盆騒動實録
笠井町 川島庸夫氏蔵

 表紙
盆騒動實録 全

 口上
書中作者以思慮姓名をはぶき候得ハ 御覧の御方々能きに御くみ訳け被成候
             以上

 見返し
盆騒動實録
道を以不道を制するハ諸人の鏡
悪を以善にむかふハ其身の自滅

 目録
一、喧嘩由来の事
一、盆夜遊ひの事
  付たり 小枩村常隆寺飾りの事
一、金山といふ所にて喧嘩支度の事
  付たり 新原邑の人々小枩邑に来る事
一、木船邑の人々陣取りの事
  付たり 寺嶋邑におゐて伏勢手配の事
一、寺嶋邑大喧嘩の事
  付たり 勝凱歌の事
一、追評判
  付たり 狂歌の事
 右目録終

 盆騒動實録

  喧嘩由来の事

旅奏者奏也、非天下也と何某が云いしこと時なる哉、愚かる哉、木船邑の人々積悪に自滅の相を顕し、笠井邑の天運の開くを知らす、寔に其の濫觴を尋るに、是より七ヶ年以前、安永八年戊亥ノ七月十四日夜、新原邑の大念佛寺嶋邑よりして笠井邑に移り、邑中の観音堂前にて回向いたしかゝり候所、村方より年寄り四五人立出、當村方盆中御停止被仰付候間、大念佛寺回向の義無用に被成候へと断、相立候得ハ、承知の旨挨拶致し半江、木船邑の人々大勢ひを催ふし、其の出立にハ綿入れの羽織を着し、手蓋股引に陣笠或は綿ぼうしなどにて其身をかため、棒木太刀を携へ、

此しも七ツ半時分の事なれハ月も一村の雲に隠れ、朧けなるを幸いに新原邑の大念佛を無二無三に打ちかゝる、名におふ新原邑の事なれバ、相構へて○し戦ハんとす、折から居合い候笠井邑の年寄り四五人何分静り候へと木船邑の人々江詞を掛け、取鎮メかけ候ヘハ、不道なる木船邑の人々や取鎮メに出候四五人の年寄りを散々に打扣き手疵を負セ大勢理不尽に踏込み狼藉なる有様大慈大悲の御目にも嘸や悪しと思召む。此勢ひに打立てられ新原邑の人々少し尻込みしせしかバ、是を相図に木船邑の者共凱歌を上て我レ先にと引退く。笠井邑の人々にくき木船のもの共なりと、追掛けて熊八という者一人引捕らへて留め置く、

夜もはやほの〳〵と明けけれハ、十五日の旭うら〳〵とせしかども、中元の儀式も無く、村役人年寄り立添い、先々木船邑庄屋方へ相届ヶ可申と評議一決の上ヘ、木船邑庄屋ニも相届く、夫ヨリ事段々相募り双方御地頭様ヘ訴ヘ、江戸奉行所迄願ひ出、同年の十月に至りて國内済被仰付、木船邑にも科人も不出来、仲立ちの人有之、双方和睦いたし互いの往来ももとのことくなりけり

 盆夜遊ひの事
  付たり 小枩村常隆寺飾りの事

既に光陰も箭のことしとかや、六とせの星霜を経てことし天明五年乙巳七月十五日よる、笠井邑の若者共盆の夜遊ひにとて彼是うかれ歩行く中にもことし賑やかなる所ハ小松邑の常隆寺なりと聞く、是ハ初盆の祭ありて飾りも至て叮嚀なるよし聞及いでや遊ひなから見物に参らんと、或ハ五人あるいハ七人と小松邑常隆寺ニ至る、飾りもの叮嚀、寺内のともし火、あたかも白昼のことし、見物の老若男女寺内境内にみち〳〵手、聞きしに勝ること共なり、近在近郷より大念佛和讃引替わり入替わり、門前櫛の歯を引が如し、村方の人々は高張手提灯を持チ慇懃に警固して云うよふハ、當村方儀御地頭様より盆中御停止被仰付候ニ付、御庭貸し申義も内分の義に御座候間、各方随分しんびょうに回向し給われと云ふ、念佛和讃の村々も心得たりとて各々事静かに行儀を正して回向す、

斯て笠井邑の若者共も此所に遊ひ居候者彼是相集り候へハ三四十人にも及ぶ、かゝる賑やかなる御庭をむげに遊んもおゐなしと、其中カニもせんしやうなる者懐中よりちさき鉦を出して打ち鳴らす、又側より手拭、こし帯など取出し、幟よふに取りなし、いざや大念佛の真似せんといふて夫ゟ御庭をかり回向す、斯て木船邑の若者共も寺内境内に打群れ遊ひ見物して有りけるが、誰れ言ふとなしに見物の中より木船邑の者共も大勢此所に遊ひ居しが、急に此場を引退き㝡早一人も見へ不申、はて心得ざる事なりなど○○す、それヨリ笠井邑の人々ハ村方警固の者に誘われ右境内を出テ香正寺の門前にて暫し休息し、夫ヨリ同邑の中金山てふ所に初盆を祭る家ありとて同く警固の人に随而此所に至る、

 金山といふ所にて喧𠵅の支度の事
  付たり 新原邑の人々 小枩邑に来る事

斯て笠井邑の人々ハ金山てふ所に至りて一、二軒初盆の庭を回向す、かゝる折から向ふの方より小枩邑の人々四五人息を切って欠り来たりて云よふハ、ご油断あるな笠井邑の人々先刻常隆寺の庭に木船邑の者共大勢見物してありけるが、一人も不残引退きしハ、其意不得る事なりと存しが、此向ふ村境迄七八住人陳立てにこ手、すねあて、棒、竹鑓、石などを持ちはこび、笠井邑の人々に七ケ年以前の遺恨あり、今夜打扣かずんバ何時の時を期せんと、勇みすゝんで押し寄せたり、まだ〳〵跡より大勢支度して押し寄せる様子なり、油断しては叶ふまじと云終て欠り行、笠井邑の人々此詞を聞くよりも、すハ大事こそござんなれ、七ケ年以前の遺恨とハ心得ず、両村互いに和睦して事済たるに、にくき木船のやつばらなる、何ニもせよ油断ならず覚悟極めて向ふべしと、俵ばなし引かぶり縄たすき棒などしめしてひしめゐたり、中にも年長なる若ィ者申様ハ、此小勢を以テ大勢ひに打向かひ勝べきとハ思ね共、所詮死すべきの期至りぬれバぜひなし、各々しやうねをすへて死物狂ひと働かバ一人して五人や十人ハ打殺すべし、我等が覚悟ハ如此なり、左候ハヾ大勢小勢の論有べからず、といふ、

此詞に應る者十七八人より廿にんに及ぶ、よし〳〵我も〳〵此所の土にならんといふ、然ハ此趣を村方残り居候人々にも申残候て、たとへ喧𠵅の間に不合ともせめてかばねにても拾ハせん物をとて、一両人飛ぶがごとくに飛脚をぞ立てたりけり、かゝる所へ小枩邑の人々十六七人走り来たり㝡早押付け木船邑の者共此所へ押寄すべし、もしも當村方へ押寄なば、笠井邑には構せず木船邑は先年の遺恨もあれハ村方の者其分ニハさし置くまじ、何分笠井邑の助勢仕るべし気遣ひあるな人々、と実に頼母子くも申されたり、それハ千萬忝し、我〳〵も覚悟極めて候ヘハ、などか言甲斐なき事の有べきやと答ふ、然らば石などはこぶべしと、小枩邑の人々と共に石をはこび、水を汲み、用心をぞ仕たりける、それゟ村方警固の者に誘われ八幡の森の東なる細道を廻りけれハ、夜もはや〳〵ほの〴〵と明けて人影も見分かりけるに、此評判に近所の人々、それ喧嘩よ、人を打扣くハ、殺ハとて見物の人々山野に満ちて夥敷し、斯て評判ばかりにやとて暫し喧𠵅の沙汰も静まりけり、

それより同邑の中チ中瀬てう所に至りけれハ、誰れ言うとなしに木船邑の者共大勢を催ふし中条邑に陣を取り、笠井邑の帰り路を断きりたりと沙汰す、笠井邑の人々是を聞より、よし〳〵何にもせよ帰り路なれハ打ち破りて通るべし、㝡早せく事ニハあらずと、心静かに初盆の庭を回向す、かゝる所へ中条村ヨリ若イ者両人息を切って走り来たり、木船邑只今私共村方へ大勢を催ふし、陳取りし所、村方ゟ庄屋年寄り若イ者立出、當村方に陳取らせ申事決而相成不申候段、相断候所、早速にハ承知不仕候ニ付、右候ハヾ其村方役人中ヘ相断可申と申候て、木船邑の役人へ相断候所、邑薬ハ被参候て、中条邑をハ引退き候手寺島邑十王堂邊に陣取り申候間、御知らせ申候と申終候ぞ、帰りける、

小枩邑の人々も立添ひ、斯迄不道に遺恨を含みし事悪き木船の者共哉、其上寺嶋邑の者共村内に陣取らせ申事、言語に絶したる大馬鹿者どもなり、しかし、笠井邑の人々如何思召候哉、所詮寺島村の帰り路ハ右躰の事なれバ容易ニハ行連まじ、一向に西ヶ崎村邊を御廻り候哉思召次第ニ可成候と被申ける、笠井邑の人々詞を揃えて申様ハ、是ハ仰とも不覚候、縦へ寺島邑に何千人を催し候とも、死物狂いに打破り可申候、それに何ぞや西ヶ崎邊を廻り候へなどとゝハ存知寄らざる事ニて候と答へ候へば、ホゝいさましき御心入ニ候哉、左様ニ思召候ハヾ小枩邑ニも木船邑におゐてハ古き恨みの候ヘハ加勢与力ニも不及村方若イ者共支度致して先陣を致すべし、然バ得と御休息被成皆〳〵御空腹ニも候べし、支度申付べく候間、緩く御休息可被成候と、さも念比にぞ被申ける、それゟ村中カ成る廣野へ廻り暫し休息をぞいたしける、はや喰も出来候ニ此方へ来たり候へと案内に随而、そこ寔二三軒にて存分に喰をつかい㝡早是にてハ百萬の勢ニても何とも思ハずなど戯れツゝ立出、笠井邑の人数をと見るに、暫時に村方ゟ欠付けたる勢を含みて都合百に三十人も相成ける、かゝる所へ北の方より一群れの人勢イゑい〳〵声にて欠付けたる、勢イあり、諸人驚ひて是を見れハ敵ニハあらで新原邑の人々追々に百子五十人も欠付けたり、

互いに嬉しく一礼にも不及、こハそもいかにかゝる大事を早う御存知有て見ヘられたり、何ゟ申遣わしたく皆人存知たれ共何を申も事急也、殊に味方の勢い一人もぬけ候事如何なりと申せバ、新原邑の人々声〴〵に申様ハ、何者とも知れず、今朝未明の比ひ、笠井邑と木船邑と大喧𠵅出来候間、小枩邑迄只今被参候へと暫時に村方一軒も不残触れ回り候に付き、誰れ人なるぞと問ひ、答へにも不及取物取りあへず皆〳〵支度致して参りたりと云う、双方一度に横手を打抔も不思議や〳〵とあきれぬ物もなかりけり、中にも老人進み出て申様ハ傳へ聞く、先年新田義貞を宮方へ召る候時、天狗山伏触廻りたる由、其戦ひハ極めてよしさだ利運ありと聞及ハ、其吉占あれバ此度の喧𠵅ハ笠井十分の勝手なりと互いに喜び勇ミけり、かゝる所へ小枩邑の若き人々も来て申様ハ、斯時移る間に木船邑の者共寺嶋邑の陣を引かむともとられず、もし陳を引なばかほどに支度したる事も詮なし、笠井邑ヨリ人申遣候て陳を引かせ申さぬこと肝要ならんといふ、

此義如何と衆評に及べども皆〳〵口をとぢて答へなし、暫くありて一人進ミ出て申しけるハ此使者無用也、不道に凝たる木船邑の者共の陳所え使者両人参りたらば、忽打扣き疵負せんハ必定なり、すなをに生捕りし事ハくるしからね共打扣き疵負せん事の口惜しさよと申しけれハ、又側より一人進ミ出て申しけるハ、しかし其理當然なりといへとも左様不致候ハヾ、手間取りし内に陳を引き取り、笠井邑の者ハ㝡早一人り二人り宛逃ケ帰りたりなど功言せんも口惜の至りなりと、いまだ評議一決ならざる所へ両人進ミ出て申しけるハ、願ハ我等両人此使者に参らんたとへ引とらへられ打扣かるとも可申事を申て死すともくゆる事なし、成たけハ迯け帰り陳の様子も味方の人々に告げ申すべしと、勇み進んで申すにぞ、いさぎよき人々なる哉、さらば使者に御出あれ、然らば御酒一ツ呑るべしと、銚子盃さし出せば、心よく引請ケ一つ宛呑みほしていで参らんと飛ぶがごとく跡をも見ずして走り行。

 木船邑陳取りの事
  付けたり 寺嶋邑におゐて手配の事

斯して木船邑の人々ハ大勢ひを催ふし中条村に陳を張り、笠井邑の者共今や遅しと待所に、村方の人々立ち出申す様ハ當村方の陳取り給ふ事如何の思召しに候哉村方を喧𠵅場所に成候事ハ決而相成不申候間、此所をハ御引可成候と申候ヘハ木船邑の人々申様ハ、其義承知仕候得共木船邑斗に候ハヾ早速陳を引取り可申候へ共、加勢の村方数〳〵なれハ容易ニハ引かたしと申、左様に候ハヾ其村方役人中へ可申遣と申候て、夫ヨリ木船村役人ヘ中条村役人ヨリ申遣候ヘハ、木船邑役人中被参候て、中条村の陳を引取り寺嶋邑中条太助十王堂椿薬師の邊り陳を構へ十分にぞ備へける、㝡早笠井邑の者共此所を帰るべし、今や〳〵とかたずを呑んて待けれ共、其沙汰もなかりけれバ一人進み出て申しけるハ、かよふにあんかんと相待候てももし笠井邑の者共廻り道して帰らんも斗られず、若し左様の義候ハヾ木船邑の恥辱ならん、皆々如何思召といふ、諸人此詞に応し、いかさまニも万斛村笠井新田邊の道筋を帰りなバ詮なし、此の道筋をも手分けをいたし伏勢を出すべし、と評議一決の上へ、屈強の人十四人宛手分けをいたし、笠井通路の道々江遣し置く、斯して笠井ヨリ小枩邑へ一人ニても通路致させまじ、もし通りかかる者あらハかたはしから打扣けとさしも不道に評議を定メ、悪くに凝りたる者共を天もにくませ給ふにや給ふぞ思い知られたり

寺嶋村大喧𠵅の事

 付たり 勝凱歌の事

既七月十六日朝五ツ半時分なるに、此日哉天も至て朗かにして秋風の颯々たる気色もあらず、かゝる大変のあらんとハ天もしらしんしめ給わず、扨て三ケ邑の諸軍勢の中にも笠井邑の人々ハ帰り路を断ち切られし残念心魂に徹しぬれハ、先ツ鮎が瀬てふ所より先陣に進み後陳の續かぬ間に打破り踏み殺さんと勇みをぞなしにける、かゝる所へ小枩邑より老人追い掛け出て、大音に申様ハ、若き人々せき給うな、敵ハ十分の備へなれバ石礫ハ言うに及ばず、花火、煙からし、水など打ちかけんハ定なり、随分怪気なきよふ諸神を観念して向ふべしとさも念比にぞ申しける、皆人承知仕ると答へて夫より中条村に至る村人、不道の木船邑を憎しと思ふにや、味方の勢に水などを出し、息をついで進み給えと慇懃にぞ致しける、

斯て中条寺嶋の村境に至れハ、先刻使者に参りし両人の内一人片息に成り迯げ帰り申しけるハ聞きしに違ハず木船邑の者共、太助が家よりして十王堂椿薬師の邊に陳取り加勢と思敷、数百の勢を催ふし、十分に備へたり、我〳〵ハ陳中へ使者の趣申渡すとひとしく大勢追掛ケ両人を引捕らへ散々に打扣き、疵を負ふて候得共、漸くに迯け出、からき命を助かり候が、今一人ハ跡に残り候由へ、打殺されしと覚えたりと、片息に成りてぞ申しける、味方の勢此言を聞くよりも歯を食いしバり、アゝゝにくき木船邑の者共哉、斯迄不道を働くやつはら一人も不残打殺してくれんず物をと勇ミ、進むて押寄せる、先手に進みし笠井の人々十六七人裏道より打破らんとて椿観音の北へ廻る、残る笠井の軍勢ハ表口より押寄せたり、中の陳ニハ新原小枩邑なりしが、是も同じく数百人裏道へぞ廻りける、前後より押寄せ樽、其勢浮塵子の湧くがことし、此事暫時に評判夥敷しけれハ、近在近郷ゟ見物に出候者野に満、山に満〳〵して目にあまつておびたゞし、表口ゟ押寄るより手の勢ハゑい〳〵声にて勇み進んて押寄ける、

㝡早敵陳に間近く十六七間も滿ちぬる所へ寺嶋村の人々四五人立出、先ツ暫く待給へと扇子をひらひて申けるが後陳に扣し寄手の中より、暫時も待ツ事あるべからず斯寄手に油断をさせ、計略に掛ケられ、後悔すとも帰らぬぞ、道にさゝへて邪广ひろがバ片端から打殺せと声〳〵に呼ハれハ、此勢ひに怖れてや何国ともなく迯うせたり、斯て木船邑の者共ハ太助が家の前ヨリ西側なる杉の木立を木たてに取り、西に向て待ち掛けたる身ハ、綿入れの半てん、或ハ綿入れ羽織を着し、手蓋股引に陳笠をかむり、各棒、木太刀、竹鑓などを携へてにらみ詰めてぞ待掛たる、寄手間近く押寄れハ、木船の者共声を掛け命知らずの人々なり、早う来てあやまるか、おさだふるいでおそかりしか加勢の村を待合こハ〳〵来るものおるかと、散々にのゝしれハ、あゝいしくも申したる者也、加勢の村々を待合とハ己らが事也、不道に凝りたる罪人め、十王堂のじやうはりの鏡に移るうば虫ども、此世の障くれんずと、言ふヨり早ク打て出、散〳〵に打合たり、互いに秘術の棒音、太刀音、大地も暫し震動して山も崩るゝはかり也、暫くありて石飛礫、木船の陳ゟ打出す事雨の降り来ることくなり、寄手の方にハ打出す石もなけれハ、打ちてくる帰り石にて打合いたり、石と石とハ當り合、途中でくだけて出る火ハさしも花火にことならず、両陳にしのぎをけずり、こなたがたるめバかなたが付入眉間をはたと打割れ、引取る味方、追い来る敵キ、すかさず脇ゟ突立てる竹鑓先の拍子よく、敵きの面の真中をでんがくざしにつき込たる、血煙り空に立チのぼりすさまじけりし事共なり、

裏の道ゟ押寄たる笠井新原の人々ハ椿薬師の薪西ゟ勢い付いてせめ入ハ、数千の見物きもをけし、我〳〵ハ喧𠵅見物に参りし者共也、怪気してハ叶ふまじと東西へこそ迯け散りたり、木船の陳の跡勢へおめきさけんで打て入たるを幸ひ、打扣く、ふひを打たれし木船勢イ棒取直し立向い、二打三打ハさゝへしがきほい切たる寄手なれバ、無二無三に打立る、何かハ以てたまるべき、打倒されてこけるもあり、ひよろ〳〵として迯け行を、のがすな、あますな、打殺せと小松の大勢乱れ入攻入〳〵打立てる、程なく太助が家裏までどっと押寄せ攻め戦ふ、太助が家の二階ヨリ打出す石ハ雨のことく、垣根より突く竹鑓ハ横嶋かすりのことくなり、木船手は是をことともせず、おめきさけんで戦ふにぞ、木船も裏を破れじと屈強の人々二三十人打て出テ互いに秘術の働きに、暫く時をぞ移しける、表に向ひし寄手の人々、今打殺せ踏殺せとめつたむしやうに打扣く、前後を包まれ木船勢ひこりや叶ハじと言ふよりも南東の家〳〵へ思ひ〳〵に迯込みたり、夫ゟ喧𠵅入乱れ迯け行、木船の者共を掘へ打込み打扣く、又迯け来る人々をやり過して拍子よくうしろさまにぞ打倒す、寔に木船の陳中より花米何某と言う者、棒を携へ笠井なる大の男に打ってかかる、心得たりと身をかわしつか〳〵寄つて引組みたり、互いに力量ゑい〳〵声、組づほぐれツもみ合ふたり、如何ハしけん、大の男石につまづきける所を花米のしかゝり、じつてい秡ひて打んとす、此躰を見るよりも笠井の陳の真中ヨリ一人急に欠付けて、有合ふ竹鑓追取給へ花米か腮さきかけて突込たり、是に気を得て大の男はねくり返して、じっていもぎ取り、眉間を二ツに打割りたり、

かかる所江又一人二間の樌をひつかつきおくり散らして欠け来る新原小邑の若者共能き相手ぞと立向ひ散々に打扣く、迯るをやらじと追い打に扣きすへ打すゆれバ、命ばかりは御助と両手を合、拝むも有り、目もあてられぬ事共なり、相手なけれバ寄手の人々太助か家へ立向ひ、此家に木船の者共を隠し置き候に極たり、早く出せと呼ハりたり、内ヨリ答ゆる者なけれバ、扨々にくき者共哉、打破り引きずり出せというより早く戸はめ四五本打破り、棒差し入れてかき廻せバ、縁の下ヨリ一人リ二人リ這い出るやつを打扣き、㝡早十分打ち勝ちたり、命ハくれる、迯け帰れと、踏み飛ばされてひょろ〳〵とあるきかゝへて迯け帰る、斯て寄手三ケ村の人々ハ一所に集まりて鉦打ちならし勝チ凱歌を三度迄ぞ上ケたりける、さらバめでたし、一先一所に村境迄引取るべし、と勇み進んて引取れハ。前々ハ道も明しかど、今見れハこハいかに、笠井の道筋を竹もて繁く結ひ切りしハ寺嶋邑の人々が仕業ならんと覚へたり、もしも喧𠵅に打負けバ、迯け道ハ斯結い切られ、打殺されるハ必定なり、誠に諸神の加護なりと、悦ひ勇て寺嶋村境迄ぞ引にける、互いに寄りて一馳し勇みて共に別れしが、小松新原の人々申様ハかほど目出度勝チ喧𠵅に、笠井迄送らんハ本意なし、せめて若イ者少しも送らせ申さんといふ、其義ハ御厚志忝し、然は急に角思江次第と申なれハ小松新原両邑にて若イ者二三十人ぞ見送らる、斯て無難に笠井邑迄帰りけれハ、両邑の衆中に御酒にても進ぜ申さんと申候へは、それハ重而先ツおさらば、是ハ早々然バ左様と一礼し、互いに分かれて帰りける、

夫ヨリ笠井の人々ハ下木戸ゟ入り、観音堂に来り、無難に帰り目出度しと、礼回向をぞいたしける、老人妻子親しくハ人々無事に帰りたる顔見て、勇み悦ひて、嬉し泪ぞ有りなる、かゝる所に一人申様ハ、先刻小枩にて使者に遣し候一人ハ帰りたれ共、残り一人いまだ不帰候と、色をそんじて申しける、人々それハと打ち驚、もし打殺されハ不致哉と安事、ワずろふ、其所へ少々手疵負たれど勇み進んて立帰る人々、先ずは嬉し哉と様子如何と尋れハ、いさゝか疵負い候故、休息いたし遅りしが喧𠵅十分打勝たれハ、疵のいたみも候ハずと、勇てこそハ語りける斯其村方評議して、念佛の道具、燈行、幟、観音堂にぞ収めける、

かかる大変なる事出来しかども、公儀の沙汰ニも不及して無事に治まる、目出度やと皆萬歳を唱えけり、

 天明五年乙巳七月十六日の 也

  追記に曰

一、寺嶋邑喧𠵅の場所に木船邑の者一人打扣れて即死有之候と噂とり〳〵なれ共、打殺されたる者ならバなどか其分にて差置くべきや、縦へかるき百姓ニても一人ハ大功のことなり、御検使ニても請け、いかほど心良き木船村の人々なり共、何方の村方より成共、相手を吟味いたし、げ死人を取るべきなれ共、其沙汰もなくほうむりしとハ、おふかた近年流行る即中風といふ病ひなるべしと、いゝあへり、しかし此者平生心がけのやさしきハさすがに辞世の歌を大地に書き付けて、のたり死に死だる、其歌寔に記す

 ながらへて世に恥業をさらすより
  打扣かれて死だのがまし

盆騒動實録 終 七月廿四日写之

埒茂内先生作 大念佛由来 全一冊

右同断 遠江盆喧𠵅古今集 十巻



万斛村青木家文書
 土のいろ復刊第十八号所収

 乍恐以書付奉願上候
一、去ル十四日夜七ツ過、近藤縫殿助様御知行所新原村大念佛當村方通り掛り、副來寺境内観音堂ニ而回向仕掛り候処、村方百姓茂兵衛四五歳、傳十三十八歳、庄兵衛五十二歳、次郎太夫三十八歳、甚右衛門四十四歳、勘兵衛四十九歳、都合六人居合 當村方盆中御停止被仰付候間大念佛回向之儀 決而相成不申段断相立候得は、承知之旨挨拶御座候半江
御知行所木船村衆中大勢徒党被致、右新原村大念佛を無二無三ニ打掛り候に付、

 ・當村の六人が止めに入る
 ・木船の人たちは棒、木太刀、石打て六人をなぐり
  新原の人たちを打散らして、ときの声を上げて退散
 ・追って行った木船村の熊八を捕えると、綿入れ羽織
  手蓋股引綿面をかぶり、頭巾を着し、たすき掛け、
    木太刀を差、棒を持っていて、最初から闇討ちの姿
 ・御朱印値の観音堂境内での乱闘で、瓦を破損した、

一、翌十五日朝、木船村役人へ抗議
 ・木船村から謝罪
 ・再抗議「数万人入込候市場」であるから「一通り之
  侘言不承知」、熊八への食餌も、もしこちらで与え
  て食傷されては申訳ないから、立会で行なう、

一、十六日朝、木船村役人三人、若イ者四人堪忍と申すの

  み、これではケガをした人に対しての弁償が無いから
  訴える、百姓代又十六十一歳、清兵衛五十歳、組頭才
  兵衛四十八歳、佐次右衛門四十八歳、金右衛門六十一
  歳、庄屋佐次兵衛
   浜松御役所の許可を得て志都呂御役所へ訴える     木船の支配、松平図書頭

一、十八日、御代官手代、同心ら五人、庄屋方に逗留して
  調査

一、廿四日、検使歩行目付、代官手代が来て、村役人と最   初に止めた六人を尋問、調書作成

一、廿五日、右の者達役所へ出向

一、廿六日、再び出向
  木船新田村の返答、新原村の大念佛は意趣を含み笠井   観音堂で待つているというので、行くと境内から石を   打ちかけ、とび口、長柄の鎌、六尺棒、拾手、竹鑓等   で突立てたので、喧嘩となる、笠井の人々も木船に遺   恨をもつているからだ、
一、笠井村の再び返答、木船の主張はウソである、あまり   に木船新田の人がウソを言うから、江戸表-寺社奉行-   へ訴えることとするから、志都呂陣屋へ訴えたものは   取り下げる、


「万斛村青木家文書」
美濃紙仮綴、墨付表紙共四十丁
表紙には「安永八亥年七月願書案文」とある

安永八年(1779)七月十四日夜、新原村大念佛団が、笠井村福来寺の観音堂で大念佛の回向を仕掛つたので、笠井村百姓六人が、当村では大念佛を停止しているからと断つた、そのため新原組は承知したところへ、木船村の者が大勢徒党して、新原組大念佛を無二無三に打つてかかつた、これを静止した笠井村の者をも、棒、太刀で打ち、新原村大念佛団を散々に打って、ときの声をあげて退いた、余りの狼藉振りに笠井村茂兵衛に疵を付けた木船村の熊八を捕え、笠井村へ留め置いた、これが安永八年大念佛論争の一件である、此の事件を中心に、笠井、木船、新原が公儀へ訴えた文書類を、一括して写し置いたのが、此の案文である、



参考
「笠井観音の初市と春日神社のお祭り」より
 田辺 寛 土のいろ復刊第二十五号 昭和四十年

昔、笠井にも念仏の組があったが、ある年、隣村の念仏衆と、道中ですり合ったさいに、ふとしたことから、小松村辺から争いとなり、とうとう相手方の一人を殺してしまったので、お上へ届け出る始末となり、裁きをもうけることとなった、人を殺したとあっては穏やかにおさまるはずもないわけで、この裁きは、大念佛が大変混雑してもみ合っている中に、卒中にかかり死んでしまったということにして、やっとけりがついたということである、それ以降笠井村は大念佛を止めてしまったということで、道具は法永寺へ預けておいたが、戦時中供出してしまい、今ではもうなくなってしまった。この争いのことを私の爺さんが小説風に書いたものがあって、読んだことがあった。


「盆騒動實録全」(表紙共半紙二ツ折二十枚)川嶋氏蔵