遠州縞が遠州縞に止まっていたら、話はそれまでで、各地に近代的な繊維産業が育ち「縞の合羽に三度笠」の唄が廃れると同時に、遠州縞も時代遅れのファッションとして片付けられてしまっただろう。ところが話は次の段階に進んでしまう。明治末になり、東海道鉄道の修理工場を何処に作るか、という建議が国会に諮られると、「渡ってから石橋をたたく」我が先人達は鼻の穴を思いきり膨らませて張り切ったのだ。
「警官隊の取締を避け、近隣の駅から三々五々に分かれて汽車に乗り込んだ誓願隊が数百人規模で国会を取り巻いて気勢を揚げた」
のだそうだ。昨今の公害企業反対では無く、誘致賛成の誓願である。地元選出の国会議員に任せる、というやり方では無く、市民運動の直接行動というのが凄い。大正元年、鉄道院浜松工場開設後も、工場自体での国家プロジェクトとしての先端技術開発はそれとして、 そこからスピンアウトし、町工場で誰にも遠慮することなく、 自分の「腕」を発揮することを喜びとする職人衆によって、町の姿は大きく変わって行った。 伝統的なイザリ機は木枠に鉄製の歯車を付けた近代織機に姿を替えていった。
日の丸が南方へも立てられると、遠州の糸へんも三面開放型の南方へと繰出したわけで、インドネシアにおけるサロン織物近代化の鼻祖は鈴木式織機だそうだ。官主導に頼らない近代化を辿って来た遠州人が大いに活躍したのは国家を初めとする行政機構が茫然自失としていた昭和20年代であり、昭和30年頃、浜松市内にはオートバイのブランドメーカーが20数社有ったという。官主導・ 外国技術導入型の日本の近代化の中で、「町工場で自動車を作ってしまった。」 というのが「ポンポン」に始まる自動車産業の面白いところなのだが、 浜松はこうした「町工場型自動車産業」の発祥の地なのだ。 遠州國敷知郡吉津村の豊田佐吉がなぜ東三河を飛び越して三河國刈谷町へ引っ越したかはともかく、現在のところ世界のF1グランプリ、モトグランプリは三遠南信鍛冶職人の腕比べ、となっている。
遠州の三面開放型と較べて伊那谷の「そら」を二面開放型、と考えることもできよう。青崩峠から北を望むと、まるでマサカリで山を断ち割ったような谷筋が遠く臨め、ランドサットの衛星写真を見てもくっきりとこの地形が見て取れる。大鹿村から高遠を経て諏訪湖にいたるこの谷筋に比べれば、天竜川の川幅はやや大きいものの、やはり二面開放型、といって良いであろう。北に進むか南に下がるか、という二者択一をしいられることの多い土地柄であったことは想像がつく。同じく街道筋といっても、峠を押さえられてしまえば遠州のように海に逃げるわけにも行かず、「渡ってから石橋をたたく」式にはことが運ばなかった土地柄では無かろうか。遠州人からすれば信州人は間違うことの出来ない環境で暮らして来たように見える。海外進出でも昭和恐慌で峠を塞がれ、「僕も行くから君も行け」と煽ってみても動かない、当局の担当者が「開拓といっても人の入らない荒れ地を拓くわけでは有りません。殆どは現在、支那人が農業を営んでいる土地を接収するのです。人の土地を奪うことになる、という方もいらっしゃいますが、これは死活問題、あちらが死ななければこちらが死ぬ、という時局でありますから悠長なことは申せないのであります。」と手の内を全て晒して、やっと動く。それも村を二分しての分村移民と悲愴感が漂う。遠州人の「ちょいと朝鮮満州へ反物を売りに、」というのとは大分おもむきが違う。
しかし伊那谷が「逃げ場の無い」二面開放型になってしまったのは、平地に鉄道が敷かれてからの高々100年に過ぎないことも中山道大平宿を訪れてみると良く分かる。中山道を往来する旅人の多くは徒歩であるか、格式上必要では有るものの、徒歩とどちらが疲れるか、と言えば、それほど大きな違いのない駕篭であった。上松から塩尻を越える方が、大平から阿智へ越えるよりも楽だ、というのは英国製岡蒸気にとってであり、平地でも難儀をする旅人にとって、大平越えの坂を踏みしめるのも、現代人が考えるよりは「苦有れば楽有り」といった世界であったろう。大平宿には製材所の後も残っている。山から材木を下ろすのが難儀であった時代には、丸太で下ろすより製材して余分な荷を省いて下ろせば商売になる、という時代が変わってしまったのはトラック輸送が広がった戦後のことでは有るまいか。
スイス・オーストリア・ドイツには、鉄道技術の黎明期に山国の旦那衆が金を集めて作った軽便鉄道があちこちに残っている。明治政府が山の無い英国では無く、こうした山国に頼って鉄道技術を導入したならば、日本の近代も大分変わったものになっていたかも知れない。
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