地域情報誌「ami」11号(2004.1)へ掲載


萬延元年、四月、長五還願ノ事アリ、石松ヲシテ刀一口ヲ齊ラシ、之ヲ金比羅ニ賽ラシム、石松讃峡ニ至リ、事ヲ詑テ回リ、近江ニ過キリ、見受山鎌太郎ヲ訪フ、鎌大、長五ノ亡妻ノ爲メニ、銀二十五両ヲ奠ス、石松之ヲ受テ去リ、遠江ニ至リ、中郡ニ常吉ヲ訪フ、常吉兄アリ吉兵衛ト云フ、弟アリ梅吉ト云フ、其父源八、任侠ヲ以テ聞フ、三子皆父ノ遺業ヲ續ク、人故に其名ヲ冠シ、呼テ源八ノ某ト称ス、并ニ石松卜知友タリ、是ヨリ先キ、吉兵駿河ニ來リ、長五ノ家ニ客タリ、而シテ富嶋ノ年蔵等ト加嶋ニ下役ヲ斬リ、走テ其國ニ歸ル、偶々石松ノ來ルニ曾フ、吉兵、石松ノ典奠ヲ齊スヲ知リ、二弟ト之ヲ借ラント乞フ、石松辞シテ曰、是レ此ノ奠物、如何ソ之ヲ流用センヤ、若シ差失アル、我ソ何ノ辞カ歸リ老爺ニ見へンヤ、特ニ請フ之ヲ察セヨ、吉兵日、我レ急事アリ、計畫ニ暇ナシ、如今幸ニ汝ノ來ルニ曾フ、乃チ恥ヲ忍テ之ヲ求ム、汝若シ聽カサレハ、我レ其ノ知己タル所以ヲ知ラス、、、

遠州で有名な「石」の筆頭株、と言えば「森の石松」にとどめをさすのではないでしょうか。「縞の合羽に三度笠」という股旅ルックの元祖ですが、三度笠はともかく、あの「縞の合羽」はどこで手に入れたのでしょう。

原本は明治17年に刊行された「東海遊侠伝」です。著者山本鐵眉は磐城の人で本名天田五郎、戊辰戦争で孤児となり、全国をさまよった末に山本長五郎に拾われたそうです。森の石松の件、原文は左のようなものです。

これがこのままであったら普通の人にはチンプンカンプンで、一部趣味人の知るだけのものに終わっていたでしょう。ところが明治40年には神田伯山によってこれが講談に仕立てられて好評を博し、大正末年には松竹映画の大ヒットとなって今に伝わっています。ところで「次郎長物語」では小松村の村はずれの閻魔堂で、森の石松を騙し討ちに殺してしまうのも、都田村の吉兵衛ですが、森の石松も遠州森町の出身であり、他の登場人物にも・大瀬の半五郎・小松の七五郎といった、脇往還沿いの人物が多く出て来ます。単に次郎長一家が臑に傷を持つ「渡世人」であり、天下の東海道など歩くわけにはいかない。とも考えられますが、安藤広重の「東海道五十三次」でも、「○○宿本陣の図」なんて言うのは見当たらず、峠の景色であったり、川越えの図であったり、浜松では遠くに城を眺めながら、木の下で人々がたき火に当っていたりと、五十三次とは言いつつ、宿場の情景を描いたものは限られています。

どうも今の我々が東海道だと思っている「旧東海道往還」は、「武家の東海道」であり、その宿場も大名行列と言う公共事業のためのものだった為ではないでしょうか。公務出張の手形を持ったお侍ならいざ知らず、素ッ町人が泊まるには敷居が高かったのかも知れません。もともと「参勤交代」は「征夷大将軍の幕府」つまり「東北原住民討伐作戦前線総指令部」への勤務交代のために、完全軍装で行軍訓練をしながら移動する、というものであり、五街道もそのための軍用道路でした。大名行列の直前横断は切り捨て御免であり、幕末にはこれを知らない英国人が馬に乗ったまま向こうから来る薩摩公の行列を眺めていて、薩摩藩士に切り殺される、と言う事件が起こり、外交問題に発展しました。

現代の我々の感覚は、江戸時代で言えば日本人よりも、異人さんに近いのかも知れません。元を辿れば奈良時代にはこれがもっと制度として完備しており、我々が東海道だと思っている「駅路」は歩兵部隊の行軍用道路であり、伝令が走る情報ルートとしてはこれと別に「伝路」が定められていたそうです。

こう考えると「次郎長物語」の登場人物が脇往還の出であることにも納得が行きます。「脇往還」の方が庶民にとってはなじみの深いものであり、講談を聞く明治以降の庶民にとっても想像しやすかったのではないでしょうか。現代人にとっても「住所不定」というのはうさん臭い雰囲気を持っていますが、江戸時代には「無宿人」は戸籍を失うことを意味していました。それでもなお幕末混乱期から明治・大正・昭和に至るまで、「旅人-たびにん」「無宿人」が人気を持ったのは、戸籍で土地に縛り付けられていた封建制度から解き放たれた、自由な都市民の姿に人々が憧れたからだと思います。そうした旅人にとっては脇往還の方が東海道だったのではないでしょうか。



旧笠井郵便局



南から笠井街道を望む



街道沿いの民家



街道沿いの民家



街道沿いの民家



街道沿いの民家

そうした脇往還の中心地の一つが、遠州では笠井です。平安時代に東海道と信州街道の交差点であった市野は稲作地帯であり、年貢を中心とした「真面目な」経営で成り立っていたのに対し、年貢の多く望めない畑作地帯の、集荷地である笠井では市が栄えました。年貢に依存した幕府の財政が、赤字によって崩壊しつつあった幕末、年貢が出せないためにひと足早く貨幣経済に進んでいたのが、当時の笠井だったようです。

笠井は東海道の脇往還にあるだけでなく、信州街道の入り口にも当ります。そこには信心から伊勢・豊川・秋葉山へ向かう人々に、農村あるいは都市から食い詰めて「旅人」と化した浪曲の主人公も混じっていたはずです。脚で歩くしかない時代の「旅」ですから、今ならヒッチハイクなどして世界を廻ってしまう「電波少年」と同じノリの若者も混じっていたかも知れません。股旅ファッションである「縞の合羽に三度笠」という、あの縞の合羽はどこであつらえたかというと、笠井の市で仕入れた、と考えると辻褄が合います。

「浜松まちづくりセンター」が呼び掛けた、浜松市周辺の歴史的なまちなみのデザインサーベイに建築士会・都市計画協会の浜松支部が参加して笠井の調査を行っています。笠井街道のバイパスが完成すると、まちなみを取り巻く環境が大きく変わりそうで、これからの町並みを考える参考として役立ててもらえるのではないか、というのが笠井を取り上げた理由です。現在かなりの交通量のある笠井の本通ですが、町はずれには新しいコンビニなどが建てられているものの、上・中・下という中心部には昭和30-40年代の建物が数多く残されています。「となりのトトロ」の背景に描かれていた「トトロの森」と同じ時代の町並みがそのまま残っているのですね。これは「トトロの町」と呼んでも良いのではないかと思います。

車を避けながらもう少し良く見ると古い建物もあちこちに残っています。明治初期、「浜松田町・笠井町・掛塚町の地価が同じだった。」という頃に建てられたものも混じっています。東海道筋同様、重厚な出桁のファサードがある一方、かっては板葺きだったと思われる軒を深く出した建物には、大平宿などと同じ伊那谷の民家の匂いもします。「筏の衆は筏に自転車を積んでいて、それで笠井街道を帰っただね。観音様の裏に水商売の家もあって、鯉なんか御馳走だった。鯉こくちゅうのは信州のもんだね。」というわけで笠井街道は福田-森-秋葉山の道と同様、東海道筋と信州を結ぶ街道であったことが伺えます。

1845年には浜松へ、関東平野の繊維流通の中心であった館林から、井上正春が領主として移封され、それまであった遠州木綿に先進地の技術を付け加えて、飛躍的な発展を遂げたのだそうです。この時代、脇往還の市場として栄えていた笠井は、程なく遠州綿業の中心となりました。というわけで「次郎長一家」の面々が引っ掛けていた「縞の合羽」は「笠井の市」で仕入れた「河西縞」ではなかったかと思われるのです。

そうした「笠井の市」の一人勝ちする条件が変わってしまったのは、明治23年の東海道鉄道の開業でした。最初は旅籠の旦那衆が迷惑がった岡蒸汽でしたが、文明の利器が走り出すのを実際に目で見ると、人々はたちまちその魅力に取り付かれてしまいました。

明治42年に開通した遠州鉄道西鹿島線の西ケ崎駅から、大正3年には笠井までの支線が接続しましたが、その頃にはすでに遠州木綿は笠井の市ではなく、浜松駅に集合して汽車に乗り、全国へと販路を広げていました。

現在の笠井本通に見られる建物は「縞の合羽に三度笠」の時代の、脇往還にあって遠州縞の中心地であった笠井の繁栄の名残りである建物と、昭和20年代の「ガチャマンの時代」の賑わいを思い出させる昭和30年代の店構えですが、「ガチャマンの時代」にはすでに中心は笠井の市から浜松駅へと移っていた、とも言えるでしょう。

笠井の町を歩いた後で、地域産業史の原典とも言える「遠州織物史稿」(中村又七/遠州織物史稿刊行会 /昭和41年3月1日)を読み返してみて面白いことに気付きました。同書には

「時偶大正5年9月、欧州大戦の影響を受けて、織物界は空前のパニックに逢着し、全国機業地は相次いで休業し、-- 」

とあるのですが、欧州大戦の後でヨーロッパの繊維産業は壊滅し、作れば輸出できる、という状況だけならパニックに陥る必要は有りません。不思議に思って年表を繰ってみると、大正5年9月1日には「我国初の労働法である「工場法」が施行」とあります。つまり関東・関西の伝統的な産地では、前提としていた伝統的な労働慣行が非合法化されて、立ち止まってしまったのと対照的に、遠州地方は後発産地であったために機械化が進んでおり、その名も「工場」法に順応できた、ということだと思います。そして言うまでもなく3年後の同月同日、午前11時58分に起こった地震により、関東の機業地は、

「大正11年は館林織物の全盛期と思われ、組合員845名、生産数量242万反が記録されている。しかし関東大震災を境に35,000台あった織機も1万数千台と減少していった。」
 (群馬県繊維工業試験場 館林織物の由来より)

というわけで、浜松の近代産業の発展にも、たまたま・偶然が幸いしている部分がありそうです。いままではラッキーだったものの、東海大地震が起こるとして、対応を誤れば影響は未来の浜松の運命を永久に変えてしまう事にもなりかねません。


まちなみの一部