豊川流域・水車製材の遺産

 天野 武弘


 奥三河豊川流域にはかつて、水車を動力とする製材所が数多くありました。私たちの近年の調査によって、三一カ所の水車製材所がこの地域にあったことがわかっています。
 東三河の山間部における製材所は、一九一七(大正六)年の県下民設製材所調査によれば、二四工場が報告され、豊川流域には八工場(天竜川流域に一四工場、矢作川流域に二工場)が記載されています。このうち、もっとも古い製材所が一九〇〇(明治三三)年の創業です。
 豊川流域の製材業は、北設楽郡の木材輸送をはかるために敷設された田口線(昭和一二年全線開通)や、田峰森林鉄道(昭和六年)、田口森林鉄道(昭和九年)が開通した昭和の初期にもっとも発展することになります。
しかし、一九三四(昭和九)年に北設楽郡だけで五九工場と発展していた製材所も、一九四一(昭和一六)年に施工された木材統制法によって縮小され、規模の小さな製材所は統廃合による閉鎖という運命をたどることになります。当時の製材所の動力源には、水車、蒸気機関、電動機などが使用されていましたが、水車を動力とする製材所は、山間にたてられた規模の小さな工場が多かったため、必然的に統廃合の対象になっていきました。
筆者らが調査した水車製材所で、戦後まで操業したところは、判明した三一工場のうちわずか四工場のみで、木材統制を境に、多くの水車製材所が廃業となっていった様子を知ることができます。
豊川流域最後の水車製材所となった北川製材所(鳳来町川合)が、操業を停止したのは一九六三(昭和三八)年のことでした。ここは間もなく河川改修と道路拡張により水車、水路とも撤去されてしまいました。
 このように河川を利用する水車製材所が廃業後いつまでも残るということは少なく、調査したいくつかの水車製材所跡でも同じような状況がみられました。
 こうした中で、調査を進めるにしたがい、水車製材所跡地の中には、廃業後三〇年から五〇年余を経過したにもかかわらず、施設設備の一部を意外によく残している所があることがわかってきました。
一九六一(昭和三六)年に操業を停止した横川製材所遺跡(南設楽郡鳳来町名号)に、特徴的にその様子を見ることができます。ここは大島川が豊川に合流する地点に位置しています。
 工場跡から深い谷となった大島川を見おろすと、そこには製材所に隣接して、川敷きに構築された大きなコンクリート水槽をみることができます。この水槽底に製材所の動力源であったタービン水車が据わっています。豊川流域の製材用の原動機として残るタービン水車二基のうちの一つです。
 横川製材所の残された文書によれば、実馬力一三馬力の露出型タービン水車という、発電用にも使われた形式のものです。水槽まで続く長さ一五〇メートルほどの水路や、堰堤、取水口、水車などを整備すれば、再び水車の運転も可能と思われる雰囲気を持っています。
 これにあわせ、工場建物の中には、水車動力を製材機械に伝達するための大きなベルト車の付いた鉄製の中間軸や、一部の製材機械や道具なども残しており、豊川流域では水車製材所の形態をもっともよく残す遺跡となっています。
また、奥三河の観光地、湯谷温泉にも水車製材所の遺跡が残されています。戦後間もなくの一九四五(昭和二〇)年に操業停止した東川製材所の遺跡です。
 ここは、かつての水路が「ささやきの小径」として生まれかわり、観光散歩道に利用されています。水路の先には、豊川を横断する堰堤と、今はせき止められた取水口が当時の形態を残しています。この堰堤をのりこえる流水のつくり出す景観は、長い滝のようになって湯谷温泉の一つの観光ポイントにもなっています。
 また、少し下流の天然記念物「馬の背岩」近くの製材所跡地には、直径五・五メートルほどの鉄製の在来型水車が、五〇年を経過したいまも、石垣で構築された水車場遺構の中に、ひっそりと残されています。
豊川流域の水車製材遺跡は、いま手を入れなければ永久にその機会を失うことにもなりかねません。水車製材所の様子をもっともよく残す横川製材所遺跡を含め、その保存に早急な手だてが望まれるところです。

(中部産業遺産研究会会員)


(注)

在来型水車

わが国で古くから使われている横軸の大輪をもつ水車。水の重量によって回転され動力が得られるもので、水の掛かり方によって、上掛け水車、胸掛け水車、下掛け水車の三つのタイプがある。わが国で水車というと一般にはこの水車を指すことが多い。

タービン水車:

1832年にフルネイロン(仏)により完成された近代水車で、水の速度エネルギーおよび圧力エネルギーを利用して回転力を得る水車。わが国には明治時代初期に輸入され、発電や船舶など大動力用として多くが使用される。代表的なものに、フランシス水車、ペルトン水車がある。


本稿は、愛知県産業情報センター発行『あいち産業情報』「産業遺産を歩く 17」1995年9月号(No.122)に掲載



Update:2008/10/24  0000 (禁無断掲載)

(中部産業遺産研究会会員)
1999/1
This site is maintained by Takehiro Amano.