テレビでバンコクの船大工の話をやっていたのが結構面白かった。バンコクは高速道路の建設がモータリゼーションに追い付かず、「世界最悪の渋滞都市」なのだそうだが、乗り合船が主流であるチャオプラヤーとその枝流である市内の堀割は道路ほどの混雑はなく、快適な交通の場となっているようだ。出来れば野放しのプライベートボートが増えないことを願うのみである。 大型エンジンを搭載した高速乗りあい船のいきかう様を見て思い出すのは江戸の川筋の光景である。日本橋が天下一の盛り場であったのは日本「橋」であったからで、橋の下は単に物資輸送路というに止まらず、情報幹線でもあり、屋型船を浮かべればたちまちどんちゃん騒ぎの場にもなるのであった。当時の高速ボートは図に見える様な8丁櫓ろという手合いで、大抵は魚河岸へ魚を運ぶ船であったようだ。現代人に較べれば江戸の住人は遥かにゆとりのある暮しをしていたようで、「船で、」というと、移動自体が遊びであったように見える。
日本橋の橋の下を見ても目に着くのは俵である。江戸の町を支えた物流の基本は米であった。隅田川の水は千石船で全国の湊に繋がっていたのだ。消費側の端末が船であったと同様、出荷側も相当の部分を舟運によっていたことが考えられる。浜松藩の江戸廻米は馬込川、源太夫堀を経由して掛塚湊から送出されたというが、古老の話には昭和の始めまでは舟で堀伝いに掛塚から浜名湖まで行くことが出来たそうだ。遠州浜松も結構な水郷であったのだ。 バンコクと違い、浜名湖では既にかなり渋滞が進んでいる。優れた自然景観がどうなるかは、年に数日しか使われず、岸に繋がれたままのプライベートボートがどうなるかにかかっていることは確かだろう。 南船北馬と謂う通り、土地の高低差からある程度自由な畑作と違い、水田耕作では農地は常に水の流れと共にある。重量のある穀物輸送には舟が最適であった訳だ。ひょっとすると我が国で牛、馬の様な家畜の利用がそれ程進まなかったのも、舟という優れた輸送手段があったことが関係しているかもしれない。タイも米どころであり、現代ではいざ知らず、舟運が主要な輸送手段であった時代は米を食べる歴史と共にあるのだろう。 National Geographic誌の93年2月号ではメコン川を特集しており、これにやはり素晴しい写真が乗っている。ヴェトナムではタイ程モータリゼーションもパワーボート化も進んでおらず、河岸の様子は「江戸名所図絵」にでてくるものとそっくりである。
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