地域情報誌「ami」12号(2004.4)へ掲載




岩岳山頂のヤシオの原生林。この辺りは保護区域になっているのですが、下の方で杉の皆伐をやったら保護区域のすぐ下の栂の林で栂の原生林が立ったまま枯れて白骨化しているのがちょっと心配です。





小金井の夜桜
川瀬巴水/昭和11年/渡邊木版画舗





明治40年の浜松市近郊。多分橋羽村(今の天竜川町)だと思われます。



浅田付近の用水堀。水があるとけっこう様になります。



これも浅田町付近。カヤツリグサ?



用水堀の終点。きれいにして水のミニパークなんちゃって。



井之田堀の松並木。数年前まで残っていました。



馬込川と新川の合流点。堂々たる水郷の趣です。

三遠南信の「花」というと「花の舞」かと思いますが、私は全くの門外漢で、誰かに教えていただきたいことがいくつかあります。「花の舞」の花は何の花なのか、なぜ花の季節とは思われない初冬なのかなどです。「花の舞」いの「花」は米のことだ、という説があるようで、これなど「花の舞酒造」さんが採りそうな話ですが、だとすればこの地域の焼畑の民俗との関係はどうなのか、「花の風車」というと沖縄のものを思い浮かべますが、風車のデザインが花の形になるのは自然なことで、地域の「風車」と「花の舞」の民俗的な関係はどうなのか、など興味は尽きません。誰か教えて下さい。

さて美しい花、愛でる人の心も美しいのでありますが、往々にしてこれが横へそれてしまうことがあります。「花より団子」であるとか、物言わぬ花より話す花、歩く花の方が好いとか、花はともかく、花見となるともうイケマセン。山へ分け入ると屋敷の端に桜の古木が天を突いていたりして、さぞ花時には美しかろうと思うのですが、そんな山奥で一本きりの姥桜を見たって面白くない、もっと豪華にやろうぜ、というわけで然るべき場所を探し、朝から新入社員を派遣してゴザの番をさせ、酒食の他に発電機とカラオケマシンを持ち込み、日が傾くと話す花、歩く花、そのうち大虎と化す花を引き連れての無礼講となるのであります。浜松の場合はこれに大日本帝国陸軍ラッパ卒木口小平氏の後継者がうろつくもんだから近隣住民はたまったものではありません。

一月程上の空で歓送迎会を送った後、浜松市周辺は再び「起床」「召集」から「解散」「就寝」まで大日本帝国陸軍のラッパによって規律正しき生活を送ることになるのですが、軟弱な私など、祭りの喧噪をさけて連休に「遠州七不思議」の「京丸牡丹」ではないかという岩岳山のヤシオを見に行ったことがありました。片道2時間程の山頂に突然姿を現す満開の花の森には「桃源郷」の趣がありますが、今は車で入れる林道の突き当たりまで、道も車も無い昔には幾日かかったか知れません。遠くから見ると幽かに見えるが、とても近くまでは行くことが出来ない、高嶺の花だからこそ価値があり、伝説となって遠目に見える通り「一つの花が四畳半程もあるそうだ。」「昔川を流れてきた花びらは3尺四方程だった。」という尾ひれが付いたのでしょう。軟弱な現代人にとっては片道2時間という、昔の人にとっては笑い話みたいな山道がちょうど有り難く、頂上までスーパー林道が出来て、花の下にタコヤキとビールの売店が出来てしまったらおしまいだと思います。

 「花」を歌え、となると「春のうららの隅田川」という歌詞が思い浮かびますが、ここで歌われているのは隅田川の土手の桜の情景である様です。上野・飛鳥山などの山と同時に墨堤・玉川上水といった水辺が伝統的な江戸っ子のリゾートでした。水辺といってもここでは「河原」というより「土手」という趣です。墨田川の河原というよりは隅田川の土手。浜松近辺でも「河原」よりも「土手」の方が生活に身近なものであったようです。再度森の石松の行動を観察してみましょう。

文久二年の六月十六日の昼頃、炎天燃えるような暑さ。遠州中の町在、小松村と都田村の間に挟まる用水堀。今日は日が長いから、鮒が釣れるてんでもう用水堀は鮒釣りで一杯、、、そこへやって来たのは清水一家の森の石松。

水田稲作地帯ならどこにでもある用水堀が、つい昨日までの日本では最も身近なウォーターフロントでした。現在の我々はちょっと想像しにくいのですが、その理由の一つは当時の水面が現在に較べると驚く程生活空間から近いところにあった、という点です。現在の道路側溝に近い、人が歩く地面から1mも下がらないところに水が流れていることが普通に見られた様です。工夫すればそこから庭の池に水を引き、ふたたび水下に流す、ということが可能な高さです。土手にはさまざまな種類の微生物から植物・昆虫・小動物までが豊富に生息していて、「三尺下がれば水清」かったのです。降った雨はあちらに溜まり、こちらに溜まりしながらゆっくりと流れ、同じ水がいくたびもくり返し人に使われながら下流へと下りました。 そうした「用水堀」の面影を残す農業用水路が、実は浜松市の中心部にも残されています。現在ではほとんど水が流れることが無いままに打ち捨てられた姿をしていますが、浅間小学校南にわずかではあるものの、水田が残されていて、田植えの頃には豊かに水をたたえて健在な姿を見せてくれます。この水路を辿ってゆくと、実は先端は東海道本線と東海道新幹線の高架の間まで達していることが分かります。今はゴミ置き場のようになっていますが、きれいに片付けて高架の下には小公園でも作れば素敵な親水施設になるのだが、と思います。江戸時代にはここから東へは松菱裏の新川まで掘りが通じ、片方は東伊場のサンピア南にあたる別の新川へと通じて浜松宿の外側を巡る「要害掘」となっていました。

そうした「用水堀」の姿が変わり始めたのは明治以降のことです。御一新を迎えて、浜松藩が取り組んだのは「新交通システム」でした。東伊場船溜まりから新川を経て鷲津日ノ岡まで、新式の汽船が通れる様、「用水堀」を掘り広げるという画期的なものでした。この井之田堀の通船は、政府の鉄道計画が木曽の御岳山中で挫折してしまわず、東海道鉄道が作られなければ長く使われたことと思います。しかし十年ちょっとの後、突然天から降ってきた岡蒸気は井之田通船をひき殺してしまっただけで無く、浜松地方の産業を大きく変えてゆきました。市内にはり巡らされていた「用水堀」は農業用水から工業用水へと役割を変えて繊維始め様々な産業の発展の元となりましたが、物資輸送路としての水路はすでに過去のものとなったのです。井之田堀沿いには数年前まで当時植えられた松の並木が見事に残っていたのですが、何せ当地は「後ろを振り返らない」土地柄なので、、。現在も馬込川から新川が別れるところには当時の面影をしのばせる屋敷が残っていますが、戦前までは和船を通す水路はあちこちを結んでおり、嵐で流された舞阪の漁師が掛塚港から船を漕いで「元太夫掘を上って若林から新川へ入り、入野・雄踏を回って舞阪へ帰った。」そうで、浜松も結構な水郷なのです。汽船を使った水上輸送が最後まで残っていたのは浜名湖の「巡航船」でしたが、これも自家用車の普及とともに姿を消しました。ところが米国では交通渋滞がひどくなると共に通勤用の「渡し船」が見直されています。シアトル、サンフランシスコ、ニューヨークなど、水辺に面した大都市では競って通勤用のフェリーボートを都心の渋滞緩和の切り札として整備しているのです。そんな話を浜名湖で水産業に従事する方にしたら、「それはあるかも知れない」とのことでした。三ヶ日から弁天島まで車だと45分かかるのが、漁船の早いものだと15分ぐらいで付くのだそうです。舞阪駅周辺など、通勤車を駐車場において電車に乗り換えるというパークアンドライドの話が出ていますが。これとフェリーボートを結び付ける、というのもあるかも知れません。

「用水堀」の姿が変わったのは交通システムの変化にもよりますが、「土手」そのものの変化によるところが大きい様です。江戸というと掘り割りの水に三味線が響いて、という浜町・柳橋でなければ深川など隅田川東岸となるのでしょうが、このあたり特に田んぼを埋め立てて出来た新開地は、数年に一度は豪雨で水に漬かる、という土地柄でもありました。で、これはいかんと、西洋伝来の新技術で近代的な立派な町にしようと100年以上かけて地面をかさ上げし、堤防を高くしてきたわけですが、そのせいで水面は生活からどんどん遠くへ離れていってしまいました。夜目遠目に汚いものは見えないの原理で、川が汚れるのを気にする人も減ってしまったのです。水が生活から離れれば、いつしか水とつきあう方法も忘れられてしまいます。水の恐さを子供うちに教えられることも無く大人になる人が増えれば、分別無く「水は恐いものだ」と決めつけ、事故を防ぐために金網で囲ってしまう、ということが横行し、水はますます人目から遠いものになってしまいます。それではさびしい、となると人に見せる目的で、そこだけその為に水を流す、ということまで行われるようになりましたが、これなどかって都市と農村を貫いて流れ、血液のような役割を果たしていた水とは似ても似つかないものだとも言えるのでは無いでしょうか。井之田は開削に功のあった井上延陵・田村弘蔵の名を冠したもの、とされますが、同時に東伊場船溜まりのあたりは古来、郊外の沢村同様、三方原の伏流水が湧き水となって地上に姿を現すところで、水の神である賀茂神社が祀られたところでもあります。伊場もあるいは井場であるのかもしれません。我が国国学の四大人である賀茂県主は「眞淵」と号しましたが、社前に湧き出てて淵をなしていた三方原の伏流水がただの溜まり水となり、清き井之田の湧き水を集める堀がドブドロと化したままでは、我が国の将来もちょっと心配なのであります。

何故そうなってしまったかというと、近代化に際してお手本とした西洋の川は「排水路」でしか無いのですね。水田というものが無いため、同じ水をくり返して使う、という発想がかの地には無く、川は汚いものを流すところだったのです。花の都パリの下水道も、終末処理場が整備されたのはごく最近のことで、長くセーヌ川に垂れ流しだったそうで、18世紀、ベルサイユ宮殿にトイレが無かった頃には、出入り業者が処理を引き受けていた貴族はともかく、一般大衆は夜のうちにオマルにたまったものをそのまま道路側溝に流していたのだそうです。行儀の悪いやつは2階から道にあけるやつもいるので、朝の早い職人が道を歩くには頭上に気をつけなけれなばならない、という有り様だった様で、16世紀既に都市住民の生産物を畑にリサイクルし、農産物の収量を倍近くに引き上げたという当時の我が国先進技術とは偉い違いです。先年、多自然型河川技術の先端情報を拝聴しようというわけで、ドイツから講師を招いての講演があり、県・市の河川関係の専門家も呼ばれていたのですが、英国などと違って植民地が無いため、国内農地開発の為にコンクリート貼りの農業用水で固めてしまったものを壊して、柳を使った護岸技術を開発している、という話を河川の専門科は釈迦がキリストの説法を聞くような顔をして聞いていました。柳を護岸に使う技術は伝統技術として我が国では常識でありましたし、竹で篭を作り玉石を詰めて水制に使うというのも、竹の無いドイツなどから見れば、垂涎の多自然工法なのでしょう。我々の世代までは季節になって飲屋で鮎の塩焼きを食べようと思うと、この蛇篭の作り物が飾り付けてあり、蛇篭を見ると山間の清流を連想する、という仕組みになっているのですが、川というとコンクリート貼りのドブだと思っってしまう日本人をつくり出しているとすれば、われわれの責任でもありましょう。

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