そうした脇往還の中心地の一つが、遠州では笠井です。平安時代に東海道と信州街道の交差点であった市野は稲作地帯であり、年貢を中心とした「真面目な」経営で成り立っていたのに対し、年貢の多く望めない畑作地帯の、集荷地である笠井では市が栄えました。年貢に依存した幕府の財政が、赤字によって崩壊しつつあった幕末、年貢が出せないためにひと足早く貨幣経済に進んでいたのが、当時の笠井だったようです。
笠井は東海道の脇往還にあるだけでなく、信州街道の入り口にも当ります。そこには信心から伊勢・豊川・秋葉山へ向かう人々に、農村あるいは都市から食い詰めて「旅人」と化した浪曲の主人公も混じっていたはずです。脚で歩くしかない時代の「旅」ですから、今ならヒッチハイクなどして世界を廻ってしまう「電波少年」と同じノリの若者も混じっていたかも知れません。股旅ファッションである「縞の合羽に三度笠」という、あの縞の合羽はどこであつらえたかというと、笠井の市で仕入れた、と考えると辻褄が合います。
「浜松まちづくりセンター」が呼び掛けた、浜松市周辺の歴史的なまちなみのデザインサーベイに建築士会・都市計画協会の浜松支部が参加して笠井の調査を行っています。笠井街道のバイパスが完成すると、まちなみを取り巻く環境が大きく変わりそうで、これからの町並みを考える参考として役立ててもらえるのではないか、というのが笠井を取り上げた理由です。現在かなりの交通量のある笠井の本通ですが、町はずれには新しいコンビニなどが建てられているものの、上・中・下という中心部には昭和30-40年代の建物が数多く残されています。「となりのトトロ」の背景に描かれていた「トトロの森」と同じ時代の町並みがそのまま残っているのですね。これは「トトロの町」と呼んでも良いのではないかと思います。
車を避けながらもう少し良く見ると古い建物もあちこちに残っています。明治初期、「浜松田町・笠井町・掛塚町の地価が同じだった。」という頃に建てられたものも混じっています。東海道筋同様、重厚な出桁のファサードがある一方、かっては板葺きだったと思われる軒を深く出した建物には、大平宿などと同じ伊那谷の民家の匂いもします。「筏の衆は筏に自転車を積んでいて、それで笠井街道を帰っただね。観音様の裏に水商売の家もあって、鯉なんか御馳走だった。鯉こくちゅうのは信州のもんだね。」というわけで笠井街道は福田-森-秋葉山の道と同様、東海道筋と信州を結ぶ街道であったことが伺えます。
1845年には浜松へ、関東平野の繊維流通の中心であった館林から、井上正春が領主として移封され、それまであった遠州木綿に先進地の技術を付け加えて、飛躍的な発展を遂げたのだそうです。この時代、脇往還の市場として栄えていた笠井は、程なく遠州綿業の中心となりました。というわけで「次郎長一家」の面々が引っ掛けていた「縞の合羽」は「笠井の市」で仕入れた「河西縞」ではなかったかと思われるのです。
そうした「笠井の市」の一人勝ちする条件が変わってしまったのは、明治23年の東海道鉄道の開業でした。最初は旅籠の旦那衆が迷惑がった岡蒸汽でしたが、文明の利器が走り出すのを実際に目で見ると、人々はたちまちその魅力に取り付かれてしまいました。
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