東海の鉄文化を探る

 天野 武弘

 
1 はじめに
 愛知県内ではいまだ製鉄遺跡が発見されていない。岐阜、三重、静岡を含めた東海地方で見ても、製鉄遺跡の発掘例がきわめて少なく、全国的にも製鉄の可能性を十分に実証できない空白地帯となっている。一方、鉄の加工分野である鋳造や鍛冶は、中世から近世にかけて各地に産地を形成するなど鉄器の供給地となって栄えた。ここでは、これらの鉄文化を築いた鋳造や鍛冶の実態および地域的特徴との関わりから鉄原料の入手およびこの地域の製鉄の可能性を探ってみることにする。
 
2 東海の鉄文化
(1)鉄仏と鋳物師
 東海地方の名古屋および木曽川水郷地帯は鉄仏が集中していることで知られている。鉄仏は全国に約50体あり、関東に30体と多いが、関東以西ではこの濃尾地方に10体が集中している点に特徴が見られる。濃尾の10体のうち7体は13世紀に造られ、3体は16世紀の戦国時代に造られている。故井塚政義大同工業大学名誉教授は、この鉄仏の製作の経緯を、鎌倉時代に民間信仰に深く根を下ろした地蔵信仰に求め、毎年のように水禍に苦しむ水郷の深刻な風土が鉄地蔵を造らせたという。とくに東海最古の鉄仏が造られた寛喜2(1230)年は大飢饉の年でもあった。木像や石像でなくなぜ鉄製にしたのであろうか。井塚氏はこの地域の農民にとって鉄仏の鋳造こそが材料の上でも技術の上でも外部の力に頼ることなくもっとも身近に間に合わせることができたと論ずる(井塚政義『和鉄の文化』)。さらにこの鉄仏は地元農民の手で造られたと推論している。
 このころの鋳造を業とする鋳物師の存在はどのようであったろうか。鋳物師は平安末期までは鍋、釜、鋤、鍬の製品から原料の鉄まで所持して、広い範囲で交易する鉄器物の商人であったとされる。建暦12(1212)年、鎌倉幕府は鋳物師たちのそれまでの特権である五畿七道諸国を往反する権利を保障し、全国を自由に通行する特権を認めている。これによってより広範な地域に鉄器流通と普及の役割を鋳物師が担うことになった。原料鉄が農民によって行われていたとすれば、それを集め各地の鋳物師や鍛冶に売買したのも遍歴した鋳物師であった。鋳物師から鉄の商人が分化するのは南北朝から室町期とされていることから、鉄仏が造られた鎌倉期は諸国を遍歴する鋳物師がその製作に何らかの関わりを持ったものとも推定される。福田豊彦氏は13世紀末に成立したといわれる『東北院職人歌合』によって鋳物師が製鉄を行っていたことがわかるといい、鍛冶、鋳物師のなかに製鉄部門が包摂されていたという(福田豊彦「文献史料より見た古代の製鉄」『古代日本の鉄と社会』)。尾張の鉄仏は遍歴していた鋳物師による製作、あるいは鋳物師の手ほどきを受けて、井塚氏のいうように農民による製鉄と鋳造がされたのかも知れない。
 一方、鎌倉中期頃から供御人組織の対立によって、河内国丹南の鋳物師が各地に分散し定着していくようになる。三河国宝飯郡牛久保(愛知県豊川市)の中尾鋳物師は、南朝敗北以後に河内国より来たといわれる。鋳物師の各地への移住は戦国時代に頻繁になる。各地の鋳物師が持つ「鋳物師由来書」には河内国丹南郡を根拠に全国を自由に廻って商売していた鋳物師が「宝徳(1449〜52)年中始めて諸国に居住を免し給われ」各地に住むようになったとある(笹本正治「近世鋳物師と鍛冶」『講座・日本技術の社会史第五巻』)。
 
(2)東海の鋳物師と鉄器
 江戸時代における東海のおもな鋳物産地および鋳物師は、愛知県内では久米の片山武兵ヱ(常滑市)、大浜の国松十兵衛(碧南市)、平坂の太田庄兵衛ほか(西尾市)、金屋の中尾惣左衛門、中尾与惣治、中尾重右衛門(豊川市)、菅生の安藤三郎五郎近重と木村重左ヱ門(岡崎市)、名古屋の水野太郎左衛門(名古屋市東区鍋屋上野町)が知られ、岐阜県の美濃地方では笠松の田中五兵衛、太田半右衛門(羽島郡笠松町)、神戸の鍋屋弥兵衛(安八郡神戸町)、岐阜の岡本太郎右衛門ほか(岐阜市小熊町)、三重では、津の辻勘兵衛(津市)、中山の安保市太夫(津市)、桑名の広瀬長左衛門と辻内善右衛門(桑名市)が知られていた(『東海鋳物史縞』総合鋳物センター)。
 これらの中から事業を大きく展開させた豊川の中尾家と名古屋の水野家について、江戸時代の鉄文化を築くことになった鋳造業の概略を見ることにする。
 
@豊川の中尾鋳物師
 中尾鋳物師がこの地にいつ来たのは定かではないが、中尾家の伝えによると南朝敗北後に河内国から来往したといわれる。中尾性のもっとも古い鋳造品は、応安3(1370)年銘の梵鐘がとなりまちの宝飯郡小坂井町の菟足(うたり)神社にある。中尾鋳物師は14世紀半ば頃にはこの地に来ていたと思われる。
 天文7(1538)年には「三州山東鐘鋳」の許状が特権が、城主牧野出羽守保成から三河牛久保の中尾助九郎に安堵されている。中尾家は領主との関係を持つことによって東三河地方での鐘鋳の特権を得て仕事を続けた。とくに戦国時代は、武器や日常生活に使う鋳物をつくる職人を確保することは領主にとっては戦略であり、領主は鋳物師を保護することでこれを確保した。一方鋳物師も大名からの許状は独占的に鋳物業ができる特権をもつことになり、領内で許可なく鋳造するものや他国からの鋳物師の侵入を排除する点からも重要であった。
 また、江戸時代に勅許鋳物師としての許状を発給することによって、全国の鋳物師支配をはかった真継家とのつながりは、中尾家は天正17(1589)年が最初のようである。以後、一時の途絶えはあったが、中尾鋳物師と真継家とのつながりは深く、許状の発給は明治2(1869)年まで続き、鋳物師としての権威付けをこれによって得ていた。真継家との早い段階からのつながりなどからか、平坂の太田家、岡崎の安藤家と木村家、大浜の国松家など三河のおもだった鋳物師を統率する役割を中尾家が果たしていた。
 中尾家は元禄9(1669)年に新工場を増築し鋳鉄製の鍋、釜の製造を始めた。ここで製造した三州釜は西日本一帯でたいへん有名になる。とくに文化年中(1804〜18)から鍋、釜の鋳造は盛んになり、文政3(1820)年7月には岩見国高津の土屋藤右衛門から350石積みの船を大阪で買い、大量販売の道を開いている。さらに弘化3(1846)年に、中尾家は大阪の播磨屋平五郎から400石積みの船を購入し、販売強化を図っている。この船での大量輸送が西日本一帯で三州釜の名声を上げる大きな要因となったようである。当時の中尾家鋳物業の繁盛のようすは、『三河名所図絵』(嘉永3〜7年、1850〜54)にその一端が記されている。「今世、中尾十(重)右衛門、中尾与三(惣)次の両家繁栄して数千人の職人を使ひて産業とす、其鋳器は多く大坂に運送す、其が荷物の夥しきこと、大概諸国に冠たるもの」と伝えている。
 中尾家は明治にはいると、それまで鋳物業とともに行っていた金融業が行き詰り、江戸時代のような勢いはなくなったが、鍋釜の鋳造は続けた。大正時代には、近代的な鋳造設備を導入し挽回を図っている。江戸時代から今日まで連綿として鋳造業を営み、地域の文化形成に大きく貢献した中尾家(現中尾工業)は、平成11(1999)年に鋳造業の幕をおろした。
 
A名古屋の水野鋳物師
 水野家が名古屋の鍋屋上野で鋳造を開始したのは慶長16(1611)年である。その前年に名古屋城築城が開始されるとともに徳川家から大工職の安堵を受けていた水野太郎左衛門は、清洲から名古屋の地に移住したのである。
 水野太郎左衛門はもともとは山田庄上野郷(愛知県春日井市)に住み、近世には尾張一国の鋳物師を支配していた鋳物師であった。水野鋳物師の来歴ははっきりしないが、水野太郎左衛門の作品は永正5(1508)年銘の鐘をはじめ、享保4(1531)年の名古屋観聴寺の鉄地蔵など、1500年頃よりこの地に各種の鋳造品を残している。
 水野家と領主とのつながりは、永禄5(1562)年に織田信長から判物を得たことにはじまるようである。次いで、天正18(1590)年に豊臣氏からも大工職の安堵を受け、豊臣氏とも関係を持った水野家は、文禄2(1593)年に上野村から清洲城下に移住し領主とのつながりを深めた。そして慶長7(1602)年に徳川家より大工職の安堵を受けてからは代々尾張藩主より黒印状を受け、たとえば延宝4(1674)年に名古屋の鋳物師20人を水野家の配下にしているなど、水野家は鋳物師頭として尾張一国の鋳物師を率いて幕末まで藩に仕えた。
 鋳物業としての水野家は、藩が用いる釜などの日常用鋳物、鐘など寺社用の鋳物などは一手に受けたようであるが、城修復用の金具や道具などの鋳造では配下の鋳物師を率いてあたった。また武器の鋳造にも携わった。文化5(1808)年には100目(100匁、375g)玉の鋳造に成功し30玉を藩に献上している。このとき以来、毎年100目玉50玉を上納することになる。また嘉永7(1854)年には時代を反映して青銅製と思われる大砲鋳造にも成功し、水野家はこの功によって翌年尾張藩鉄砲鋳に任ぜられている。
 なお、水野家は真継家とは関係を結んでいなかった。尾張藩との密接な関係から真継家の許状がなくても領内の鋳物師を統率できたからであった。
 水野家のその後は、明治の末年頃まで梵鐘の鋳造をし、大正の年代まで鍋屋町に子孫が軒を並べていたという。しかし、第二次大戦の戦禍に遭い、江戸時代から水野鋳物師の伝統を引き継いだ鋳物業もこのとき消滅となった。
 
(3)地域に密着した農鍛冶
 鍛冶については、刀鍛冶、刃物鍛冶、鉄砲鍛冶、船鍛冶、釘鍛冶、農鍛冶などさまざまな鍛冶が存在し、それぞれ独特な技術や文化を形成した。東海には関鍛冶の里である岐阜県関市が刀鍛冶および刃物鍛冶として伝統の鉄文化を築いてきたが、ここでは地域に密着して仕事をし、農民にとってはもっとも大切であり貴重であった鍬、鎌などを製作する農鍛冶に焦点を合わせ、おもに愛知県の一大鍛冶産地として鉄文化を築いた吉田鍛冶(豊橋市)と大野鍛冶(常滑市および知多市)について概要を述べる。
 鍛冶の歴史は古く、『延喜式』巻第三十四には大和の102戸をはじめ計352戸の鍛冶戸が記録されている。近畿一円の数ではあるが刀剣、農具、木工具、釘などを製造していたのであろう。近世にはたとえば吉田藩のように築城にあわせ鍛冶屋が移住するように、鍛冶も鋳物師と同じように藩の保護を受け武具や農具の製作をした。元禄年間頃からはとくに米つくりが重視され鍬はもっとも重要な農具となり、その鍬の製作、修理のために農鍛冶が増加し、産地を形成したり各地に出向いて仕事をするようになる。産地を形成し季節ごとに近隣の村々から持ち込まれてきた鍬の修理をする鍛冶を居鍛冶、村々を廻って鍬の修理をする鍛冶を出鍛冶と称するが、その代表例がこの地域では居鍛冶の吉田鍛冶、出鍛冶の大野鍛冶であった。
 
@吉田鍛冶
 吉田鍛冶の起源は、永正2(1505)年に、ときの領主牧野古白が今川氏から築城を命じられ今橋城(吉田城の前身)の築城にあたり、隣村の牛久保村から伴ってきた鍛冶職人にはじまる。池田輝政が入城し吉田の城下町づくりがはじまった天正18(1590)年に鍛冶職人はこの時、いまの元鍛治町(豊橋市)に移住する。はじめは裏通りに構えるが、表通り(鍛治町)に移ってからは、東海道の両側に鍛冶屋が連なって商いしたことから、吉田鍛冶は大繁盛する。とくに吉田鎌は名物鎌であった。そのようすは『百姓伝記』(延宝年間、1673〜81)に「御当代三州よし田のかまかぢ、なり、かっこうよくうち、よくきるる也」とある。鎌は鍬とちがって消耗品であったことからよく売れる商品であった。鍛冶職人は正徳2(1712)年の「吉田惣町差出帳」には42人が記されている。
 吉田鍛冶は鍛治町に定住してから明治時代まで、独特な居鍛冶として鍛冶町が形成された。その形態は、農閑期の春と秋の2回、村々からは磨り減った鍬をはじめとする農具をもって、修理のため鍛冶町に訪れた。修理には時間を要したこともあり、そのために吉田宿は潤い、鍛冶屋と遊女をうたった詩「宿ノ入口鍛冶屋多シ 往来唄ヒ行ク古風ノ歌 吉田通レバ自二階招ク 然モ鹿子之振袖娥」(『五十三次道中誌選』)も文政年間(1818〜30)に現れている。
 鍬の修理は先掛け(サキガケ、サイガケ)という方法であった。これは磨り減った鍬の刃先に鍋銑を溶か付けして新しい刃金をつける方法で、こうすることによって鍬は再生された。鍬は鎌と違って消耗品でなく、毎年これを繰り返すことによって代々受け継がれ、使われてきたものであった。この先掛けは吉田だけでなく、広く全国にわたって農鍛冶の生業の基本的な部分をなしていた方法であった。
 居鍛冶として鍛治町を形成した吉田鍛冶ではあったが、一方で出鍛冶の存在もあった。たとえば元文4(1739)年には『覚書之事』という出鍛冶の停止願いが庄屋に出されている。そこには吉田周辺に出鍛冶の数が増え鍛治町の居鍛冶の存在を脅かすようになったことが記され、出鍛冶が出向く場所として遠州の新居や豊川、新城、田原、東三河山間部の24ヵ村に及んでいることが記されている。このように吉田鍛冶の中には出鍛冶も頻繁に行っていたものもいた。また、宝永3(1706)年には『かぢ中間一札之事』という届けを吉田鍛冶44名の連判で庄屋に出しているが、そこでは「このごろは原料の鉄が高くなって儲けが少ないから今まで在に出向く時に持っていった打物の土産をやめる」という苦しい内情も記されている。
 江戸時代の後期になると、在村農鍛冶が急速に増加するが、それは必然でもあった。元文4年の先の文書には、当時すでに近隣の24ヵ村に28軒の在村農鍛冶が定住したことが記されている。とくに吉田の鍛治町から遠方の村にとって在村鍛冶はどうしてもほしい存在であった。そのことを示す一例として、天保5(1834)の『乍恐以書附奉願上候』には、文政12(1829)年に鍛治町以外で仕事をしたということで、株仲間を結成していた吉田鍛冶から営業停止処分を受けていた一人の鍛冶屋を、村で雇いたい、という願いが役所に出されている。
 吉田の鍛治町の独占体制と居鍛冶は江戸時代を通じて続いたが、明治20(1887)年にようやく鍛冶仲間は出鍛冶を承認し自由営業に移行した。しかしなおかつ、このときの規約の付帯事項には「修理品を村々に集めに行かない」が盛り込まれ、違反者には罰則規定も定められていた。
 
A大野鍛冶
 常滑のすぐ北に位置する大野(常滑市および知多市)は、海を渡って伊勢へ進む港を持ち、東国と西国を結ぶ知多半島横断の要路であった。ここが鍛冶の町となるきっかけは、12〜13世紀にかけ近江国辻村の鍛冶が移り住んだことによる。大野鍛冶は、近世には農鍛冶と舟鍛冶の両者が存在し、享保15(1730)年には鍛冶仲間合わせて185人が、互いに職分を犯さないよう申し合わせて連判している。安永2(1773)年に株仲間を結成し、鍛冶株を147軒と決めている。
 大野鍛冶は、尾州鍛冶総仲間のなかで、鍛冶としてはもっとも大きな勢力を持っていた。ところが、株を持たないで鍛冶をするものが増え、統制が困難になったことから、安政5(1776)に鍛冶株を持たないものからも税の取り立てが定められた。寛政9(1797)年からは、尾州鍛冶職の総元締めとして名古屋の時計師津田助左衛門があたることになった。しかし、株をもたないで鍛冶をするものはあとを絶たず、享和2(1802)年には、大野の鍛冶職人別名前覚135軒のなかにも、鍛冶株を持たないものが鍛冶職の下働きとして、農閑期に出稼ぎに出ていることが記されている。
 耕地面積が少なかった知多地方は、黒鍬や杜氏などとともに鍛冶も知多地方農民の代表的な出稼ぎの職種となっていった。この農閑期を利用した出稼ぎは、尾張藩からも認められるようになり、出鍛冶としての職種を作り出していった。
 大野鍛冶の出鍛冶としての仕事は、農閑期を利用した春と秋の年二回であった。春鍛冶は春の彼岸から田植えまでの三ヶ月、秋鍛冶は秋の彼岸から稲刈りまでの一ヶ月を通常にし、通算して年に5〜6ヶ月ほどであった。親方は子方と称する弟子を3〜4人連れて村々を移動した。旅先には細工場と呼ばれる鍛冶場があり、そこから一里半四方が得意先の範囲であった。
 大野鍛冶の鍬などの修理の方法はおもに湯先(ユザキ)であった。鍬などの修理には先掛けと湯先という方法があったが、基本的には同じ方法である。湯先は先掛けのなかでもっとも簡便な方法だったともいわれる。それは、古い鍋や釜を細かく割った銑鉄を使用して修理する鍬の先端に載せ火炉に入れる。加熱されると融点の低い銑鉄は先に溶けるが、この時を見計らって鍬地金に鍛接して新しい刃先とする方法である。
 知多半島の大野を根拠にした大野の出鍛冶も、大正から昭和になると、代々出鍛冶していたものも定鍛冶(居鍛冶)に変わるなど、次第にその姿を消していった。
 
3 製鉄の可能性を探る一方法
 東海では中世のころより鋳物師、鍛冶が地域の中核的産業として栄え、広い範囲にわたって鍋、釜、などの生活用具や鍬、鎌などの農具、道具などを供給した。これらの鉄製品は中世のころには貴重品の扱いであったが、江戸時代中期以降になれば必需品として広く普及した。これらの生産地では鉄原料はどのように入手したであろうか。また、製鉄遺跡がほとんど発掘されていないなか、この地域での製鉄の可能性についても次の点から考察してみたい。
 
(1)製鉄原料から
 製鉄の原料は、砂鉄または鉄鉱石、燃料は木炭、そして石灰も考えておいた方がよい。
 砂鉄については、古来より有名な産地は、北海道、青森、岩手、秋田、茨城、島根、岡山、広島、大分、宮崎、鹿児島とされ、大正から昭和にかけて多くの鉱区をもったのが鳥取、島根、広島の中国地方、と岩手、青森の東北地方、そして鹿児島はじめ九州地方であった(長谷川熊彦『砂鉄−本邦砂鉄鉱及其利用−』昭和11年)。東海地方では、愛知県にはまったく砂鉄鉱区はなく、岐阜と三重にわずかに点在するのみである。岐阜県で記されるのは中津川を中心とする苗木地区で全鉄分は44.4%と、島根県吉田村など50%後半から60%台の山陰地方に比べると品位はよくない。しかも苗木の砂鉄はチタン酸化物が34%とけた外れに多い(前掲『砂鉄−本邦砂鉄鉱及其利用−』の全国133箇所の砂鉄鉱化学成分表より)。三重県は同書にある分布図から見ると砂鉄鉱区は津市あたりのようである。これとは別に、『鉄山必用記事』に「諸国鉄ノ出ル所」として「伊勢ノ国多磨留ト云ウ所ノ近辺ニ粉鉄多ク有ルヨシ」とある。ここは現在、伊勢市に隣接する度会郡玉城町田丸と思われる。
 また、昭和29(1954)年から36(1961)年にかけ、通産省鉱山局の地下資源開発審議会鉱山部会が未利用鉄資源の調査を行っている。これは、わが国の砂鉄や鉄鉱石資源の経済的稼業対象を確定するために全国各地の埋蔵量を調べたものであるが、砂鉄については昭和36年の調査では約6000万トンが発表されている。ここで東海地方ではわずかに、主な産地として三重県名張市の名張鉱山があげられている(長谷川熊彦『砂鉄−本邦砂鉄鉱及其利用−』昭和38年版)が、チタン酸化物が25〜35%と高く、隣接の奈良県生駒地方とともにイルメナイト鉱としてのほうが著名とされている。
 したがって過去の調査記録からは、東海地方は砂鉄鉱は砂鉄鉱はきわめて少なく、しかもわずかに記録される砂鉄鉱もチタン酸化物がきわめて多く、製鉄には向かない砂鉄であることがわかる。
 海岸の砂鉄については、その量を問わなければ全国どこの海岸でも堆積している。この観点から、砂鉄産地にはあげられていない愛知県渥美半島の太平洋岸に位置する城下海岸の砂鉄について調べた(加藤誠、天野武弘「城下砂鉄について」名古屋工業技術試験所報告別冊第31巻第1・2号、昭和57年)。その結果からは、砂中の磁選砂鉄が約6%、磁選砂鉄の成分分析では全鉄分55.9%、チタン酸化物13.0%であった。渥美半島の太平洋岸は渥美郡層と呼ばれる洪積層の断崖が波の浸食によって形成されており、砂鉄は崖面に近いほど砂中の砂鉄含有率が高く、洪積層の崩れによる砂鉄堆積と結論づけた。しかし、その採取では、天候が荒れたあとは堆積状況を目視でき採取しやすいが、穏やかな日が続いたあとは採取場所を探すのに苦労することが多く、天候の状況によって採取効率が大きく左右される。これらのことから、小規模な製鉄の原料としての可能性はもっているが、高チタン砂鉄であることを考えると渥美半島砂鉄を使っての操業の可能性は少なかったと推察できる。
 このほか、鉄原料では、褐鉄鉱、赤鉄鉱がある。褐鉄鉱は、世界でもっとも多く存在する鉄鉱石といわれるが、鉄分は20〜55%で不純物として珪酸を含むものが多いとされる。このうち、水底に褐鉄鉱層が層状に堆積し、その後火山性降下物が堆積して陸地化する中でできたといわれる鬼板、また沼地などで含鉄水が酸化または水バクテリアの作用で蘆の周りなどに沈殿し成長した高師小僧が、製鉄原料として注目されている。褐鉄鉱の産地として日本では長野県諏訪鉄山が知られている。
 鬼板については、濃尾地方の丘陵地で横井時秀氏が発見し、製鉄実験している。また、信州伊那谷の羽場氏を中心とするグループが、地元産の褐鉄鉱を用いて20回余の製鉄実験を繰り返し(羽場睦美「伊那谷における製鉄実験」『信州の人と鉄』)、鉄品位40%の鬼板で十分に製鉄の可能性を実証している。
 高師小僧は、愛知県の高師ガ原にちなんでつけられたもので、愛知県の代表的鉱物の一つでもある。愛知県ではこのほか知多半島上野間の南方の丘陵地でも産出する。全国的には名寄高師小僧(北海道名寄市)、別所高師小僧(滋賀県日野町)などが知られている。ただし、高師小僧を用いた製鉄は実験操業でも未見である。
 赤鉄鉱は、鉄分40〜60%のものが使用され、磁鉄鉱に比べて還元しやすく、製鉄原料としては現在もっとも多用されている。日本では岩手県の和賀仙人鉱山、新潟県の赤沢鉱山などが知られていたが、すでに採掘されていない。東海では著名な赤鉄鉱産地はないが、近年、美濃赤坂の金生山の赤鉄鉱を原料とした鉄づくりおよび、その鉄を使った日本刀鍛錬が、関の刀匠大野兼正氏によって行われている。
 なお、製鉄には欠かせない溶剤としての石灰は、東海では金生山はじめ豊橋の嵩山地区など比較的豊富に産出している。金生山もそうであるが、かつての赤鉄鉱鉱山である新潟の赤沢鉱山も今では石灰を採掘し操業を続けている。
 このように実験的には製鉄の可能性を残しているものの、鉄原料の実態から見ると、東海地方は、いわゆる鉄産地の様相はなく、製鉄が行われたとしても自給的に小規模に行われた程度と考えられる。
 
(2)鉄に関わる神社と地名から
 製鉄地を地名や神社などから考察したものには、多くの論考が出されている。ここではこれらのち若干の文献等をもとに東海地方の1、2の事例をあげ、製鉄の可能性を探ってみたい。
 すでに井塚氏は、伊吹<ねう>地帯を和鉄生産を主にした古代技術革新の舞台としてとらえ、鉄の守護神社の総本山である岐阜県垂井町の南宮大社を中心に、金山神社や伊吹や金屋、丹生などの地名からこの地での製鉄の可能性を示唆している。
 南宮大社は、『全国神社名鑑 上巻』によれば、祭神は金山彦命。美濃の国一の宮で、延喜の制名神大社に列し、古来朝野の崇敬が極めて篤かった、創始は神武天皇が即位の元年に神霊を斎祠したときで、古くは仲山金山神社と称した、とある。祭神の金山彦命は、製鉄はじめ鋳物師、鍛冶などの神として祀られ、金山彦神社、金山神社、南宮神社、中山神社などの祭神となっている。
 東海には、金山彦命を祭神とする神社は、『全国神社名鑑』によると次に示すように21社に及んでいる。
  金山神社  名古屋市中村区長戸井町
金山神社  名古屋市熱田区金山町
金山神社  愛知県豊川市麻生田町
中条神社  愛知県豊川市中条町
金山神社  愛知県額田郡額田町井沢
金山彦神社 愛知県額田郡額田町細光
金山社   愛知県海部郡甚目寺町
八剱社   愛知県海部郡美和町
金山神社  岐阜市芥見
金山彦神社 岐阜県大垣市牧野町
金生山神社 岐阜県大垣市赤坂町
金山神社  岐阜県中津川市阿木
金山神社  岐阜県各務原市各務金山
南宮神社  岐阜県不破郡垂井町
南宮神社  岐阜県武儀郡武儀町
南宮神社  岐阜県恵那郡明智町
白山神社  岐阜県揖斐郡久瀬村
金山神社  三重県熊野市金山町
敢国神社  三重県上野市一之宮町
岩滝神社  三重県度会郡大宮町
二郷神社  三重県北員弁郡紀伊長島町
 このほか、たとえば鉄の祭神が色濃い南宮神社は、とくに岐阜県では上記の3社以外に10社が記載されている。この10社は祭神が不明だが、おそらく金山彦命が祭神となっていると思われる。また、このほかにも天目一箇神など鉄に関する祭神や、合祀されたことによって記載が省かれている神社もあると思われることから、鉄に関する祭神を祀るところはさらに多くの数になるであろう。
 これらの神社のうち、たとえば豊川の中条神社はもともとは鍛治町といわれたところにあったが、明治17(1884)年に合併によって中条町になり、神社名も大正3(1914)年に金山彦神社と熊野神社を合祀して現在の名になっている。ここは吉田鍛冶の前身の牛久保鍛冶の守護神だったところである。
 次に、鉄に関わる地名とあわせて製鉄の可能性を探ってみよう。
 豊川の牛久保の地に鍛冶、鋳物師がなぜ住みつくようになったかは明らかになっていない。中尾鋳物師については河内の国から来たことが伝えられているが、牛久保鍛冶の源流もまた河内の国である。中条神社に所蔵する『槙家系紀』(安貞元年(1227)記、正平5年(1350)再記、以下2度の書き写しが記されている)には、三河国中条庄に40歳の時「当地流着」と書かれている。1340年ころのことである。正平5年にこの地に金山明神の社殿を再建し、その後槙家の祖神である金山彦命を当社に安置したという。この槙家の分家に鍛冶屋になるものが多く、のちに鍛冶村と名付くことになる。ところで牛久保を地名を『牛窪密談記』(1500年頃)からみると、一色とこさぶ(常寒)の地を牛窪と改めたとある。
 この牛久保および周辺の地名などから古代鉄文化との関わりを論じた豊川市の医師大島信雄氏は、地元紙(東海日日新聞)に1997〜98年にかけ連載したが、この中からいくつか要約して拾い出してみる。「天王社(牛頭天王)、素戔鳴神社、進雄神社がこの地方には異常に密集している。素戔鳴尊は農耕神であるとともに産鉄神」、「窪はたたらや鍛冶の跡を示す語で、牛は古代朝鮮語では鉄の発音の「ソイ」ときわめて似ている」、「牛窪の古名とこさぶのサブは鉄の古語」、「千両銅鐸の出土した地は財賀寺に通じる才の神という峠、さいはサヒという鉄の古語、ざいがはサヒのあるところを意味する」、「近くを流れる佐奈川は銅鐸の出た千両谷を源流、サナは鉄の古語、サナキとすれば鉄鐸や銅鐸を意味する、佐奈川の下流近くの伊奈でも銅鐸が発掘されている」、また牛窪から2kmほど北に行った豊川市麻生田町上野の東名豊川インターチェンジ近くに金山神社があるが、この少し北に一宮町大ブロがある。「フロはたたら炉のこと」、「近くを流れる宝川はタタラ川の転訛か」、「一宮町大木(おおぎ)は扇の意味でタタラの送風に関係」、「一宮町炭焼平はタタラ用の炭焼きの地」、「砥鹿神社近くにある一宮町亥子角(いねずみ)は不寝見(ねずみ)に通じ、また鼠は金屋子神のお使いと看倣され、タタラ作業をあらわす象徴的なことば」、さらに、牛久保に隣接する小坂井町の菟足(うたり)神社の春の例大祭は別名風祭りとも生け贄祭りいわれ、笹踊りがあることについて、「風はふいごと深い関係、ふいご用の動物(鹿)を生け贄にした、金屋子神にも鹿の皮を丸剥ぎにして皮袋としとある、鹿は産鉄属にとって守り神、砥鹿神社もしかり」、「ササは小小鉄であり砂鉄、あるいは音を立てる金属製の鉱石のこと」、「笹踊りを伝えるほとんどの神社の祭神が素戔鳴神社、牛頭天王など製鉄に関わりが深いところにも注目すべき」。
 引用が長くなったが、興味をそそられる内容である。この論にしたがえば、豊川はかつては製鉄産地の可能性が高いことになる。このように見ていけば中世に河内の国から鋳物師、鍛冶がこの地に住みついたこともあながち不思議とはいえない。かつての鉄産地を伝え聞いていたからではなかろうか。鉄加工を業とする鋳物師、鍛冶が移住するからには何らかの鉄に関わる要因があったとみた方が自然である。
 このように、製鉄にかかわる神社、地名から見ると、各地に似たような状況がある。一例にとどめるが、名古屋の水野鋳物師の出身地、春日井市上野周辺も、鉄に関する地名、神社が多い。東名春日井インター近くには金ヶ口町、金ヶ口池、気噴町、金屋浦があり、南宮神社を摂社として祀る松原神社や、近くの高蔵寺地区や篠木地区に金山彦を祭神とする神社5社および天目一箇命を祀る神社を井塚氏は見つけている(井塚政義『和鉄の文化』)。さらにこの金屋浦の丘陵地で井塚氏は砂鉄、褐鉄鉱の鉱脈を見つけている。
 褐鉄鉱の古名については、真弓常忠氏が次のような考察をしている。「鬼板や高師小僧のような褐鉄鉱の団塊を太古のころはこれをスズと称していた。褐鉄鉱の団塊が植物の根に密生して、スズなりになっていたことからその名が付いた。スズはそのまま製鉄の原料になり、弥生時代の貴重な製鉄原料だった。鉄バクテリアによって生ずるスズは、通常10年を要するが、火山活動の状況によっては7〜8年で生成される」(真弓常忠『古代の鉄と神々』)。また、前島長盛氏は「天白神の存在するところは褐鉄鉱を産出した古代製鉄の稼業地」(前島長盛『鑠神(しゃくじ)−金属神』)と推考しているが、高師小僧を産出する豊橋の高師ガ原には天白町が存在する。こう考えると、比較的採取しやすい褐鉄鉱の団塊は、その産地においては継続して採取できる格好の鉄原料であった可能性もある。
 以上のように、鉄に関係する神社、地名から製鉄産地を探ることは、不確定な要素も多いが、その可能性を見いだす一つの方法とも思われる。また、関係するこれらの地域の発掘に際しては、このことを念頭に置いておくことも必要であろう。
 
(3)実験操業から
 製鉄の可能性を探る一つの方法に、実験的にその可否を求めることも必要となる。すでに各地で発掘例や文献等に基づき、また現代的な手法を用いての鉄づくりの実験などが、近年になり多くのところで実施されている。最近では、伊那谷で褐鉄鉱を用いての実験がされ、地域で産する褐鉄鉱での製鉄の可能性を実証している。
 実験的にその地域での製鉄の可能性を実証する場合は、次のことが必要と考える。原料、炉材、燃料は必ず地元産を用いることを前提にする。そのために先ず原料の探査をおこなう。この場合、さきに述べた地名などは参考になる。そして海岸、河川、丘陵地などに足を運び、実際に採取可能なところを見つけることである。炉材は、古代炉すなわち小規模な低温還元の炉であれば、造さい材としての役割はそれほど考えなくてよい。むしろ、海岸砂鉄に多く含まれる、チタン酸化物の多い砂鉄の還元性をよくするための、石灰などの溶剤に目を向けることが要される。近くで石灰あるいは貝殻などが容易に入手可能かどうかである。炉づくりでは、炉形の出土例がきわめて少ないため、これまでの実験例を参考にすることはやむえないであろう。問題は操業の方法である。古代製鉄であれば自然通風であった可能性が強く、丘陵地の上昇気流が得やすいところに築炉するのがふさわしいが、容易ではない。したがって、送風機やふいごなどの強制通風にならざるを得ない。この場合、注意を要するのは、強く吹くすぎないことである。
 私の鉄づくりは、関市の刀匠大野兼正氏の手ほどきによってはじめ、これまで20年ほど操業実験を繰り返してきた。目的は技術史教育の一環として鉄づくりを主としてきたが、一方で、三河の地における製鉄の可能性を探る目的も持ち続けてきた。そのため、一貫して原料砂鉄、燃料木炭、炉材のすべてを三河産のものを用いてきた。
 実験は、課題研究の授業として行った11回分でみると、平均操業時間は5時間45分、平均砂鉄装入量は19.1kg、平均木炭使用量は43.2kg、平均歩留まりは19.8%であった。炉の還元帯はほぼ1000mmで一定にし、炉の内幅は200〜350mmと若干差があったが平均250mm。羽口は当初は2〜3本にしたが後半からは1本羽口で通した。羽口角度は一度だけ60度としたがあとはすべて25度とした。砂鉄の装入では、海岸で採取した砂鉄を磁選し水洗し自然乾燥したものをそのまま炉頂から入れた。その際、ある年から石灰を同時に入れるようにしたが、石灰の装入をしてからは、けらの生成する割合、すなわち歩留まりが、それまでの11.2%から25.6%に大幅に向上した。石灰の有効性がはっきりと出たことになる。
 また、城下砂鉄のようにチタン酸化物の多い砂鉄の還元では、福田豊彦氏が、桂敬氏の「たたら製鉄炉内の化学反応と製鉄」という解説文から、砂鉄を原料とする製鉄の特徴を次のようにまとめている(福田豊彦「文献史料より見た古代の製鉄『古代日本の鉄と社会』」)。要約すれば、砂鉄精錬はチタンの濃縮技術であるとして、「鉄回収率は砂鉄中のチタンの量によって規定される」、「高チタンの砂鉄を原料にした場合は、比較的低い温度で高い還元状態を維持するほうが、鉄回収率がよい」、「融点を低下させるためのカリウムやカルシウムなどを多く含む添加物が追求され、これを秘薬として伝承」としている。すなわち、高チタンの砂鉄は低チタン砂鉄に比べて操業条件がきついことを述べている。そして、尾崎前山遺跡の鉄滓中のチタンと鉄の比率を例にして、その比率を平均16%として鉄回収率を試算をしているが、これを渥美半島の城下砂鉄(13%チタン)で試算してみると、Ti/Fe=13/16=81%となる。すなわち、砂鉄中の鉄分の81%が廃棄されることになる。逆に見れば鉄回収率は20%ほどである。この数値は、驚くことに先にあげた私の操業実験の平均鉄回収率19.8%とまったく同じになっている。これは石灰を入れたときとそうでないときがあるので単純に比較することはできないが、はっきりしていることは、城下砂鉄のように高チタン砂鉄での操業では、石灰を装入することが鉄回収率を上げるのに役立つということである。
 私の実験から、三河の砂鉄を用いた製鉄の可能性を一応は実証するものとなったが、古代炉を想定した自然通風では行ったことがない。送風のコントロールのきく電動送風機を用いた実験であり、仮にかつてこの地方で製鉄が行われたとしても、歩留まりについては割り引いて考えなくてはならない。また、歩留まりがもっとも悪かった5.7%のときは、羽口を4本にして1台の送風機で分配する形で炉内に送風したときの実験であるが、この時は送風装置の不備から炉内に十分送風できず、木炭の消費量も砂鉄と同量という燃焼がきわめて悪い状態であった。けらの塊はできず、スラグ内に巻き込むような形で炭素量の少ない鉄片が多くでき、小粒のけらが多かった記憶がある。また、歩留まりの悪いときには、未還元の焙焼された砂鉄や半還元状の海綿鉄が多く回収されている。私は実験してないが、これらを用いて再度操業すれば、おそらく生砂鉄を装入したときよりは歩留まりがよくなるであろうことが予想される。
 また、地元の褐鉄鉱、高師小僧を原料にした製鉄の可能性が考えられることから、その実験が要されるが、原料入手に困難があり容易でない。今後の課題である。
 
(4)鉄原料および製品の流通から
 当地域での製鉄の可能性を探るとき、鉄の流通を検討することも重要である。中世以降には鋳物師、鍛冶が地域で鉄産地を形成し、とくに鋳物師が生産した鍋釜は、遠く大阪、関西方面に売りさばかれた。その実態は、たとえば、中尾鋳物師においては、江戸時代の後期になると350石と400石の船を購入して海上輸送している。中尾鋳物師の鋳造場から南東にすこし行ったところは豊川の河岸段丘があり、かつてはそのすぐ下を豊川が流れていたこともある、現在はそこからまっすぐ1kmほど行くと東三河の大河川豊川が流れている。かつて信州への水上輸送の主要ルートであった豊川は、昭和になるまで帆掛け船が行き交っていた。また、中尾鋳物師から西に数100mほどのところには佐奈川が流れ三河湾まで続いている。中尾鋳物師は、海上輸送を比較的とりやすいところに鋳物場をかかえていた。
 網野善彦氏は「中世の鉄器生産と流通」(『講座・日本技術の社会史第5巻採鉱と冶金』)のなかで、「鋳物師が、平安末期までに鉄器の流通、普及に大きな役割を果たした。南北朝、室町期のころになると、鋳物師は、廻船等によって鉄原料の交易を行う一方、守護の保証のもとに製品の交易に従事した。その範囲は瀬戸内海はもとより、山陰、北陸、九州に及んだ。14、5世紀には瀬戸内海、九州、北陸の広い水域に活動する廻船鉄商人が現れ、出雲、備中、播磨の鉄を流通させた。この廻船鉄商人の起点が堺(廻船鋳物師)で、堺は鋳物師や鍛冶の集住地となった」と論じる。
 すでに中世のころから鉄原料は、流通商品になっており、たとえば交通の要衝であった東海地方は鉄原料の入手は比較的容易かったであろう。
 このことを示す一例として、名古屋では寛文9(1669)年に岡谷総助宗治が鉄砲町で打刃物の店笹屋を開き、農具、工匠具、家庭用品、刀剣類など金物なら何でもあると有名になった。当時は貨物集散の中心地大阪と大消費地江戸を結んで菱垣廻船がピストン運行したが、宝暦年間(1751〜64)には熱田へも寄港するようになった(奥村正二『小判・生糸・和鉄』)、とある。このように、江戸時代中期には名古屋も廻船による大流通網に仲間入りし、中国地方産の鉄原料の大量供給を受けたのであろう。そんななか独自の船をもった中尾鋳物師は、鋳物業の興隆もあったであろうが、三河湾の豊川河口という廻船ルートから外れていたことによる、やむ得ない選択だったかも知れない。
 また、鍛冶の世界では、独特な鉄の流通が明らかにされている。農鍛冶のおもな仕事は鍬、鎌などの生産および鍬の修理であったが、このうち、鎌は消耗品であった。使えなくなった鎌が鍛冶屋に回収されたのは全国共通のことで、新鎌購入の下取り品となり、新鎌製作の材料となった。鍛冶技術は製鉄された新鉄を直接用いるものとしてでなく、廃鉄器の再利用で成り立って発達した(佐藤次郎「野鍛冶」『講座・日本技術の社会史 第5巻採鉱と冶金』)。すなわち鍛冶屋は材料流通の役割も持っていたのである。そのため、もともと鋳物師ほどの鉄原料を必要としない鍛冶は、古鎌の回収などもあり、新鉄を用いることは少なかった。鍛冶屋での新鉄の使用が増えるのは、江戸時代の後期になってからといわれる。
 鉄原料を大阪から購入していたことを示す一例に、大野鍛冶では、伯耆国日野郡根雨宿の鉄山経営者近藤平右衛門家の大阪支店である備前屋喜兵衛の「天保十年売懸帳」(1839年)には、内海、大野、津島の鉄材料商4軒に対し、計507束(約600貫)の鉄材を送ったという記録がある。また、吉田鍛冶でも少し前の天保5(1834)年に、舟町の半左衛門が鉄問屋を新規開業し万割鍬下地打立を願い出て許可されたことに対し、鍛治町の鍛冶方が異議を申し立てている。この異議申立書には「大坂・・直買ニ仕」とある。鍛冶方が大阪より新鉄を直買していたことが記されている。
 江戸時代の鉄原料は、鋳物師、鍛冶ともに中国地方から大阪堺を経由して入手していることが明らかであり、また中世以前の鉄器の流通は、はじめのところで触れたように鋳物師の諸国往来に求めることができる。しかし、さらにそれ以前となると、流通は限られた地域になり、製鉄遺跡の発掘事例からも見られるように、多くは地域での自給的製鉄の可能性が高くなる。東海地方でそのことを示す発掘例がほとんどないのは、鉄原料に恵まれなかったこともあるが、隣接する畿内からの流通が、幾分かはあったことなしに十分に説明がつかない。あるいは、鋳物師が往来する初期のころから遍歴しやすい地だったということからであろうか。
 
4 おわりに
 江戸時代の中頃の科学的な思想家である三浦梅園(1723〜89年)は、著書『価原』のなかで「金・銀・同・鉛・鉄、合セテイヘバ皆金ナリ、五金ノ内ニテハ、鉄ヲ至宝トス・・・如何トナレバ、鉄ハ其ノ価廉ニシテ、其ノ用広シ、民生一日モ無クンバ有ルベカラズ」という。鉄は日常生活に一日も欠かせないからもっとも大切な金属、と言い切っている。当時は、鍬、鎌をはじめとする農具や、鍋、釜、包丁の生活用具に鉄が広く普及し、鉄がもっとも生活に役立つ金属であったことを物語っている。
 その鉄器供給で、大きな役割を果たしたのが、東海地方ではここで述べた中尾鋳物師、水野鋳物師、吉田鍛冶、大野鍛冶などであった。これらの生産で必要となる鉄原料については、江戸時代には大阪を経由して中国地方の鉄が流通していたが、中世以前はそのルートは不明である。東海地方は製鉄遺跡の発掘がきわめて少なく、全国的にもその空白地帯になっている。
 このことから、当地域での製鉄の可能性を探る試みとして、原料面、鉄に関わる神社と地名、操業実験、鉄の流通の4つの面から考察した。原料面からは、当地域の砂鉄の堆積は少なく、しかも品質的にはチタン酸化物が多く、製鉄にはあまり向かない砂鉄であることを述べ、また豊橋の高師ガ原から発見された褐鉄鉱の一種である高師小僧が、製鉄原料の可能性をもっていることをのべた。鉄に関わる神社と地名からは、豊川の例をあげ、これまで鋳物師と鍛冶はあっても製鉄の可能性はまったく考えられなかった地において、神社と地名からはその可能性があることをのべた。地名考など定説になっていない内容も多く十分な検討の上での考察が望ましいが、この観点から製鉄地を推定することも可能であることを述べた。操業実験からは、私の過去11回の操業実験において、当地方の砂鉄原料を用いた操業が可能なことを述べた。ただこの地方の砂鉄は操業が容易でなく、古代製鉄においては鉄回収率が悪くなるであろうことをのべた。鉄原料の流通の面からは、中世以前は不明であるが、江戸時代には頻繁に大阪から中国地方産の鉄原料の供給があったことを述べた。
 以上より、東海地方の製鉄の可能性については、少なくとも鉄原料の流通が盛んになる中世以降はその可能性はほとんどないと考えられる。若干、濃尾地方で鉄仏が鋳造され、そのさいに製鉄された可能性はまったく否定できないが、仮に農民あるいは鋳物師によって製鉄が行われたにしても、継続性をもつものではなかったであろう。中世以前の製鉄の可能性についても、畿内に比較的近く、鉄器の流通も困難な地域ではないことから、おそらく頻繁には行われなかったであろう。鉄原料が少ないこと、砂鉄の質があまりよくないことが要因と考えられる。
 今日、東海地方が製鉄遺跡の空白地といわれて久しいが、これまで述べた点から、操業実数が少なかったことが製鉄遺跡の発見を遅らせていると思われる。
 
 鉄の美しさ、それは見るものを圧倒する力を持っている。鉄が歴史上果たした役割、また鉄が私たちの生活に与えた影響など、鉄の技術史をはじめ鉄を教材にした授業は、今こそ必要になっていると思われる。ものづくりの中部は、かつてのハイテク産業であった鋳物や鍛冶など、鉄をはじめさまざまな産業を興したこの地の先人たちの汗と涙の結晶として培われたものである。それを実証する産業遺産はまさに歴史の生き証人である。鋳物師のまた鍛冶の道具や製品、あるいは明治の新しい技術によってつくられた機械や装置なども現代への貴重な贈り物である。「鉄は至宝」はいつまでも生き続ける言葉であろう。
 

 
主な参考文献
1)井塚政義『和鉄の文化』八重岳書房、昭和58年
2)『東海鋳物史縞』総合鋳物センター、昭和42年
3)東海民具学会『東海の野鍛冶』平成6年
4)朝岡康二『鍛冶の民俗技術』慶友社、昭和59年
5)網野善彦「中世の鉄器生産と流通」『講座・日本技術の社会史 第5巻 採鉱と冶金』日本評論社、1983年
6)笹本正治「近世鋳物師と鍛冶」前掲『講座・日本技術の社会史 第5巻 採鉱と冶金』
7)佐藤次郎「野鍛冶」前掲『講座・日本技術の社会史 第5巻 採鉱と冶金』
8)福田豊彦「文献史料より見た古代の製鉄」『古代日本の鉄と社会』平凡社、1982年
9)羽場睦美「伊那谷における製鉄実験」『信州の人と鉄』信濃毎日新聞、1996年
10)長谷川熊彦『砂鉄−本邦砂鉄鉱及其利用−』工業図書、昭和11年
11)大島信雄「高師小僧−東三河の古代金属文化を探る−」東海日日新聞連載、1997.9〜1998.12
12)『全国神社名鑑 上巻』同刊行会史学センター、昭和52年
13)真弓常忠『古代の鉄と神々』学生社、昭和60年 

本稿は、鉄鋼協会第140回秋期講演会 社会鉄鋼工学部会シンポジウム (2000年10月1日 於:名古屋大学)
「中部地方における鉄文化の展開」 において報告 (禁無断転載)


Update:2003/10/4  0000

中部産業遺産研究会会員
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