古本屋で「左伝」を買ってきた。「春秋左氏傅校本」全三十巻が和綴じの15分冊になった明治15年の刊本である。紙虫少々有るも極めてきれいな状態を保っている。ということは無茶苦茶な読み方をされた本ではないということで、積ン読用好適品。床脇の書院棚などにぴったりの「インテリア小物」である。これがなんと田舎の古本屋の棚の上に6,000円の値札が付いておった。一冊400円である。小僧共が隠し持っているオシリとオッパイの古雑誌より安い。我が国の伝統的な知的エリートが絶滅寸前であることがよく解る。 買ってきたは良いが、チンプンカンプンなので、そのまま本棚に積んである。その代わりに平凡社の東洋文庫から「四書五経」を買ってきて、ちびちびと読み始めた。3,000年前のことを書いた2,500年前の本を微に入り細に渉って一字一句解釈して社会を組み立てようという人々がついこの間まで居たのであるから、これこそ保守主義の極みであろう。そういう意味では参考になる。 建材商社のダグラス君がシアトルから来たので見せたら、「あ、コヤマサン、こういうのこの頃流行っているヨ。ウォールペーパーにかっこいいじゃない。」と、「四十畳半ドライウォールの上貼」みたいなことを言われてしまった。 四書五経成立当時、農業技術の変化も今に比べれば、遥かにのんびりしたものだったであろう。ふと思うのは、そのころの中国の人口はどの位だったのだろうということ。そうした「超保守主義」が息をながらえて来たのも、水稲耕作が唯一の持続可能な農業形態だった。という訳だが、これも不思議な偶然だ。6,000年前の穀倉地帯で、今も農業が行われているのは揚子江流域くらいのものだろう。 現在の東アジアに「米食う人々」というのは一体どの位居るのだろう。中華人民共和国が進めている三峡ダム計画も、米食う人口を増やすに違いない。そしてどうもこの「米食う人々」には共通項があるように思える。20数年前、朴正煕軍事政権下のソウルには「粉食センター」と称する多分は公的機関のバックアップによる、ウドン、パン、饅頭、お好み焼などあらゆる粉食を揃えた大型食堂があり、毎月「粉食の日」というのを定めて国民揃って米のめしを食わないことにし、戦時意識を高めていた。 飽食の国、我が国ではつい数年前、「新米が足らぬ」ということで、パニックがおき、「米が足りる」というのが、単なる食糧事情等ではなく、中国6,000年の米食う伝統に従った国家経営上の最重要事項なのだと思い知らされた。 パンはあくまでも「代用食」であり、外国から輸入される米はどこまで行っても「代用米」なのだ。自動車を売りたい商人達が身代わりに輸入させようというカリフォルニア米も所詮は「おいしい代用米」となるのは目に見えている。すでにアラレ、お煎餅、ピラフ、チャーハンで「おいしい代用米」に馴らされ切っている我々と違い、お隣の韓国には、見た目にはそれと分かねども、中国6,000年の米食う伝統に則って正しく生きる「隠れ両班」が結構多いのではないかと思う。 近代化と同時に「トリ・ケモノ」と化してしまった我々と違い、韓国語では敬語、謙譲語が人の道の第一歩である。敬語、謙譲語で首を傾げてしまう。我々の様な禽獣の類に較ぶれば、100年前の日本人は遥かに韓国語の習得も楽だったと想像する。敬語、謙譲語の次は文語であーる。イ・スニちゃんのラブソングなどを見ると、どうも分からないのは、歌詞がどうも文語しちゃう傾向にあるらしいのだ。恋愛ー真剣ー文語という連鎖反応なのであろう。「トリ・ケモノ」化していない彼の国の若者達はいざ真剣、となると、途端に中国6,000年の米食う伝統に則って正しい男女関係に陥ってしまうのだね。 こうした若者から見れば、信じてもいないキリスト教の儀式に則って結婚式を上げよう、なんてえ我が国の若輩どもは「トリ・ケモノ」以外には見えないであろう。そしてこの中国6,000年の米食う伝統に則った「正しい男女関係」というヤツ、がこれまた当時の「女は家畜の一種」みたいな社会制度を「正統」としているもんだから、結構大変そうで、国際交流でおつきあいする韓国の中年建築士諸氏(中年男を野放しにしてはならんということか、数年前から婦人同伴であります)、に私はつい同情してしまうのでありまする。
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