2008.5.5
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孽子白先勇 著陳正醒 訳 国書刊行会/2006 「国破れ家亡びて」台北の夜の底を彷徨する「男の子達」を描き出したお話。どうやらテレビドラマにもなっているらしい。 とはいえ衆道を扇情的に描くことは拒絶されていて、女の王国である「生」に対して、男の王国である「死」を本書は舞台としている。アフリカのどこかの民族の伝統では、男は出産に立ち会えず、女は埋葬に立ち会えないということも、このあたりだ。 公園の蓮池の廻りにたむろして、「人倫に悖る行い」で食いつないでいる「男の子達」の父親は、それぞれに傷を負って父親と息子との絆が断ち切られている。そのなかの「老兵」つまり「外省籍元軍人」の姿を通して、軍人の生活が実は死の王国であることが様々に描き出される。 将軍の息子が名馬を手に入れる,というエピソードからは、蒋介石軍のソフトウエアが三国志演義の武侠小説のノリであることが解る。 第二次大戦下の米国ではアラスカ防衛、日本本土攻略の為のアラスカンハイウェイが、作業員15,000人と建設機械11,000台を投入して8km/日で作られるのが近代戦の姿となったが、これに比べると比島作戦で白馬に騎乗する本間雅晴が、ナポレオン国民軍のノリであれば150年、三国志演義に至っては1,500年程のズレがある。 そして本書冒頭に記された 在我們的王國裡について、訳者の陳正醒は「これは台湾のことである。」と指摘しておられ、話は父親から一気に国家へと飛んでしまう。 |
国民党が世界最大の外貨を保有していたのは3,000万島民の為ではなく、10億の中国人の為の「大陸反攻後」に備えてのものであったろうが、台湾が世界最大の「ITの島」になったのは、38年の戒厳令下の「死」と隣り合わせの暮らしの中で「お上の言うことを聴いていたら、命がいくつあっても足りやしない。」と政府主導の産業近代化を避け、自前で近代化をしてしまった庶民の知恵だろう。 舞台になっているのは1970年頃の台北。てえことはリービ英雄が台湾から脱出して新宿へ潜り込んだ頃である。本書に出て来るゲイバーの暗がりでエレクトーンを弾く楊三郎は、訳者によれば同姓同名だろうとあるが、「孤戀花」という曲を作っているところからすると、この楊三郎は「港都夜雨」の楊三郎本人ではなかろうかと思う。どなたかご教示ください。 ビルの谷間の月、下町の路地から見る夕陽、初秋の風に揺れる川原の草と、小津安次郎張りの風景は切なく美しい。いや外省籍台湾人にとって夕陽は「唐山夕陽」であり、更に切ないのだろう。タオタイランも出て来る。日清戦争に際して、大日本帝国が少国民に提供した桃太郎は、60年代には大陸反攻の星として、台湾のテレビで縦横の活躍をしたのだそうだ。 作者白先勇の父君が元陸軍参謀総長、という解説も面白かった。軍人にならずモノカキになった作者自身がまあ、「以身救国軍人本分」「忠君愛国」「滅私奉公」の側から「てやんでい、べらぼうめ」の側へ引っ越してしまった人であり、これが本書で父親と息子との姿を書かせている原動力とも考えられる。 後藤新平以下「文明開化」と「神国日本」と「富国強兵」をごちゃ混ぜにして近代化に狂奔する日本人を横目に「てやんでい、べらぼうめ」とやっていたのが台湾の庶民であろうし、それが38年の戒厳令下で、お上を頼らずに路地裏から産業近代化を果たしてしまった、台湾人の底力であろう。「役人がタカリに来たら,小銭でもくれとけ。」という台湾人の国家に対するユルさは心地良い。 本日の浜松は「凧揚げ」であって、中心市街地には旧大日本帝国陸軍のラッパが鳴り響いている。町人の祭りに何も軍隊の真似をせんでもと、好みではなかったのだが、本書を読んで少し見方が変わった。浜松祭りのラッパは、祭りの3日に限って大日本帝国陸軍を町人が乗っ取ってしまう、というラッパだったのだね。そう考えると痛快だ。
昨日は同級生の牧田君が祭りで「初子の披露目」をした。真面目な素町人の牧田君は法被をきちんと着込んで、ジジイにしか見えないながら、真面目に初子の親を勤めていた。
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