去る12月19日、設計者である鈴木静一さんにお話を伺ってきた。
設計者に聞く
2002.12.19
鈴木静一さん
伝馬町共同ビルについて
- 耐火建築物促進法で昭和37年に峻工
- 最初に建ったのは田町のショッピングセンターだった。
- 竹下さん、相坂さんのお父さんが担当した。中村組も入っていた。
- 静岡県住宅供給公社が企画したと思う。詳しい資料は静岡に残っているのではないか。
- 融資等も銀行と直に、というのでなく、公社でやっていたと思う。
- 今でも年賀状が来る人がある。 山下正一さん
- 詳しいのは川島建設の大桑さん
- 構造は早稲田大学の蛭田先生と相談して竹下さんがやった。
- デザインには基本的には公社の意向があった。
- 東京からか、どこからか、コンサルタントが入っていたと思う。
- アルミの外層パネルがそれまでなかったものなので「アルミの弁当箱みたいだ。」と言われたことがある。
- 越川さん(丸三用品店)の奥さんの話だと昔は通りの向こう側へ二階から物干竿が届いたということだった。
- 何回か拡幅しているのだが、鍛冶町のあの通りと言うのは昔から北へ北へと拡幅してきたということ。
- 施主は各地に視察に行く等して勉強していた。
- 藤屋蕎麦
- カメラ屋
- キンパラ化粧品
- 丸三
- 木屋吉
- 材木店
- カメラ屋
- カメヤパン
など
- 入札は公社の指名競争入札なので、大手が来るということはなかった。
- 当時は空襲というか、火事で延焼しないで、死なずに助かるということを皆考えていてた。
- 今のように地震ということは思いもよらなかった。
- 私も6月18日の空襲に板屋町で遭っている。
- 帰るまでは国鉄で設計の仕事をしていた。
- 40年後どうなる、といことをちゃんと考えていた人はそう居なかったのではないか。
- 未来都市というとコルビジェの未来都市等が情報としては入っていた。
- 当時はおかしなことに仕事が有った。
- 停電が多いので炭鉱夫みたいなランプを頭に縛り付けて図面を引いていたことが有る。
続いて12月19日、地権者である丸三洋品店の越川さんにお話を伺ってきた。
地権者に聞く
2002.12.19
丸三洋品店
越川さん
伝馬町共同ビルについて
- 丸三呉服店は慶応3年創業、本店は田町秋葉鳥居東角にあった。(現あさひ銀行)
- 二代目が宮本甚七、後の甚七の言葉「これからは個店の時代ではなく、社会資本整備の時代になる、」
- 山本悌次郎という人は美術が好きで、岸田劉生などのパトロンであった。
戦前、岸田の麗子の絵が台所に飾ってあった。
- ぜんすけ、畑呉服店、長谷川ふとん店などにのれんを分けた。
- 当時は神明の坂から田町までが中心地だった。
- 弟が洋品部として現在地に開店したのは明治の中ごろ。
- 東海道鉄道開通だけでなく、鴨江にかけて浜松電灯などが並び、
- こちらが一等地になると読んだのではないか。
- 終戦の冬はここから汽車の走るのが見えた。富士山も見えた。
- 鍛冶町通りの変化は松菱が無くなったことに象徴されるのでは。
- 以前は松菱を中心にして人が集まった。バスを降りるのも松菱前というのが多かった。
- バス停が駅前に集中していなかったのは狭くて集められなかったから。
- 以前から鍛冶町通りは洋館が多かった。向いには4階建ての小谷さん(漆器店)馬の銅像が飾られていたこともある。
- 御幸通りと称したのは昭和5年に天皇行幸があり、拡副工事が行われたため。
- この時には南側を削った。
- それまでも駅に通ずる道はあったが、狭かった。
- 戦災復興でこちら側を削り、今度また南側を削って幅を広げたので、御幸通りという呼び方もされなくなった。
- 共同ビルは田町の方が早かった。平井さん、川合万年筆の会長が御詳しいのでは。
- 県住宅供給公社の、部長であったか、白鳥さんという方が尽力された。後に岡山県へ転勤された。
- 静岡市呉服町ー浜松市田町ー鍛冶町ー大工町と続いたように思う。
- 3階以上、奥行き6間までの鉄筋に補助が出た。
- 拡副工事も同時に行われた。それまでは現在の歩道から向こうには店があった。
- 地権者には
- 金融業の金原さん。「日本一の金貸になる」というようなしっかりした方。
現在でも「街が死んじゃいます。」というような都市経営の話を理解してくれる。
- 藤屋蕎麦店さん。現在でも2階に部屋を残しておられる。
一階には娘さんの家でブティックを出しておられる。
- たばこ屋さん。機料屋さんが本業の筈。浅羽の方。
- 外岡さん。区分所有で苦労された。
- 亀屋パンの平野さん。東北の人。この地方のパン屋さんの草分け。
- 丸三。
- 父が繁栄会の会長をしていたが、過労で倒れ、卒業と共に呼び戻された。
戦災の後には材料を集めて自分でバラックを建ててしまった。
それに2600円バラックというのを足して営業をした。そういう時代だった。
- 田町のショッピングセンターがライバルだった。
- 県の工事、ということでスムーズに建設された。
- 白鳥さんと組んだのが西田助役。自治省から来た人。
- 滞納で苦労したが、10年で完済出来た。
- 親睦会をかねて見学に廻ったこともある。
- 東京駅周辺、銀座などでアルミの外装材を見て「新式で良い」ということになった。現在でも支障はない。
- 裏側はスティールサッシなので錆びてコンクリートが膨れてきている。
- 現在でも構造自体に支障はない。商店なので間口9mの店の中に柱が出ないように、という注文を聞いてもらった。
- 地盤が下がり、床スラブ下に隙間が出来ているようだ。
- 設備には手を入れている。ガスが恐いので電化、地下受水槽を屋外タンクへ、など。
- 最も栄えたのは昭和30年代後半と40年代前半ではないだろうか。
- 現在では自家用車の利用が増えて昔のように「浜松へ買い物に、」ということも無くなった。特に浜松では店の前に駐車しにくい、というのは致命的だった。
- 肴町に出来なかったか、とも思う。家康公免許の魚市場だったのだから。
- 静岡に比べて市街地が広すぎる、というのも中心市街地に人が集まらなくなったたんではないか。
- 学者は200万人商圏ということを浜松に当てはめようとするが、私達は20万人と考えてやってきた。その点静岡の方がうまくいっているのでは。
- 松菱の谷さんは浜松を知る最後のあきんど、と思う。松菱であれば高齢者が入ることが出来た。お鴨江などでも現在では高齢者が歩ける街がない。
- 西武デパートによる変化は道によって向こうとこちらが隔てられてしまった、という感じ。
- 繁栄会で調べたら通行量が向こう側5万人に対してこちら側3000人ということもあった。
- 「カミサンは西武にいったからオレはこっちへ来た。」という方も。
- ザザシティーにしても「駐車場ー売り場ー駐車場」という人の動きしかなく、賑わいが外に出ない。
- 鍛冶街通りで特筆すべきはアーケードを商店主導で作ったこと。補助金システムも市役所に新しいものにしてもらった。田町のアーケードは多車線化に際して行政がやったもの。
- 大型店、郊外店、量販店、自家用車の普及、通信販売、インターネット販売、といったものは40年前には想像できなかった。
- 鍛冶町通りの将来は「無い」と思う。
- 行政のイヴェントなど見ても商店街に「おしり」を向けているなど、「ヘタ」である。旨く行きそうも無い。
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