地域情報誌「ami」14号(2004.10)へ掲載




天竜市大栗安の棚田。下流の条理制時代からの水田よりもひょっとするとこういう田んぼの方が古いのかもしれない。








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「里」という言葉がどう使われているかと見ると「お里が知れる」「夏休みに里へ帰った。」などという時には、生まれてから成人するまで、女性では結婚するまで住んでいた所、という程の意味でしょうか。「山里」「里山」という様に「山」と対になっている時もありますが、この場合の山には「山から里へ降りて来て里人に悪さを、、、」という様に人外魔境のような響きがあります。してみると里というのは「普通の人が住んでいる所」ということもできるでしょう。里に住んでいる普通の人でない人には鬼、鬼婆などの他にも「役の行者」を始めとする修行者などが含まれるでしょう。「さと」という訓に朝鮮半島・中国大陸などで行政単位として使われていそうな「里」という漢字が当てられたことからすれば、「社会の一員として認められた人々」が住む所が「里」なのかも知れません。遠州地方でも平安時代には広い範囲にわたって条里制が整備されたことが知られていますが、条里制の下では「年貢をおさめる」人々が里人であったといっても良いでしょう。「山里」はそうした年貢を納める人々と、それ以外の人々との交流の場、と言うこともできるのではないでしょうか。

真面目に年貢を納める人々の記録は良く残っており、長く歴史研究の対象とされて来たのですが、最近になって年貢の記録を中心とした人々以外の歴史に光が当てられようとしています。例えば宮崎駿さんのアニメーションでは「たたら衆」が取り上げられていましたが、山中の里人の知らない所にたたらを築いて鉄など金属の精錬を行い、やがてたたらを崩すと知られないままに姿を消してしまう「たたら衆」のような人々が、平安時代以降も長く有ったことが知られて来ました。「役の行者」のような修行者には里人の及びもつかないような超能力を持つ人々がいた様ですが、「たたら衆」のような鍛冶族にも西洋で言う「錬金術師」のような常人の想像を超えた力が有った様です。古代の人々が「神が宿る」「魔力のこもる」ものと考えていた鏡や刀をつくり出したのもそうした人々でした。戦国時代まで下がっても「人間が作ったものとは思えない」様な日本刀が数多くある様です。小笠高天神城由来の日本刀にも「作者不詳だが美濃国の刀に似ている」ものがある、などとされているところからすると、鍛冶族も土地と年貢に縛られない人々であったことがうかがえます。

「村の鍛冶屋」という唱歌が有るのですが、私はいつからかこの歌の題名を「森の鍛冶屋」だと記憶していました。小学校の教科書の挿絵に森で囲まれた村の絵が載っていたからか、親爺が聞いていた広沢寅造の「次郎長物語」に出てくる「関八州鋳物師の鑑札はこっから出るんでいっ。」という森の石松の啖呵を聞きかじっていたのか、その両方かです。石松の啖呵は誇大広告ぎみですが、遠州森町の金守神社は徳川家康から 「駿遠両国鋳物師惣大工職」の朱印を受けた山田七郎左衛門に縁があるとすれば、まるっきり嘘ではないのです(「 遠州産業文化史」浜松史跡顕彰会/昭和52年5月)。遠州森町は信州街道の一つであり、秋葉詣での宿場だった、といわれますが、火伏の神様として人々を引き付けている秋葉山は、かっては「鍛冶屋の神様」と「火伏の神様」がセットになっていたとも考えることができるのではないでしょうか。

今では秋葉山が火伏の神様の筆頭のように言われますが、これは徳川家康が江戸城を築いてすぐに、秋葉山三尺坊大権現が江戸城上空に出現し御神託があったから、ということのようです。現在の秋葉神社上社社頭からは遠州灘が一望でき、秋葉山のかがり火が遠州灘を行き交う船の航海標識であったことも伺えます。太田川河口の福田湊から秋葉山を経て信州に至る道は「塩の道」とも呼ばれていますが、山麓の遠州森町の鎮守が「航海の神様」である三島神社であるところをみると、古い時代から沖を行く船のための灯明台だったのかも知れません。おそらくそうした立地から現在の秋葉山が火伏の神様を祀るところとされたのでしょう。そして秋葉山以前の火伏の神が京都では「愛宕神社」だと聞くと、どうしても「愛宕」に引っ掛かってしまいます。現在「阿多古」の字を当てている天竜市の阿多古川ですが、三尺坊大権現が江戸城上空に出現し、秋葉山が徳川家の尊崇を受ける以前に、阿多古川筋に火伏の神が祀られていたことはなかっただろうか、という点です。そして火伏の神ということでは真面目に年貢を納める人々の竈の護り、という以上に火を使う職業に携わる人々の存在を思い浮かべてしまうのです。

阿多古川をたどり、熊まで行ってみました。車で行けばすぐなのですが、途中の深く切れ込んだ谷筋の姿を見ると、脚で山道を踏み越えて行くしかなかった時代には、下の人間には容易に近付くことが出来なかった場所だろうことが想像されます。ところが熊に近付くと谷が柔らかくなって「山里」が姿を現わします。平安時代に下流の平野部分で広い範囲にわたり国家事業としての条里制に基づく水田が整備され、年貢が定められて人々の暮らしが年貢の上に作り上げられるよりも前、自給自足によって暮らしを成り立たせるのが普通の暮らしだった時代には、こうした山里の方が豊かな暮らしを実現する近道だったのかも知れません。途中で現在の街道をそれて尾根筋に上がると、「大栗安の棚田」がありますが、山並の向こうに下界を見下ろしつつ、「空中の水田」が拡がる様は「桃源郷」という言葉を実感させてくれます。





水車が回っていた森の中の製材所。



ロンドン近郊で見かけた英国が「世界の工場」だった頃の工場建築。



大栗安に祀られている五輪塔。これは古そうだ。



「遠州の小京都」森町の祭り。

そして火伏の神様を秋葉山に譲って地名だけが残る阿多古川なのですが、もう一つ驚くべきものがあります。阿多古川を熊近くまで遡った山中に水車を動力源に使った製材所があるのです。「桃源郷」から降りてくるとそれほど驚かないかも知れませんが、下から山道を上って行くと「まさかこんな山中に」と驚くようなところに川の水を引いて大形の動力用水車を据えた製材所が残っています。実は飯田市の大平宿も、かっては製材業で栄えた土地だと聞いたことがありますが、輸送手段の発達しない時代には山中で製材というのは合理的な立地なのですね。我が国の近代的木工機械が生まれてから、それほど経っていない頃の製材所の姿は全国的に見ても貴重なものだと、東大の内田祥哉名誉教授も太鼓判を押されていました。下流の浜松市には日本を代表する木工機械の世界的メーカーが並んでいますので、ここに「製材博物館」を作って木工機械の先祖をまつるのも良いかも知れません。「工業」というと今では下流の平野部に大規模な工場を建てて経営されるのが普通ですが、近代以前の鍛冶屋は山中に技を磨いては時々山を降りて里に姿を現わし、「どうやって作ったものか、人間業とは思えない」ものを残して山に戻ってゆく、といったものだったかも知れません。おそらくその時代には時間も現在の我々のように「時計に追われて」といったものではなかったはずです。

近代工業発祥の地とされる英国で、汽車の窓から19世紀の工場の建物を眺めていたら、正面中央の城のような飾りを付けた塔に大きな時計が取り付けられているのが目につきました。なるほど初期の工場経営者は労働者に「太陽の高さで一日の日課を計るのを止めて、機械時計の示す時刻に従って仕事をしなさい。」というところから教えなければならなかったということでしょう。英国でも工場というものが姿を現わす近代以前には、人々は「日の出から日の入りまで」という自然に従った暮らしをしていたのではないでしょうか。

大栗安の棚田には平安時代か、鎌倉時代か、はっきりとは分らないものの、古い時代の五輪塔が守られています。その頃の「山里」には山里なりの自然と人間の共有出来る摂理に従って時間が流れ、「里」と「山」の様々な人とものが出会う高度な文化を持っていたような気がします。

天竜市で本田宗一郎の記念施設を作る、という話があり、「これは面白そうだ」と市内を見て回ったのですが、一番印象的だったのは生家近くに住む御夫人の「本田家は元はもっと上(カミ)の方から下って来た衆だと思う。」という言葉でした。この方は山中に技を磨いては時々山を降りて里に姿を現わし、「どうやって作ったものか、人間業とは思えない」ものを残して山に戻ってゆくという、まだ鍛冶屋の神様を人々が信じていた頃の鍛冶屋の姿を本田さんに見ているようでした。「高天原」と言わずとも、山の中はすなわち「上の方」であり、上の方はすなわち「神に近き」方という考え方があったのではないでしょうか。本田家では宗一郎さんのおばあさんといういう人が近在に聞こえた鍛冶屋の名人だったそうです。本田さんにとっても企業経営がうまく行く、といったことより人から「どうやって作ったものか、人間業とは思えない」と言われることが無上の喜びだったのではないでしょうか。F-1、モトGPを見ると本田さんの作った会社がそうした血を受けるいでいるのがわかります。

家康公浜松入城以来の「栗献上」は現在の天竜市に属する山東村・只木村に割り当てられています。現在の我々からすれば「菓子」に属する栗なので、これも縁起物の「勝栗」と考えられて来ましたが、近年になって三内円山遺跡などからは、米以前の食の姿が明らかにされつつあります。そこでは栗が主要食料として栽培されていた、ということです。そうしてみると徳川家への「栗献上」も、年貢の出せる条里制以来の「里」ではない「山里」の姿としてもう一度見直しても良いのではないかと思います。現在でも遠州森町から宮内庁への「柿献上」がありますが、これも同様に結構古い時代からのものである可能性もあるのではないでしょうか。天龍杉は「火事と喧嘩は江戸の華」という江戸の町を支えたものとして有名ですが、こうしてみると杉以外にも栗・柿などの有用植物の豊かな場所として、天竜川筋は「徳川家の里山」だったとも考えられないでしょうか。