「村の鍛冶屋」という唱歌が有るのですが、私はいつからかこの歌の題名を「森の鍛冶屋」だと記憶していました。小学校の教科書の挿絵に森で囲まれた村の絵が載っていたからか、親爺が聞いていた広沢寅造の「次郎長物語」に出てくる「関八州鋳物師の鑑札はこっから出るんでいっ。」という森の石松の啖呵を聞きかじっていたのか、その両方かです。石松の啖呵は誇大広告ぎみですが、遠州森町の金守神社は徳川家康から 「駿遠両国鋳物師惣大工職」の朱印を受けた山田七郎左衛門に縁があるとすれば、まるっきり嘘ではないのです(「 遠州産業文化史」浜松史跡顕彰会/昭和52年5月)。遠州森町は信州街道の一つであり、秋葉詣での宿場だった、といわれますが、火伏の神様として人々を引き付けている秋葉山は、かっては「鍛冶屋の神様」と「火伏の神様」がセットになっていたとも考えることができるのではないでしょうか。
今では秋葉山が火伏の神様の筆頭のように言われますが、これは徳川家康が江戸城を築いてすぐに、秋葉山三尺坊大権現が江戸城上空に出現し御神託があったから、ということのようです。現在の秋葉神社上社社頭からは遠州灘が一望でき、秋葉山のかがり火が遠州灘を行き交う船の航海標識であったことも伺えます。太田川河口の福田湊から秋葉山を経て信州に至る道は「塩の道」とも呼ばれていますが、山麓の遠州森町の鎮守が「航海の神様」である三島神社であるところをみると、古い時代から沖を行く船のための灯明台だったのかも知れません。おそらくそうした立地から現在の秋葉山が火伏の神様を祀るところとされたのでしょう。そして秋葉山以前の火伏の神が京都では「愛宕神社」だと聞くと、どうしても「愛宕」に引っ掛かってしまいます。現在「阿多古」の字を当てている天竜市の阿多古川ですが、三尺坊大権現が江戸城上空に出現し、秋葉山が徳川家の尊崇を受ける以前に、阿多古川筋に火伏の神が祀られていたことはなかっただろうか、という点です。そして火伏の神ということでは真面目に年貢を納める人々の竈の護り、という以上に火を使う職業に携わる人々の存在を思い浮かべてしまうのです。
阿多古川をたどり、熊まで行ってみました。車で行けばすぐなのですが、途中の深く切れ込んだ谷筋の姿を見ると、脚で山道を踏み越えて行くしかなかった時代には、下の人間には容易に近付くことが出来なかった場所だろうことが想像されます。ところが熊に近付くと谷が柔らかくなって「山里」が姿を現わします。平安時代に下流の平野部分で広い範囲にわたり国家事業としての条里制に基づく水田が整備され、年貢が定められて人々の暮らしが年貢の上に作り上げられるよりも前、自給自足によって暮らしを成り立たせるのが普通の暮らしだった時代には、こうした山里の方が豊かな暮らしを実現する近道だったのかも知れません。途中で現在の街道をそれて尾根筋に上がると、「大栗安の棚田」がありますが、山並の向こうに下界を見下ろしつつ、「空中の水田」が拡がる様は「桃源郷」という言葉を実感させてくれます。
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