三遠南信の「花」というと「花の舞」かと思いますが、私は全くの門外漢で、誰かに教えていただきたいことがいくつかあります。「花の舞」の花は何の花なのか、なぜ花の季節とは思われない初冬なのかなどです。「花の舞」いの「花」は米のことだ、という説があるようで、これなど「花の舞酒造」さんが採りそうな話ですが、だとすればこの地域の焼畑の民俗との関係はどうなのか、「花の風車」というと沖縄のものを思い浮かべますが、風車のデザインが花の形になるのは自然なことで、地域の「風車」と「花の舞」の民俗的な関係はどうなのか、など興味は尽きません。誰か教えて下さい。
さて美しい花、愛でる人の心も美しいのでありますが、往々にしてこれが横へそれてしまうことがあります。「花より団子」であるとか、物言わぬ花より話す花、歩く花の方が好いとか、花はともかく、花見となるともうイケマセン。山へ分け入ると屋敷の端に桜の古木が天を突いていたりして、さぞ花時には美しかろうと思うのですが、そんな山奥で一本きりの姥桜を見たって面白くない、もっと豪華にやろうぜ、というわけで然るべき場所を探し、朝から新入社員を派遣してゴザの番をさせ、酒食の他に発電機とカラオケマシンを持ち込み、日が傾くと話す花、歩く花、そのうち大虎と化す花を引き連れての無礼講となるのであります。浜松の場合はこれに大日本帝国陸軍ラッパ卒木口小平氏の後継者がうろつくもんだから近隣住民はたまったものではありません。
一月程上の空で歓送迎会を送った後、浜松市周辺は再び「起床」「召集」から「解散」「就寝」まで大日本帝国陸軍のラッパによって規律正しき生活を送ることになるのですが、軟弱な私など、祭りの喧噪をさけて連休に「遠州七不思議」の「京丸牡丹」ではないかという岩岳山のヤシオを見に行ったことがありました。片道2時間程の山頂に突然姿を現す満開の花の森には「桃源郷」の趣がありますが、今は車で入れる林道の突き当たりまで、道も車も無い昔には幾日かかったか知れません。遠くから見ると幽かに見えるが、とても近くまでは行くことが出来ない、高嶺の花だからこそ価値があり、伝説となって遠目に見える通り「一つの花が四畳半程もあるそうだ。」「昔川を流れてきた花びらは3尺四方程だった。」という尾ひれが付いたのでしょう。軟弱な現代人にとっては片道2時間という、昔の人にとっては笑い話みたいな山道がちょうど有り難く、頂上までスーパー林道が出来て、花の下にタコヤキとビールの売店が出来てしまったらおしまいだと思います。
「花」を歌え、となると「春のうららの隅田川」という歌詞が思い浮かびますが、ここで歌われているのは隅田川の土手の桜の情景である様です。上野・飛鳥山などの山と同時に墨堤・玉川上水といった水辺が伝統的な江戸っ子のリゾートでした。水辺といってもここでは「河原」というより「土手」という趣です。墨田川の河原というよりは隅田川の土手。浜松近辺でも「河原」よりも「土手」の方が生活に身近なものであったようです。再度森の石松の行動を観察してみましょう。
文久二年の六月十六日の昼頃、炎天燃えるような暑さ。遠州中の町在、小松村と都田村の間に挟まる用水堀。今日は日が長いから、鮒が釣れるてんでもう用水堀は鮒釣りで一杯、、、そこへやって来たのは清水一家の森の石松。
水田稲作地帯ならどこにでもある用水堀が、つい昨日までの日本では最も身近なウォーターフロントでした。現在の我々はちょっと想像しにくいのですが、その理由の一つは当時の水面が現在に較べると驚く程生活空間から近いところにあった、という点です。現在の道路側溝に近い、人が歩く地面から1mも下がらないところに水が流れていることが普通に見られた様です。工夫すればそこから庭の池に水を引き、ふたたび水下に流す、ということが可能な高さです。土手にはさまざまな種類の微生物から植物・昆虫・小動物までが豊富に生息していて、「三尺下がれば水清」かったのです。降った雨はあちらに溜まり、こちらに溜まりしながらゆっくりと流れ、同じ水がいくたびもくり返し人に使われながら下流へと下りました。
そうした「用水堀」の面影を残す農業用水路が、実は浜松市の中心部にも残されています。現在ではほとんど水が流れることが無いままに打ち捨てられた姿をしていますが、浅間小学校南にわずかではあるものの、水田が残されていて、田植えの頃には豊かに水をたたえて健在な姿を見せてくれます。この水路を辿ってゆくと、実は先端は東海道本線と東海道新幹線の高架の間まで達していることが分かります。今はゴミ置き場のようになっていますが、きれいに片付けて高架の下には小公園でも作れば素敵な親水施設になるのだが、と思います。江戸時代にはここから東へは松菱裏の新川まで掘りが通じ、片方は東伊場のサンピア南にあたる別の新川へと通じて浜松宿の外側を巡る「要害掘」となっていました。
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