工房だより9607

韓国人にとって「イ・パクサ」といえば李承晩元大統領であるが、日本と同様、中国大陸12億人の市場に魅力を感じるAPEC諸国で、台湾の李登輝さんは中華民国総統とは呼ばれず、「台湾から来た李博士」と呼ばれているようだ。

第二次世界大戦後、台湾で日本に代って政権に付いたのは亡命政権ともいえる中華民国政府だった。長期戒厳令の記録保持者である、大半の住民にとってヨソモノともいえる政府は「災難」と言ってもよく、人々は「官災」をなるべく避けながら暮らすという知恵を身に付けた。

官の統制に属さない自由経済は人々に幸せをもたらすが、「偉い人」は大衆にとっては迷惑以外の何者でもない、というふうに台湾の社会は成り立っているようだ。同じ時期、北京では半世紀に渡って「だれが偉大か」「だれが偉いか」という頭の取り合いが12億人の生活を振り回した。台湾と比較して見ても中国の近代化にとって最大の障害はこの「偉い較べ」だったと言ってもよいだろう。

韓国の郵便局で、彼の国の「官員さん」は近代的な職能で成り立っているのではなく「身分」なのだ、と感じたことがあったが、台湾の国有鉄道でもやはり同じことを感じた。鉄道に限らず、公営企業の従業員は近代経営とはかけ離れた身分保証の世界に住んでいるようなのだ。「官員さん」の身分保証のためには税金から赤字補填をするのは当然である。何といっても公益事業ではないか。

「官員さん」は何かしてくれるから「偉い」のではなく、官員さんだから「偉い」のである。立法だの行政だのといったことは、大衆にとっては迷惑そのものであり、「偉い人」にまかせて置けば良い。それよりも「発財」に精を出すのがまともな人間のやることだ。というわけで台湾の人は「小さな政府」が好きなようだ。

台湾海峡を挟んで半世紀に渡って続けられている中華人民共和国と中華民国の面子争いも煎じ詰めれば「だれが偉大か」「だれが偉いか」と言うことに尽きるようで、「北京に行けば副首席の地位で厚遇してくれるだろうから私は行かない。」と李登輝さんは言っている。

ソビエト連邦の崩壊も何となくイデオロギーの崩壊というより官僚が食いつぶしてしまった、という印象があるのだが、何せ中国半万年である。「◯◯主義」だとか「△△主義」などというものは歴史をひもとけばいずれもその昔中国にあったものばかりだ、というのが台湾を訪れて触れて見た中国文化の印象だった。共産主義というのも「だれが偉いか」という頭の取り合いに利用価値のあるお題目、という面があるのを否定できないだろう。

幕末の遣米使節団がワシントンで米国の首脳と雑談の折り、リンカーン大統領が偉大だということに話が及び、「ところでご子息は今、何をされていますか。」と尋ねたところ、同席していた米国側の誰も知らなかったことを、使節の随員は軽蔑に満ちた筆で書き留めている。

先祖・家柄によらず「自ら」に「由る」というのが欧米で誕生した近代的個人と言うシロモノなのだが、アジアの地では今だにそうした欧米型の近代が社会の根幹をなすに至っていない。李登輝さんが癌で一人きりの子息を無くされていることが、「野心が無い」ことの証明になっているのは残念だが、逆の例もすぐ近隣の国に現存している。

科挙は「だれが偉いか」を先祖・家柄によらず、個人の能力にゆだねる優れたシステムではあったが、所詮は身分社会の時代の産物であり、「偉いひと」を社会への貢献度で計るのでなく、試験によってランク付けされた身分によって認定するところまでの働きしかなかった。相変わらず東アジアの広い範囲では台湾の大衆が見るように、「偉い人」は大衆にとっては迷惑以外の何者でもないのだ。

シアトルのある大学の構内で、いかにも教官らしい同年配の紳士が、急ぎ脚で歩行者信号を無視して横断歩道を渡ろうとし、自転車に乗った学生に怒られているところを見たことがあるが、学生も教官という身分ではなく信号無視の歩行者として怒り、怒られたほうも学生に素直に誤っているところを見るとなるほどここは身分の無い国なのだと実感した。

我が国における江戸時代の朱子学の習得法など見ると、なるほど我が国は半万年の中国文明に隣接して、キャッチアップしかできない体質なのだと、現在の先端技術開発も少しも変わっていないことを感じるが、それと同様、「偉い人」は科学技術の進歩にとっては迷惑以外の何者でもないのだ。

「偉い人」にはなりたくない。