七五頁に掲載
(8)水野信太郎、前掲書、六一頁
(9)(財)中部産業活性化センター『CIAC REPORT』誌に一九九三年一月から一九九六年九月にかけ「クローズアップ>産業遺産」と題して二二回連載、愛知県産業情報センター『あいち産業情報』誌に一九九四年五月から「産業遺産を歩く」と題して一九九七年一月現在三三回にわたり連載中ほか。


本稿は、『歴史と地理』山川出版社発行、499号(1997年3月)掲載



Update:2008/10/24  0000 (禁無断掲載)

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