吉野ヶ里、三内丸山、と言った新聞紙上で目にするトピックス以外にも、近年、私たちの足元の考古学的調査は私たちが子供だったころに比べるとはるかに進んでいて、門外漢の知らない間にずいぶんいろいろなことが解ってきたらしい。

「街道」というと、江戸時代の街道の姿が頭に浮かんでくるが、既に7世紀頃、江戸時代の街道とはまったく姿の違う道路システムが本州のかなり広い範囲にわたって存在していたことが実証されている。静岡市周辺では当時の「東海道」が直線道路だったことが遺跡調査から判明しているそうだ。先日は調べものをしていて栃木県でも同じように「奥大道」が直線道路であったとの記事に出会って驚かされた。

浜松市立博物館の一昨平成7年度特別展「浜松城のイメージ」に、奈良時代以前の浜松周辺の道路の様子を知る手がかりとなるものがあるので、招介しておきたい。全国的な条里制の研究成果、静岡市周辺における条里制による土地区画と東海道の関係の解明、市内貴平町-中里町、小池町-市野町、飯田町-下飯田町における条里制遺構の調査結果から浜松市周辺の条里制土地区画と東海道を推定した仮説であり、これまで捕えにくかった地域全体像を類推する上で興味深いものがある。

これによれば当時の東海道は遠江国府から条里に沿って延びる直線道路であり、現東海道よりかなり南を通っていたと考えられる。この東海道想定線上には大隅屋敷、松下屋敷、頭陀寺、遺場遺跡が並んでいる。 また東海道本坂道は同じく遠江国府から直線に延び、部分的には条里にしたがって直角に折れ曲がった道であったという。「浜松城のイメージ」では明確に比定していないが、遠江国府から想定される直線を延長すると、気賀関付近に達する。

条里制が敷かれた当時の国土開発のデザインは、完璧なシステムに則っていたもののようで、あまり住民生活の匂いといったものが感じられない。そういう意味では「東京計画1960」などといった未来都市のデザインプロポーザルに一脈通ずるものが感じられる。住民生活、現場の地理的・環境的要素が感じられない土地利用は、サンフランシスコの碁盤目状の坂道など、アメリカ合衆国西部にも多く見られる。ベトナム戦争の泥沼のなかに没するまで、「無限の可能性」を疑うことのなかったアメリカ近代都市の理想像には先住民の姿は感じられない。


東京計画1960より

同じように理想的なシステムデザインを誇った我が国の条里制国土開発も、先例墨守・現状肯定の趣きの濃い江戸時代にあってはねじれ、くねったワビ、サビの味わい深いものになる。加えて300年の長きにわたった軍事政権であるので、戦時体制を標準と考えるため、街道には宿場毎に90度の曲がり角が設けられている。

よくもまあこんな街道を長い間がまんして使ってきたな、と考えるのは早計な様である。東海道を必ず通ったのは、完全武装で軍事演習を重ねながら、前線総指令部へ勤務交代に往来する各部隊だけで、参勤交代と称するこの部隊移動はルートを指定されており、沿線には指定業者と称するタカリ連中が軒を並べていたようである。

で、一般庶民はどうだったかというと「裏街道」沿線には、渡世人であれば各地各々の親分衆、抜け参りであれば神社仏閣が適当な距離に並んでいた。アウトドア派は道など通らず、尾根伝いに東海道を往来していたということで、行者道筋に位置する遠州秋葉山が「火避け」を表看板に掲げたのは、江戸京都の火災情報を天竜川筋の造材出荷計画に他所より早く活かす為であったとも考えられる。