地域情報誌「ami」9号(2003.04)へ掲載


「海の関所」今切れから西が「関西」、浜名湖の東が「関東」というイメージが歴史の中にはたびたび現れる。静岡県と愛知県の境が何故高師原の小川なのか、遠江国と三河国の国境が一体どんなものであったか、昔の人の残したものを少し見てみよう。

新居町愛宕山山頂には源 頼朝が、初めての上洛を果たした帰路、新居に立ち寄った時の思い出を残したものと思われる「都よりあづまへかへり下りて後、前大僧正慈鎮のもとへよみてつかわしける歌の中に」の前書きのついた歌が歌碑として残されている。

 かへる波君にとのぞみことづてし

 濱名の橋の夕ぐれの空

浜名川に映ってキラキラと光る夕陽は、果たせなかった征夷大将軍へののぞみであろうし、輝く水面に逆光で黒い影を落とす浜名橋の影は、にっくき後白河法皇の思い出かもしれない。「箱根山を越さねぇのが江戸っ子」ならずとも、当時のあずま人の感覚からすれば箱根の山から東が関東、浜名湖から西が関西ではないだろうか。ともあれ橋を渡って関西を離れ、国元へ一歩近付いた、「後は宜しく頼んだぞ。」という歌だ。橋の向こうが三河国なら分かりやすいのだが、この時の橋の向こうも遠江国橋本宿であり、国境は車で国道1号線を走れば、とうてい気付かないような、高師原を越えたあたりの小川であったとすれば、遠江国は一部関西に属する、とも言える。



大平洋へジャンプする国道1号線
お疲れぎみの現代人にも明治元年十月一日の木戸孝允の
「前途洋々」という気分が味わえるかも



浜名大橋から見た高師原



高師原から見た浜名大橋

分かりやすいのは明治帝東幸に供奉した木戸孝允の日記。明治元年旧暦十月一日は京都を出発して十日目、四月に閏で後の月があったので、新暦で言えば十一月末くらいであろうか。朝から激しい西風が一行の背中に吹き付けていた。白須賀宿を過ぎて坂を上がり切ると家並が途切れ、東海道は台地の端の崖すれすれに続く。錦の御旗を押し立てた行列の先頭に驚きの声が上がり、それがざわざわと後ろへと伝わって、行列全体が騒然としてくるが、駆け出すわけにも行かない。警護の吉田藩士達は「こいつら海を見たことが無いのか、」と吹き出しそうになるのを堪えている。輦輿は台地の端に至ると暫く止まる。行列の最後尾はまだ坂の下にあって、我慢できないという風に膨らんでいる。奥羽列藩が恭順したと言ってもそれは形の上のことであり、秋田方面では苦戦が続いている。この朝も吉田行在所に、塩、味噌、足袋などの軍事物資を加賀から秋田へ輸送するという報告が届いたところだ。宿場の町人、近隣の百姓どもの人影は帝東幸に恐れをなして見えないが、悪童が障子の陰から覗いていたかもしれない。湖西市立白須賀小学校の前の道が、当時の東海道であり、輦輿が止まった所に石碑が建っているので、分かりやすい。木戸孝允日記などによれば、

明治元年戊辰十月大 朔日、晴、西風甚、夘之半刻吉田駅御発輦、観潮坂ニ被為至、始テ至尊大洋ヲ叡覧被為遊、暫御途中ヘ輦輿ヲ被為止、従是皇威之洋外相輝ン始ナリト感涙ニ不堪也、比度御東幸ニ付、京師ノ腐儒迂生異論百出、大ニ輦輿ヲ奉止等之説アリ、天子之天子タル御事ヲ不知、固陋之見ヲ以天下之大機ヲ誤ラントス、前途之事始終内部之障妨ヨリ、却テ国威ヲ縮小スルニ至ル件擧テ不可数、百時多端之時節慨嘆之至也、当局者只苦心焦思、傍観スルモノハ随意誹謗、不知天下之事如何。

と、生まれて始めて大平洋を見て騒ぐ一行の中で、「小物には俺の考えていることは解らん」というところだ。帝東幸も「江戸を東京とし、帝は東西両京に行幸したまふ」とか言ってなんとか実現に漕ぎ着けたものだった。こうして大平洋の海原を天覧に供した木戸の脳裏には「前途洋々」と言う文字が惨然と輝いていたであろう。この時の湖西市立白須賀小学校前の道端での一行の感慨が、よくも悪くもその後一九四五年八月十五日に至る我が国の歩みの元となった、と言っても良いだろう。現在の国道1号線浜名バイパスは、場所こそ少し西に寄ったものの、京都五条大橋を発した東海道が、高師原を越えると遠江国という、明治元年10月1日の明治帝東幸の折の驚きを時速60kmに翻訳した、なかなかのデザインをしている。



豊川稲荷本殿は揚子江下流域に発生した
水田稲作文化の東の果てにそびえる、
紀元前の中国式「楼観建築」のプロポーションをしている。


さて、それより数千年の昔、我が国で水田稲作が始まった頃から、オイナリサンは既に農民の信仰の対象ではなかったろうか。稲荷神は我が国淫祠の筆頭であり、勤王の志士を祀るのに始まった靖国神社はおろか、延喜式にも載らない「御狐様」だ。ところが稲荷と言えば伏見稲荷でなければ豊川稲荷であり、東国には豊川稲荷の眷属が多い。徳川幕府に付き従って江戸に移ったのが駿・遠・三の武士だったからとも言えようが、東国に稲荷の本山が無いのは遥か昔、稲作とともに稲荷を祀ったであろう人々にとって、東三河が世界の果てだった時代が有るのかもしれない。

まだ「遠江」「三河」などという国が姿を現さない頃、「肥国」「豊国」「備国」「総国」「羽国」「毛国」等と、それぞれの「国」が「ヒ」「フ」という一声の和語と漢字一文字で表わされ、人々の意識の上に現在の日本が形作られるようになった時代があった。この時代、このあたりには「穂国」「井国」などがあったようだ。遠方の「国々」が後には「肥前」「上総」というように上下・前後に分けられる程大きいのに較べ、「穂国」「井国」が比較的小さいのは、近くの物は大きく見え遠くの物は小さく見えるという遠近法によるものか、もっと現実的に米の生産力や人口密度を基準にしたものであろうか。

遠近法からは当時この辺り-伊勢湾岸-を日本列島の中心と見ていた人々の存在が伺える。「ホ」「イ」という一声の和語を漢字一文字で表すというのは、その人々が米と共に漢字を日本列島へ持ち込んだ人々だった為であろうか。当時すでに北九州一帯には、吉野ケ里遺跡に見られる様に、大陸の完成された稲作技術によって大規模な水田が整備されつつあっただろう。「穂国」「井国」の人々は、石高・人口密度といっても、そうした先進地とは別系統の収税機構を作ろうとしていた人達かもしれない。そう考えると縄文的農業から弥生的農業への転換が全国的に進みつつ有る時代、伊勢湾岸を日本列島の中心と見る人々があったというイメージが組み立てられよう。

当時の伊勢湾を中心とした稲作文化圏の人々にとって、船と言えば揚子江下流域以来の平底船が全てであり、外洋に出ることも可能な丸木舟ではなかろう。それが帆掛け船であれば、風下に当たる三河湾東岸は「此の世の果て」というイメージが有ってもおかしくない。素人がヨットを始めて覚える言葉の一つに「リーショア」というのがある。「風下の岸」のことだが、まあ先達がいなければ必ず一度はこの「リーショア」に出くわす。港口の風下の突堤に吹き寄せられて動けないという、情けないことこの上無い姿を想像していただけば良い。東三河が「城の下まで舟が着」き、後には瀬戸内海運勢力と国内海運の覇権を争って、四十七士討ち入り騒ぎの原因なった西三河と違うものに、「リーショア」という立地も有る。

高師原を越せば南は大平洋であり、東に浜名湖の彼方を望めば天竜川、大井川、安倍川、富士川と、一旦氾濫すれば手のつけられない大河が連なっている。いずれも「穂国」の人々にとっては人智の及ばない「此の世の果て」「人外魔境」だったのではあるまいか。



水の都柳川のみならず、筑後川下流域には
「南船北馬」の揚子江下流の雰囲気がある。

吉野ケ里を中心とする有明海沿岸、瀬戸内、伊勢湾と、いずれも河川河口域に遠浅の内水面が拡がっている。吉野ケ里を見た序でに筑後川下流をうろついてみたことがあるが、もしかすると揚子江下流域も同じようなものかもしれない。一言で言えば水平線まで拡がる泥の世界、というところであろう。干満の差が大きく、かってはこれを利用して筑後川の栄養分の多い水を水田に逆流させるという技術も有ったとのことだ。一度この揚子江下流域の景色を眺めてみたいと思う。そう考えて豊川稲荷の本殿を仰ぐと、何となく吉野ケ里第二期復元工事で建てられた神殿に、プロポーションが似ている。考古学的調査の結果デザインされたのであろうそれは、孔子の時代、紀元前3世紀頃の中国の「礼記」の楼観に酷似している。

大平洋と静岡県内の急流が「人外魔境」であるのと対照的に、豊川から浦川へ越せば、伊那谷から遠く信濃川に至る信州街道である。縄文晩期の日本で最も人口密度が高かったのが中部山岳地帯だとのことで、こちらの方が弥生人と縄文人の交流ルートの正面であったとも考えられる。小布施の栗も丹波からの技術移入なんて言うより、三内円山の時代の「縄文の農民」の残したものかもしれないのだ。江戸時代の初め、川村瑞軒かだれかが幕府に願い出た、「酒田の米を下関から瀬戸に廻し、浪速から江戸に送る代わりに、信濃川から犀川を上げて塩尻から天竜川へおろす」という話も、そうした遥かな昔の記憶が遺伝子として残されていた所為かもしれない。もっともこれは榑木流しで苦労させられていた「川筋村々」の猛反対でボツになったとか。

頼朝の時代に関西と関東を別けていた、浜名湖あるいは高師原の東西、という二分法の始まりはこうしてみると、実は頼朝よりもはるかに古いような気もする。ユーラシア大陸の小麦の遺伝子の分布を分析していくと、北方型と南方型に二分されるという。そして黄河流域と揚子江流域を分界線とする、この二系統は朝鮮半島をも南北に分け、さらに日本列島にも北方型と南方型のニ系統が併存し、他の作物の遺伝子と共に西日本と東日本とに分けることが出来るのだそうだ。そしてこの北方型小麦と南方型小麦の境が、おおむね浜名湖と富山湾を結ぶ中部山岳地帯であり、方言の上からみた西日本と東日本の境界にも深いかかわりが有るとのこと。そう考えれば結構浜名湖から西が関西、東が関東という分類も成り立つわけだ。頼朝の頃、あるいは下がって新居の関所の頃にも浜名湖が東西の境、とされたのはそうした遥かな昔の記憶が、例えば農業技術といった形で伝承されていた所為かもしれない。「豊川稲荷」という立地も、揚子江下流域に発生した水田稲作文化の「東の果て」がこの辺りだった頃の遺伝子だ。
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