地域情報誌「ami」8号(2003.01)へ掲載


アクトタワーから馬込河口を見る。
手前から流れ込んでいるのが新川


空中庭園を子どもが横切る。
赤石山脈は夏雲の向こう。


天龍河口から北を見ても山がない。


冬の陽は海から出て海へ沈む。

東三河、南信濃、西遠江といって、降水確率30%なんていう物理的な「空」には変わりは無いのだが、これがそれぞれの地域で人々が紡ぎ出して来た暮らしを踏まえての「そら」は同じでは無かろう。生れも育ちも遠州で、他所のことはあまり良く分からないのだが、ちょっと「そら」を仰いでみよう。「他人のそら似」なんていうように、「そら」にはうつろな、意味の無いものというイメージがあり、頭の上の空も一見変わらないように見えて、三・信・遠の空は同じでは無い。

遠州の空は三面開放型というか、東西・南が空いている。東西に走る東海道は五街道の筆頭であり、日本という国が形作られる上で最も重要な交流ルートであったと自負している。自負している反面、それに寄り掛かった暮しが遠州人の習い性とも言えよう。静岡県人を駿・豆・遠に三分類すれば乞食・強盗・掏摸だそうで、家康・慶喜はじめ、天下人に寄り添って生きるのが県中部、迷い込んだ旅人を心からもてなし、裸にして帰すのが伊豆、東西を行き来するビジネスマンの懐中から最新情報をかっぱらい、それをまねして暮しを立てる、というのが県西部、とそれぞれに産業が形作られて来た。

明治以降の殖産興業の時代、国家主導型の近代化では無く、地方都市の旦那衆が路地裏の工場で産業近代化をやる、というのが遠州で上手くいったのも、我が国の近代化全体が西洋の文物をかっぱらって来て、というやり方だったからで、当地の人情に合っていたからであろう。「渡ってから石橋をたたく」という進取の気質、あるいは韓国人朝鮮人に嫌われそうな「三歩進むと前のことは忘れてしまう」なんてのは遠州人の得意とするところである。

三面開放型の南は、江戸時代には実質五十里なのに運賃計算は七十五里分という海の難所の遠州灘である。江戸時代までは天下の海運を仕切っていた三河の衆と違い、「寄りもん拾い」が遠州人の習いであり、現在でも年寄りが「寄りもん」を風呂の焚き付けにしたり、嵐の後で外国船から落ちた丸太が寄ると、クレーンで拾いに来る人がいて、「伝統文化」を守っている。

「寄りもん拾い」の公式記録としては、「御前崎船番所」への御用船の難船届が御前崎町から刊行されている。幕府による外国貿易を扱った長崎俵物奉行所などへの荷物を載せた御用船が難破すると、詳細な難船記録が提出されたもので、当時の外国貿易の一端が伺える。御用船からの寄りもんは番所へ届けなければお咎めがあるのだが、殆どは改めて重しをくくり付けて海中に隠すなどし、ほとぼりがさめてから他国へ運んで売り払ったりしたようである。


天竜市を一歩入ると遠州人にとっては
山国。


ここ100年程、
鉄道が近代化のタネジカケでした。


「渡ってから石橋をたたく」
遠州人が旧東海道を練り歩く。

静岡県は県土の2/3が「居住に適さない傾斜地」ということで、結構な山国なのだが、明治22(1890)年、東海道鉄道が開通するとそれまでの事情は一変してしまった。鉄道計画は当初「往来の便良き東海道よりも、難所の続く中山道の方が営業上宜しからん」という目論見だけで無く、「万事戦陣ヲ以テ範トス可シ」という明治政府の幹部連、特に薩英戦争やら下関戦争の艦砲射撃で痛い目に会っている連中からすれば京都-東京鉄道のルートは中山道以外考えられなかった。というわけで明治16年に中山道鉄道が着工した。ところが翌17年、測量が木曽山中に差し掛かると、どうもこれは想像を絶する難工事である。技師長モレルはじめお雇い技術陣はイギリス勢であり、イギリスの山と言うのはスコットランドにこそ標高1500mに迫るものが有っても、イングランドには1000mほどの山しか無い。工事は「木曽のナァ−、、、御嶽山」の麓で往生してしまい、明治19年東海道鉄道に計画が変更されて、明治22年に全線が開通。

県土の2/3が「居住に適さない傾斜地」ということは、人口の殆どが荷車で停車場まで荷を運べる、という条件になったわけで、これがその後の遠州の近代化を特徴付ける基盤となった。それまで背中に背負っていた反物は鉄道手小荷物と変じ、瞬く間に遠州縞は全国の日常用綿織物市場を席巻してしまった。そればかりか明治27年の日清戦争、明治37年日露戦争で朝鮮半島、中国大陸の市場が解放されると、日本国内を荒し回ったと同様、荷車で浜松駅までかつぎこんだ反物で東亜を征服せんとばかりに新市場へ乗り込んだのは「渡ってから石橋をたたく」式の遠州の旦那連中であった。全国津々浦々の墓地には「日清戦争戦没者忠魂碑」「日露戦争戦没者忠魂碑」「太平洋戦争戦没者慰霊碑」が建てられており、大きさが次第に小さくなっているのが常だが、遠州地方はそれだけでは無い。私の在所にある熊野神社には、それほど大きくは無いものの、「奉納/奉天遠州銀行株券百株」なる石碑が建っていて、当時の事情を物語っている。

遠州縞が遠州縞に止まっていたら、話はそれまでで、各地に近代的な繊維産業が育ち「縞の合羽に三度笠」の唄が廃れると同時に、遠州縞も時代遅れのファッションとして片付けられてしまっただろう。ところが話は次の段階に進んでしまう。明治末になり、東海道鉄道の修理工場を何処に作るか、という建議が国会に諮られると、「渡ってから石橋をたたく」我が先人達は鼻の穴を思いきり膨らませて張り切ったのだ。

「警官隊の取締を避け、近隣の駅から三々五々に分かれて汽車に乗り込んだ誓願隊が数百人規模で国会を取り巻いて気勢を揚げた」
のだそうだ。昨今の公害企業反対では無く、誘致賛成の誓願である。地元選出の国会議員に任せる、というやり方では無く、市民運動の直接行動というのが凄い。大正元年、鉄道院浜松工場開設後も、工場自体での国家プロジェクトとしての先端技術開発はそれとして、 そこからスピンアウトし、町工場で誰にも遠慮することなく、 自分の「腕」を発揮することを喜びとする職人衆によって、町の姿は大きく変わって行った。 伝統的なイザリ機は木枠に鉄製の歯車を付けた近代織機に姿を替えていった。

日の丸が南方へも立てられると、遠州の糸へんも三面開放型の南方へと繰出したわけで、インドネシアにおけるサロン織物近代化の鼻祖は鈴木式織機だそうだ。官主導に頼らない近代化を辿って来た遠州人が大いに活躍したのは国家を初めとする行政機構が茫然自失としていた昭和20年代であり、昭和30年頃、浜松市内にはオートバイのブランドメーカーが20数社有ったという。官主導・ 外国技術導入型の日本の近代化の中で、「町工場で自動車を作ってしまった。」 というのが「ポンポン」に始まる自動車産業の面白いところなのだが、 浜松はこうした「町工場型自動車産業」の発祥の地なのだ。 遠州國敷知郡吉津村の豊田佐吉がなぜ東三河を飛び越して三河國刈谷町へ引っ越したかはともかく、現在のところ世界のF1グランプリ、モトグランプリは三遠南信鍛冶職人の腕比べ、となっている。

遠州の三面開放型と較べて伊那谷の「そら」を二面開放型、と考えることもできよう。青崩峠から北を望むと、まるでマサカリで山を断ち割ったような谷筋が遠く臨め、ランドサットの衛星写真を見てもくっきりとこの地形が見て取れる。大鹿村から高遠を経て諏訪湖にいたるこの谷筋に比べれば、天竜川の川幅はやや大きいものの、やはり二面開放型、といって良いであろう。北に進むか南に下がるか、という二者択一をしいられることの多い土地柄であったことは想像がつく。同じく街道筋といっても、峠を押さえられてしまえば遠州のように海に逃げるわけにも行かず、「渡ってから石橋をたたく」式にはことが運ばなかった土地柄では無かろうか。遠州人からすれば信州人は間違うことの出来ない環境で暮らして来たように見える。海外進出でも昭和恐慌で峠を塞がれ、「僕も行くから君も行け」と煽ってみても動かない、当局の担当者が「開拓といっても人の入らない荒れ地を拓くわけでは有りません。殆どは現在、支那人が農業を営んでいる土地を接収するのです。人の土地を奪うことになる、という方もいらっしゃいますが、これは死活問題、あちらが死ななければこちらが死ぬ、という時局でありますから悠長なことは申せないのであります。」と手の内を全て晒して、やっと動く。それも村を二分しての分村移民と悲愴感が漂う。遠州人の「ちょいと朝鮮満州へ反物を売りに、」というのとは大分おもむきが違う。

しかし伊那谷が「逃げ場の無い」二面開放型になってしまったのは、平地に鉄道が敷かれてからの高々100年に過ぎないことも中山道大平宿を訪れてみると良く分かる。中山道を往来する旅人の多くは徒歩であるか、格式上必要では有るものの、徒歩とどちらが疲れるか、と言えば、それほど大きな違いのない駕篭であった。上松から塩尻を越える方が、大平から阿智へ越えるよりも楽だ、というのは英国製岡蒸気にとってであり、平地でも難儀をする旅人にとって、大平越えの坂を踏みしめるのも、現代人が考えるよりは「苦有れば楽有り」といった世界であったろう。大平宿には製材所の後も残っている。山から材木を下ろすのが難儀であった時代には、丸太で下ろすより製材して余分な荷を省いて下ろせば商売になる、という時代が変わってしまったのはトラック輸送が広がった戦後のことでは有るまいか。

スイス・オーストリア・ドイツには、鉄道技術の黎明期に山国の旦那衆が金を集めて作った軽便鉄道があちこちに残っている。明治政府が山の無い英国では無く、こうした山国に頼って鉄道技術を導入したならば、日本の近代も大分変わったものになっていたかも知れない。
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