2003.9.13

あるひとの奥方に酒席で「彼はあそびにんですから。」と言ってしまったのだが、後で考えると意味が正確に伝わっていないかも知れないと心配になった。酒酔い恐るべし。

その場に居たのは某大学学長、某大学人文科学研究所長といった、大学改革、独立行政法人化に苦労されている方々であったので、「彼はあそびにんですから。」という真意を少しは分かってもらえたはずなのだが、奥様は芸術家であり、天真爛漫な方なので、欧州近代のあちこちの宮廷における、音楽家のような存在を想像されたかも知れない。

「座主」である「彼」は、今の日本でも一流に属する人なので、近代日本という「文化的発展途上国の制度」のもとでの名分などを潔しとするような人ではない。潔しとしないでおれるのはそれだけの資産を持っているからだ。学識が一流であっても、それ以外に資産を持たない普通の人は、学位を取るやら、学会賞の受賞順を繰り上げてもらうやらと、資産管理をする必要が有る。建築で言えば天王町の庄屋であった中村與資平がそうであるように、つい40年前までは我国にも、資産と能力を兼ね備えた人々が居て、各地の地域経営に責任を持って任じていたのだが、そうした社会の仕組みを理解する頭を持たない若者が、連合軍最高指令部に付き従ってきて、「社会改革」と称してこれをブチ壊してしまった。何百年か続いていた社会機構が壊れたのに、誰もそれに気付かなかったのは、それが産業近代化・所得倍増に庶民が目を奪われている時代であったからだろう。こうしてそれまでは庄屋様が責任を持っていた、地域経営は近代産業化されていくのだが、そこにはそれまで有った「地域」という観点がすっぽりと抜け落ちている。それに代わって「まちづくり」なる言葉を行政担当者がばらまくのだが、地域経営に対する責任など、取るべき能力も権限もなく、時がくれば顔の変わってしまう行政担当者など、相手にするものはいない。

大学の独立行政法人化というのも明治政府が近代化のための緊急手段として整備した制度を近代化しようというのなのだろう。「学問は真理の探究」とは言うものの、探究者は面白いからやっているだけで、それが社会的・経済的に有意義なことであるかどうかには直接関わらない。そう言う点では、欧州近代のアカデミーも資産と能力を兼ね備えた「あそびにんの寄り合い」だっただろう。江戸の文化を作り上げたのもそうした「あそびにん」達であった。それが御一新と同時に高等游民は棄唾すべきものとなり、帝国大学が立身出世の手段となったのだが、その内容たるや「諸外国の優れた文物を移植する」という訳で、江戸時代に四書五経を読み下すことが立身出世であったのと変わらない。そうした東京帝国大学からは永久にノーベル賞は出ないと思っていたら、名誉教授が受賞ということで肝を抜かれたのだが、聞けば巨額の国費を使い、浜松市内の某光技術会社がおんぶにだっこで受賞に漕ぎ着けた、というので納得。これを改革しようというのだが、日本よりはちょっとは金勘定が阿漕なだけの「文化的開発途上国の制度」のまね、という連合軍最高指令部好みの、「社会改革」に終わりそうな気もして恐い。公設民営と称する市内某大学でも、自分の頭で考える能力に欠けた連中が、洋行で覚えた西部劇の薬売り宜しくやっていて、「あそびにん」に対するリスペクトが無いのではないかと心配だ。

さて一流の「あそび」の好きな「座主」はこのところ「近代日本という文化的発展途上国」を外から眺めようとしているらしい。「近代日本」を満州国から眺めたり、リトアニアから眺めたり、沖縄から眺めたりするのは、これを明治初年の隅田川の上から眺めたりするのと同様、結構面白い。

昭和初期の「軍部による本土の植民地化」「徳川幕府の崩壊」「田沼意次」と、近代日本の行政機構はほぼ60年程度で財政破たんを起こし、庶民を苦しめた上で、カタルシスを引き起こすのだが、21世紀初めの日本もそうした節目に巡り合わせているらしい。こうした乱世を乗り切るには、権限も能力もなく、時がくれば顔の変わってしまう行政担当者よりも「あそびにん」の眼力がますます重要となってくる。
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