産業遺産からみた豊川・宝飯の製造業の歴史

天野武弘


 
1 産業遺産(Industrial Heritage)とは
・過去(現在)の産業活動で重要な役割を果たした(果たしている)機械、道具、装置、建築物、構造物、図面、写真などのうち今日に残された有形資料の総体
・人類が積み重ねてきた技術の体現(すべての産業が対象)
・その時代の到達点を示す「モノ資料」
・技術発展の画期となった価値あるもの
・産業の発達過程を示す歴史の生き証人
・価値あるものは後世に伝え残す
 
▼産業遺産の調査研究の始まり
・産業遺産を研究する学問を産業考古学(Industrial Archaeology)という
   産業考古学とは
    広義の歴史学の一部門、基本的に考古学の一分野をなすもの
    経済史や歴史学などの学問では主に文献資料を元にしての研究
    産業考古学はモノ(産業遺産)に即して研究することを基本にする学問
・発祥は、1950年代のイギリス(1973年にイギリス産業考古学会発足)
・産業革命当時の工場建物、機械などの破壊と消滅が発端
・日本には高度成長期の1969年に紹介される。産業遺産の急速な消滅の時期
・1977年に日本の産業考古学会発足
・この地域では、1984年に愛知の産業遺跡・遺物調査保存研究会(現・中部産業遺産研究会)が発足
 
▼産業遺産は存在形態から次の三つに分類
  産業遺跡…土地と切り離せない形で遺存、複数の遺構、遺物を含む
    (例)工場跡、鉱山跡、鉄道跡、港湾跡、運河跡、発電所跡
  産業遺構…遺跡のなかで限定された機能を持つ不動性の建物や構造物、装置
    (例)工場建物、竪坑、高炉、トンネル、駅舎、橋梁、水門、堰堤
  産業遺物…原位置から切り離して移動できるもの
    (例)機械、工具、計測器、自動車、鉄道車両、各種製品、図面、写真、文書
2 豊川・宝飯の産業発展の歴史概観
 
(1)在来産業の継承・発展
▼鋳造と鍛冶(三州釜、牛久保鍛冶)
・ナカオ(旧中尾工業):天文7年(1538)創業。元禄12年(1699)工場増設、鋳鉄製鍋釜の製造本格生産。寛延3年(1750)勅許鋳物師。文化・文政の頃(1804〜1830)醸造用の大釜、鍋釜の量産、大阪に大量輸送(三州釜の起こり)。昭和10年樺尾十郎工場設立。昭和18年中尾工業鰍ノ変更。平成11年に鋳造業の幕をおろす。
 
【参考】豊川の中尾鋳物師
 中尾鋳物師がこの地にいつ来たのは定かではないが、中尾家の伝えによると南朝敗北後に河内国から来往したといわれる。中尾性のもっとも古い鋳造品は、応安3(1370)年銘の梵鐘がとなりまちの宝飯郡小坂井町の菟足(うたり)神社にある。中尾鋳物師は14世紀半ば頃にはこの地に来ていたと思われる。
 天文7(1538)年には「三州山東鐘鋳」の許状が特権が、城主牧野出羽守保成から三河牛久保の中尾助九郎に安堵されている。中尾家は領主との関係を持つことによって東三河地方での鐘鋳の特権を得て仕事を続けた。とくに戦国時代は、武器や日常生活に使う鋳物をつくる職人を確保することは領主にとっては戦略であり、領主は鋳物師を保護することでこれを確保した。一方鋳物師も大名からの許状は独占的に鋳物業ができる特権をもつことになり、領内で許可なく鋳造するものや他国からの鋳物師の侵入を排除する点からも重要であった。
 また、江戸時代に勅許鋳物師としての許状を発給することによって、全国の鋳物師支配をはかった真継家とのつながりは、中尾家は天正17(1589)年が最初のようである。以後、一時の途絶えはあったが、中尾鋳物師と真継家とのつながりは深く、許状の発給は明治2(1869)年まで続き、鋳物師としての権威付けをこれによって得ていた。真継家との早い段階からのつながりなどからか、平坂の太田家、岡崎の安藤家と木村家、大浜の国松家など三河のおもだった鋳物師を統率する役割を中尾家が果たしていた。
 中尾家は元禄9(1669)年に新工場を増築し鋳鉄製の鍋、釜の製造を始めた。ここで製造した三州釜は西日本一帯でたいへん有名になる。とくに文化年中(1804〜18)から鍋、釜の鋳造は盛んになり、文政3(1820)年7月には岩見国高津の土屋藤右衛門から350石積みの船を大阪で買い、大量販売の道を開いている。さらに弘化3(1846)年に、中尾家は大阪の播磨屋平五郎から400石積みの船を購入し、販売強化を図っている。この船での大量輸送が西日本一帯で三州釜の名声を上げる大きな要因となったようである。当時の中尾家鋳物業の繁盛のようすは、『三河名所図絵』(嘉永3〜7年、1850〜54)にその一端が記されている。「今世、中尾十(重)右衛門、中尾与三(惣)次の両家繁栄して数千人の職人を使ひて産業とす、其鋳器は多く大坂に運送す、其が荷物の夥しきこと、大概諸国に冠たるもの」と伝えている。
【参考】牛久保鍛冶
 豊川の牛久保の地に鍛冶、鋳物師がなぜ住みつくようになったかは明らかになっていない。中尾鋳物師については河内の国から来たことが伝えられているが、牛久保鍛冶の源流もまた河内の国である。中条神社に所蔵する『槙家系紀』(安貞元年(1227)記、正平5年(1350)再記、以下2度の書き写しが記されている)には、三河国中条庄に40歳の時「当地流着」と書かれている。1340年ころのことである。正平5年にこの地に金山明神の社殿を再建し、その後槙家の祖神である金山彦命を当社に安置したという。この槙家の分家に鍛冶屋になるものが多く、のちに鍛冶村と名付くことになる。ところで牛久保を地名を『牛窪密談記』(1500年頃)からみると、一色とこさぶ(常寒)の地を牛窪と改めたとある。
 (以上、天野武弘「東海の鉄文化を探る」 鉄鋼協会第140回秋期講演会 社会鉄鋼工学部会シンポジウム(2000.10.1)より抜粋)
 
▼醸造・食品(味噌、溜、醤油、清酒、製油)
・イチビキ:安永元年(1772)創業。大正3年大津屋叶ン立。昭和36年現社名に変更。
・白井醸造:天保12年(1841)創業。昭和26年株式会社に改組。
・サンビシ:明治29年(1896)宝飯郡豊秋村(現小坂井町)に三河醤油合資会社を創業。昭和36年に現社名に変更
・竹本工場(現竹本油脂):享保10年(1725)初代竹本長三郎が為当で創業。菜種や綿実から灯明油、油粕肥料をつくる。
 
▼製瓦(三州瓦)
【参考】豊川のだるま窯−犬塚製瓦所を中心に−
 豊川における瓦生産は、国分寺、国分尼寺の建立にその発祥を求めることが推測されるが、確証は見つかっていない。記録として残る最初の瓦生産は、管見では、碧海郡大浜郷鶴ヶ崎(現碧南市浅間町、山神町、新川町)から豊川の牛久保に移住した板倉文右衛門が、1799(寛政11)年に野口に転じて瓦業を行うという碑文(光輝院境内の石碑)に見ることができる。板倉文右衛門が最初に牛久保に移住した年は不明であるが、寛政年間初期かそれ以前であることは碑文から読みとれる。板倉文右衛門はその後三代続いて瓦業を営み、江戸末期から明治中期頃まで豊橋石巻の石灰焼成も行っている。
 野口町を中心にして瓦産地が形成されるのは明治に入ってからであろう。表に示すように10箇所ほどの瓦業者が明治時代に創業している。野口には5軒の瓦屋があって野口瓦と名が付くほど栄えていた。当時はすべてだるま窯による瓦焼成であった。1988(昭和63)年現在残っていただるま窯は、野口町と接する八幡町の犬塚製瓦所にある1窯だけであった。だるま窯による操業はすでに1985(昭和60)年で終わっていた。その後一度も火入れされることなく平成になって取り壊された。
表1 豊川の製瓦所
  製瓦所名  所在地 創業 廃業 備考



45




10
11
12
13
板倉文右衛門*1
加藤製瓦所
曽田栄次郎
山口清次郎
小松浅吉
犬塚製瓦所
生田福太郎
岩田糸蔵
板倉文右衛門*2
磯部金作
渡辺瓦店
榎本瓦店
杉浦
豊川市野口町
  〃
  〃
  〃
  〃
豊川市八幡町
  〃
  〃
豊川市牛久保町
豊川市国府町
豊川市本野ヶ原町
豊川市代田町
豊川市為当町
1799(寛政11)年
明治
明治
明治
明治
明治
明治
昭和初期
寛政年間初期?
明治
明治
戦後
不明
昭和10年代
現役
昭和戦前
昭和10年代
大正の頃
昭和60年
大正の頃
昭和10年代
明治20年頃
昭和初期?
S63時点現役
  〃
  〃

ガス窯

原源松より譲渡

M45竹本吉五郎より譲渡


息子の代まで
ガス窯
ガス窯
ガス窯

 
*1:初代板倉文右衛門は、碧海郡大浜郷鶴ヶ崎(現碧南市)から牛久保に移住し瓦業を始める。寛政11年に野口に転じて瓦業を行う。三代目の板倉文平のとき廃業。
*2:初代板倉文右衛門が牛久保の光輝院境内で創業(寛政年間初期かそれ以前))。二代目板倉文右衛門が安政6年に牛久保で瓦業を行う。
                 (天野武弘「豊川のだるま窯」2002.7.7 中部産業遺産研究会57回研究会報告より抜粋)
 
▼豊川だるま
・内藤(当古):文化8年(1811)の頃に内藤助十が創始といわれる。農閑期の副業、三河張り子の面つくりとともに、正月用の縁起ものとしてだるまが作られ今日に続く。最近は郷土玩具として土産物のひとつとなる。
(2)産業近代化とともに興った産業
▼繊維産業(製糸、玉糸)
・製糸業、玉糸業:宝飯郡最初の製糸場は明治14年の巴水舎(大木村)。豊川では明治18年に陶山製糸場(牛久保)が最初。翌明治19年に平松製糸場(国府)が設立。明治42年12月末現在、5人以上の職工を使用する52ヶ所の製糸場が『工場通覧』に記録。昭和30年代に52ヶ所中39ヶ所と多くが創業している。
表2 豊川・宝飯の明治期の製糸工場数
                      (『農商務省編纂 工場通覧』明治44年7月発行より作成)
  M19以前 M20〜29 M30〜39 M40〜42   計
 豊川      1    3      4
 牛久保    1      3    1    5
 国府    1    1    8    4   14
 八幡        7      7
 御油            0
 御津       14    2   16
 小坂井      1    1      2
 赤坂        1    1    2
 三上        2      2
  計    2    3   39    8   52
         注)明治42年12月末現在、従業員5人以上を集計、玉糸業を含む
 
▼家具(桐たんす)
・小島屋、ヤマ十:いずれも明治43年1月創業。中条たんす街の草分け。両たんす店で修行した職人が独立し(徒弟制)中条にたんす街を形成。戦前までに中条町で11軒のたんす屋が操業。
 旧伊奈街道南より、清水たんす製作所(経緯不明)、小林たんす店(Y)、伊東たんす店(元唐箕製作)、大谷屋箪笥店(元建具屋)、中野たんす店(K)、辻屋たんす製作所(昭和2年創業、K)、ヤマ加たんす店(Y)、小島屋家具店(K)、ヤマ三たんす店(Y)、ヤマ十タンス製作所(Y)、森田たんす店(昭和10年創業、Y)。(Kは小島屋、Yはヤマ十の系列を示す。元ヤマ三たんす店の小林三昭氏より)
 戦中、戦後は一時縮小するが、復員などによって名古屋、豊橋からも職人が集まり昭和20年代は50軒ほどが製造。この頃は牛久保駅から貨車で近江八幡へ出荷。名古屋へ木炭トラックで毎日出荷。
 昭和30年代はじめに洋家具製作始まる。とくに昭和34年の伊勢湾台風以後、シミが付きやすい桐タンスから急速に洋家具製造に変わる。中条における桐タンスの製造は昭和37、8年頃の辻屋たんす製作所が最後のようである。
 桐タンスの地域によって大きさ(幅)に特徴がある。元ヤマ三たんす店の小林三昭氏は現在は桐タンスの修復を仕事としているが、これまでの体験から幅に顕著な違いがあるという。山形は3尺、茨城は3尺3寸、東京〜浜松は3尺、名古屋は3尺7寸〜8寸、広島は4尺、九州は4尺5寸〜6寸。西に行くほど幅が大きくなっている。
 中条町のたんす生産の最盛期は洋たんすが入ってきた昭和30年代半ば頃。たんす組合に入ってない人を含め70軒近くあったようである。その後は生活の変化や輸入家具などによって縮小し、現在中条町の街道沿いには、7軒が営業するのみ。いずれも製造はしてなく販売だけである。
▼機械工業(製簇器、脱穀機)
・共栄社:明治43年7月創業、養蚕具の二角式製製簇器を製造。大正7年現社名の改組。大正11年ダイヤモンド式人力脱穀機開発。昭和5年マサル式製縄機開発。昭和30年ホーネンス耕耘機開発。昭和34年草刈機の開発。
・オーエスジー:昭和13年東京武蔵野に大沢螺子研削所を創設。昭和18年現一宮町に愛知工場竣工。昭和38年現社名に変更。
 
(3)海軍工廠と戦後の大企業進出
 戦後直後は、ガラ紡をはじめ繊維工業やさつまいもを原料とした飴生産が行われるが長く続かなかった。20年代後半からはとくに土産品製造の菓子工業が活況を呈す。これを含む食料品工業は工場数167(37.4%、昭和26年)と市内でもっとも多く、30年代に機械工業が進出してくるまでの主要な産業であった。ただこの当時の工場規模は圧倒的に零細企業で占めていた。たとえば昭和30年の食料品工業を見ると、173工場のうち132工場(76.3%)が3人以下の家内工業であった。
 昭和30年代以降は、豊川市が昭和30年8月20日公布した工場設置奨励条例による工場誘致によって、機械工業の進出などによって、これ以後は機械・金属工業が主体となる。
一例として、
 昭和21年:千代田光学(現ミノルタ)創設。工廠技術部員が払い下げ光学機械を使用し生産開始。
 昭和26年:富士紡績が小坂井に進出。
 昭和28年:愛豊鉄工(現AiHO)創業。
・工場設置奨励条例以後(昭和30年8月20日公布、固定資産税を3年間ゼロ、昭和44年廃止)
 昭和32年:豊川製網(工場設置条例第1号)
 昭和32年:イソライト工業(海軍工廠跡地進出第1号。昭和2年大阪で創立)
 昭和34年:熊谷組(現熊谷テクノス、明治31年創業)
       新東工業(昭和9年久保田製作所設立、昭和35年現社名に変更)
 昭和35年:車輪工業(現トピー工業、大正10年創業)
 昭和36年:旭可鍛鉄(現旭テック、大正5年創業)
 昭和39年:日本車輌製造(明治29年設立)
 昭和45年度までに14工場が進出(いずれも従業員200名を超える企業)。
 
3.豊川・宝飯に残る産業遺産
 
▼ナカオ(金屋町)
 平成11年に鋳造業停止後の工場解体。
 面影を残す土蔵および一部の鋳型と江戸時代をはじめとする関連文書が保存。
▼イチビキ(御油町)
 昭和初期頃の工場建家と仕込み桶の「丈三桶」が残る(現役)。
  (直径1丈3尺、高さ1丈3尺の杉材の桶、現存する物では大正5年頃のものがもっとも古い、   大正12年〜15年頃に工場内で製作した丈三桶製作過程のフィルムあり)
 大正2年に設置した蒸気機関(一部解体)と動力伝達装置(一部)が残る。
  同時に入れたボイラー(横置多管式煙管ボイラー)は廃棄されたが、設置時のフィルムが残る。
▼白井醸造(国府町)
 国府の守公神社の舞台の材を使った現役の工場(古いと言われるが年代は不詳)。
 昭和28年頃に芋焼酎生産用に建てた蒸留棟と設備が残る。
 蒸留棟と同時に設置した横置多管式煙管ボイラー2基のうち1基が残る。
 木製の6尺桶が蒸留棟に残る。
 桶内のもろみの量を測る尺棒が残る。
 車載式泡消化器(、車輪付き、100リットルほど)が残る。
▼三州瓦(八幡町)
 旧犬塚製瓦所の工場に瓦成型の機械、型、道具が残ると思われる。
▼製糸(御津町)
 御津の旧田中製糸の煉瓦煙突など。今後に調査。
▼たんす(中条町)
 桐たんす時代は機械はほとんど使用しない。罫引、鋸、鉋などの道具が残る。
 洋たんす時代には機械を使用。機械はほとんど残っていない。
▼共栄社(美幸町)
 昭和5年のマサル式人力脱穀機(昭和2年〜18年製造)
 昭和8年頃の二角式製簇器(明治43年〜昭和17製造)
 昭和21年頃の農林規格人力脱穀機(昭和17年〜22年製造)
 昭和25年頃製造のダイヤモンド動力脱穀機(昭和7年〜35年製造)
 このほか昭和30年以降の脱穀機、各種ホーネンス耕耘機などが食堂の一角に展示。
▼新東工業(穂ノ原)
 鋳造用機械のモールディングマシン(造型機)の国産第一号機が昭和2年に新東工業で作られた。
 一号機を簡易化して形状をスマートにした昭和9年完成のW-2型が工場のショールームに展示。
(新東工業の特許第一号、明治6年に取得)
 新東工業の文書史料等が同社のマルエスクラブの5部屋(オール新東資料室)に保存。
▼日本車輌製造(穂ノ原)
 豊川工場のメモリアル車輌広場に展示
  日本車輌製国鉄向第1号機関車(大正11年製作、昭和45年引退)
  日本最初の懸垂式モノレール(昭和30年製造、昭和46年保存、上野公園で使用)
  名古屋鉄道モ800型電車(昭和10年製造、平成8年引退)
  ND701形ボルスタレス台車(昭和55年製造)
  国鉄0系新幹線電車(昭和61年製造、平成11年引退)
▼松尾鍛冶(牛久保町)
 明治33年生まれの松尾麻吉が創業。親子3代が継承の農鍛冶。
 鍬、備中の製作見本200点以上を保存。
▼日本駆虫品製造(中央通)
 明治29年小坂井篠束で創業。当初はのみとり粉を製造。
 昭和初期には現在地に移っている(昭和11年12月末『愛知県工場総覧』での所在地は古宿)。
  昭和初期?の線香生産工場の建物が残る。現役の線香製造機械、道具など。
▼御津町資料館
 御津駅の鋳鉄柱:明治22年に東海道線が全線開通時、御津駅の跨線橋に使われた支柱
 漁船:漁船の保存例は少ない
 
4.産業遺産の評価と活用
   産業遺産は多種多様、無秩序で発見
   価値判断するために整理、分類が必要
(1)現存する産業遺産の評価の一例
@日本の産業技術史上価値あるもの
 ・中尾工業の江戸時代から続く鋳造遺産(工場蔵、木型、文書など)
 ・日本車輌製の国産初のモノレール、新幹線0系車両
 ・新東工業の初期の鋳造機械
 ・松尾鍛冶の鍬、備中製品見本
 ・御津駅の鋳鉄柱(御津町資料館)
A愛知県内で古くて価値あるもの
 ・イチビキの醸造用施設設備
 ・白井醸造の醸造用施設設備
 ・共栄社の蚕糸、農業、草刈り用機械
 ・小坂井町資料館の漁船
 ・日本駆虫品製造の線香製造工場
 ・犬塚製瓦所ほかの瓦生産用具
 ・牟呂用水の人造石
B愛知県(地域)特有の産業に関する価値あるもの
 ・桐たんす道具
C当該企業(地域)にとって古くて価値あるもの
 ・共栄社の蚕糸、農業、草刈り用機械
 ・日本車輌の国鉄納入1号蒸気機関車、国産初のモノレール、名鉄車両、新幹線0系車両
 ・新東工業の初期の鋳造機械
 
(2)産業遺産を活用した各地の事例
◇工場を産業遺産として活用
  産業技術記念館、ノリタケの森(名古屋市西区)
  博物館酢の里(半田市、蔵と運河を利用)
  倉敷アイビースクェア(保存活用の先駆、昭和44年、倉紡企業資料館とホテル)
  薩摩藩の集成館(我が国初期の機械工場、紡績機械、反射炉跡など)
◇地域に分散する工場、施設を産業遺産として活用
  常滑焼(窯のある広場資料館、登り窯、角窯、煉瓦煙突ほか)
  菅谷たたら(島根件県吉田村、たら製鉄の地域文化を伝える)
  織物の町・桐生の町並み(近代化遺産拠点都市)
  大牟田の三池炭坑(竪坑、三池港施設、専用鉄道など)
◇土木・建築物を産業遺産として活用
  横浜みなとみらい21(旧横浜船渠1,2号ドック)
  清水港テルファ(木材積込用クレーン)
  大井川鉄道(SL運転)
  碓氷峠鉄道施設(煉瓦造の第3橋梁、トンネルなど)
  琵琶湖疎水(煉瓦の水路橋、旧ポンプ場、閘門、インクライン、発電所跡など)
  隅田川橋梁群(震災復興で架橋)
◇鉱山跡を産業遺産として活用
  佐渡金山、生野銀山、足尾銅山、別子銅山、中竜鉱山、尾小屋鉱山、釜石鉱山など
◇産業遺産を移築、移設して展示(博物館、資料館)
  博物館明治村(明治建築、明治期の機械ほか)など各地の博物館(企業博物館含む)、資料館
 
(3)産業遺産の活用について
・産業遺産はまちづくりの一つの核になる可能性があるとの考えを持つ
・地域の成り立ち、風土など歴史認識を深める
・産業の興りの背景、在来技術、導入技術(機械技術)、人の関わり
・地域の特徴的な(歴史的な)産業をつかむ
・産業遺産の現況調査
・手業(職人技)の技術の発掘と集積
・現役企業、職人技のウォッチング(産業観光)、職人の手業や機械の動きは引き込まれる要素を持 つ。ものづくり意識は見ることによって育まれる
・企業の協力は欠かせない、新製品も10年後には産業遺産
・青空博物館、屋根のない博物館、地域全体生きている博物館構想
・民俗、歴史との融合
・マップ、見学コースづくり、学校教育、生涯教育、産業観光に
 
■世界各地で産業遺産の研究が進められる、関心の高まり
  TICCIH(国際産業遺産保存会議:International Conference on the Conservation of the Industrial Heritage)
  ICOMOS(国際記念物遺跡会議)
  UNESCO(世界遺産)
  文化庁(近代化遺産調査が1992年以降県別に調査継続中、平成13年度から3年間愛知県の調      査が始まる。近代化遺跡調査も分野別で継続中)
  産業考古学会、日本産業技術史学会、中部産業遺産研究会などによる研究の蓄積
 

謝辞: 調査に際し、関係各社はじめ多くの方にお世話になりました。御礼申し上げます。

 
主な参考文献
1)愛知の産業遺跡・遺物調査保存研究会『愛知の産業遺跡・遺物に関する調査報告』1987年
2)日本機械学会『産業記念物調査』1994年
3)各県教育委員会『○○県の近代化遺産』1992年以降調査継続中
4)文化庁文化財部記念物課『近代遺跡調査報告書−鉱山−』平成14年(今後分野別で発行予定)
5)国立科学博物館『産業技術史資料の評価・保存・公開等に関する調査研究、11年度報告書』2000年
6)馬場俊介『近代土木遺産調査報告書−愛知・岐阜・三重・静岡・長野−』1994年
7)水野信太郎「国内煉瓦刻印集成」『産業遺産研究』第8号、中部産業遺産研究会、2001年
8)愛知県産業情報センター『愛知の産業遺産を歩く』1997年
9)日本ナショナルトラスト監修『日本近代化遺産を歩く』JTB、2001年
10)前田清志編著『日本の機械遺産』オーム社、2000年
11)中部産業遺産研究会『ものづくり再発見-中部の産業遺産探訪-』アグネ技術センター、2000年
12)日本科学技術振興財団『昭和56年度産業技術の歴史的展開調査研究』(57,58年度継続調査)
13)北海道開拓記念館『北海道における産業技術記念物の所在調査』1991年
14)産業考古学編『日本の産業遺産300選』全3巻、平成5,6年
15)産業遺産データベース研究会『産業遺産データベースシステムの研究−中間報告−』1995年
16)豊川市史編纂委員会『豊川市史』豊川市役所、昭和48年
17)農商務省編纂『工場通覧』日本工業協会、明治44年(昭和61年柏書房復刻版)
18)愛知県総務部統計調査課『昭和11年12月末現在 愛知県工場総覧』愛知県、昭和12年
19)通産大臣官房調査統計部編纂『1962年版 全国工場通覧』昭和36年
20)東海民具学会編『東海の野鍛冶』平成6年
21)日本車輌製造『驀進』昭和52年
22)共栄社『70年のあゆみ』昭和57年
23)新東工業『新東工業30年の歩み』昭和39年
24)イチビキ『イチビキ七十年のあゆみ』平成元年
25)『1997年版 とよかわ商工名鑑』豊川市役所、豊川商工会議所、平成9年
本稿は、豊川商工会議所主催・産学官交流サロン「21」例会(於豊川商工会議所2003.2.17)の講演資料 (禁無断転載)

Update:2008/10/24  0000 

(中部産業遺産研究会会員)
2003/10
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