明治の文學というのはどうも「文体の速度」が現在の日本語とは違うような気がする。身分制度の厳格な時代なので、身分によってもスピードが違うこともあるだろう。横丁の八っつぁんとお武家様ではスピードが違う、お武家様でもお役向きと、遊びで魚釣りにでも出かけた時では違うのだろう。そのあたりも演じ分ける工夫がなされたのが明治の落語であって、これが現代まで伝わっているのかもしれぬ。

東都と京都でも違ったのだろう。御一新とともに京都から妖怪の類が江戸へ大挙押しかけてきて、あちこちに巣食ったこともあるだろう。

長谷川時雨の父はお玉ケ池千葉道場の使い手で、国会開設の頃の代言人であり、日本橋石町あたりに住んでいたようだ。その辺の日本語が時雨の「地の言葉」になっているのだろうか。

明治十二年生、明治三十年商家に嫁すが、三十四年脱走し文学に打ち込む。文「学」というのも、いかにも明治の発想だ。「雲」は二十九歳の時の文章というが、文体の速度から「女」が滴り落ちる。ここに出てくる「誠ちゃん」みたいな男の子を可愛がり、後には再婚して文学者に仕立てようとしたようだ。

最近でも「男の子」から体内のタンパク質を吸い尽くして、廃人にしてしまいそうなご婦人方が、たまたま国会議員だの芸人だのしておられると新聞種になるが、世間ではよくあることだろう。

* 一昔前の日本語は縦書きの方が読みやすい。ルビもそれ自体が創作の舞台となることもある。しかしどうもリターンがうまくいかないのでもう少し研究が必要だ。ブログの定形が横書きであり、ここへねじ込むのも面倒なので、こちらに置いておくのだ。


長谷川時雨
文藝倶楽部 明治四十一年
明治女流文學集(二)
岩波書店 昭和四十年
より

『これは二かいのとは別口べつくちかもれないが、かつておれ身體からだへむづかゆく、はひついたことのある船蟲ふなむしなんだ。おれは一體其女たいそのをんな顏附かほつきからして、しゃくさはつてならなかつたのさ。だいまゆずみでぼかしたといつていか、一本々々毛書ぽんけがき〳〵にしたやうな、生際はへぎは眉毛まゆげよ。大方東山おほかたひがしやまむかつたへや牡丹餅ぼたもち食過くひすごして、智恩院ちおんいんかねきながら、針箱はりばこにでも寄掛よりかかつて、あさつぱらから居寢いねむりりをしてた、曾祖母ひいばあさんから祖母おばあさんと、くひもたれのおも血統けつとういた、東山式ひがしやましき所謂蛾眉いはゆるがびなんだらうけれど、どんなにはらてたときだつて、びくりともさせるんぢやない。だつてうだ、鴨河かもがはみづ優美過いうびすぎて、自劣じれつたいといつたところがない、口惜くちおしいといつたいろない。友禪いうぜん美麗きれい染上あがつても、むらさき江戸えど澁味しぶみがない、くろつよふかさがない。しか彼女あれ身體からだあぶら煉固ねりかためたら、紅薔薇色ばらいろ塑像そざう出來できるだらう。』

可哀かはいさうに。』

誠二せいじかほを、しゆんさんはのぞきこんだが、鳥渡ちょいはづかしさうないろうかべたゞけで、誠二せいじけようともしなかつた。
 花野はなの――しゆんさんのきらつたをんなであつた――ふるみやこうまれた美人びじんを、鈴蟲すゞむしとでもことか、船蟲ふなむしとは辛過ひどすぎると、誠二せいじおもつた。またよくかんがへると、あきむしたとへるには、實際窈窕じつさいなまめか過るすぎをんなでもあつた。しゆんさんが上野うへの寺院てら一間ひとまかりて、一人ひとり勉強べんきやうしてゐたころ花野はなのはよくたづねてた。或時あるときあれはだれだときいたら、玉藻たまもまへと、しゆんさんがこたへたことがあつた。わすれもせぬ海棠かいだうはなが、孔雀くじやく極彩色ごくさいしき板戸いたどのある、おく入側いりかはにまで散込ちりこんはる何日いつもとほ案内あんないもせずににはからゆくと、ふむにはしいやうなうつくしさに、えんとれてゐたことがあつた。しづかに障子しやうじいたのはつてゐたが、しゆんさんとばかり、振返ふりかへつてようともしなかつた。しばらくすると突然肩とつぜんかたがかゝつて、ほゝほゝ摺合すれあ程顔ほどかおをよせたときしゆんさんでないとがついて、はつとしてをはらふと、其又上そのまたうへしろやはらかい片手かたてかさねて、
うつくしいおやな。』   

つたのが花野はなのであつた。あのころのあのひとみいろしゆんさんはらないか否知つてゐるのであらう、あのときも、うつくしいはれて、はちのやうに心臟はーとを、だいなしにしてしまふなとつた。