2007.3.23

行ってきました。いやー、奈良時代の日本の寒かったこと、煙かったこと、眠かったこと。

折口信夫センセイが取り上げることで、一躍有名になった水窪町西浦の田楽ですが、広域町村合併とやらでこれが浜松市内になってしまったのです。で、見たことがない、というのもシャクなので見物に出かけました。水窪というと「山家」ではあるが、静岡県北という印象がありますが、衛星画像を見ると高遠から南に延びる遠山谷は、県境を越して佐久間に達しており、ここが伊那谷とは違う、もう一つの文化圏をなしていることが解ります。見物衆は1/3が信心深い、あるいは惰性で来ている近郷近在の善男善女と帰郷した若者、1/3が民族学者の引率する学生、残りが私のようなモノズキという感じ。天竜川筋の山奥にも竹薮が増えており、林業の苦戦している様子が伺われます。これまで伝えられて来た田楽も、林業に元気がないとこれからますます大変そうです。



寒い

西浦の田楽は旧暦1月18日に行われます。これは晩方から演目が始まり、御祓いの演目が終わると月が登り、日の出とともに神々の時間が終わって人間の時間に戻る、という構成上、動かせないものなのですね。例年は厳寒期に当り、しかも夜明かしであります。寒さに弱い私はノコノコ出かけたらたちまち凍死してしまいそうなのですが、今年は幸い暮れ以来の暖冬で、スキー場には雪がない、しかも有り難いことに、ことしは3月7日がその日に当る、これならさして寒くはなかろう、ということで出かけました。

しかしこれが甘かった。水窪駅を後にして一里半の信州街道を辿るうちに気温は下がり、雪が舞いはじめるではないですか。確かにテレビでは「寒波襲来」と報じていたのですが、私の思い出したのは数年前にウナギのボス(浜名湖養鰻漁業協同組合長)に伺った話。その歳も暮れになっても暖かかったので、「今年はいつまでも暖かい。」と申し上げたら、ウナギのボスは「うるう月があったでナ。」とおっしゃいました。一年の寒暖は太陽で決まる、と思っていた私は「旧暦と寒さに関係があるんですか。」と問うと、ウナギのボスは無知なるものを見る哀れみの表情で、「あんた、気温はなんで決まるか知らんのか、あれは海水の温度で決まるだぜ。海水温は旧暦で、新暦は関係ない。」とのことでした。なるほどこれは道理で、新暦が3月であろうと、旧正月18日の田楽は厳寒期なのですね。



煙い



月が登ると「田楽」が始まります。農作業を模した演目です。月を「太陽」に見立てているようにも思えます。「田楽」の一つが終わると、「もどき」が演じられますが、演者が注連縄と幣をまとっているところを見ると、神様を演じている様です。農作業を象徴する田楽舞を面白く演じると、カミサマが面白がって真似をすることで、農作業に神助が授けられる、とも見えます。





農作業を模した演目が「もちつき」で終わると「君の舞」が演じられました。これだけはさっぱり意味が解らなかった。奈良時代の日本人なら何をしているのか解ったのかも知れません。







おそらく午前3時頃でありましたろうか、六観音が登場し、やがて「翁」が演じられます。夜の最も深いところで演じられるのが最も神聖な演目、ということでしょうか。「テレビライトは消して下さい。」という案内がありましたが、相変わらずフラッシュが浴びせられる中で秘曲が演じられます。

眠い





翁と三番叟が終わると二度目の休憩があり、続いての演目は高砂に始まり、しだいに人間臭いものとなってゆきます。日の出に向かって神々の世界から人間の世界へと戻って行く様です。しかし眠い。後で考えると午前4時頃から一時間近くの記憶がありません。地面に座り込んで寝ていたようであります。

演目の中には「屋島」など、平家物語を題材にしたものもあります。県北山間部にも平家の落人伝説が残りますが、かってはこうした演目を目にして涙した人々もいたのかも知れません。

面白かったのは陽が登り演能が終わった後で行われる「しずめ」と呼ばれるものです。神々の世界の「太陽」に見立てられた月が沈み、人間世界の昔語りもやがて終わって辺りが明るくなる頃、「もと来た世界」へ逃げ損なった何匹かの鬼が能庭に引出されます。朝の光に照らされて、鬼たちは「もとの世界へ帰れ」と一喝されて追放されるのです。
残りの写真は
http://ja.trekearth.com/themes.php?thid=6976
にありマス