河鍋暁斎にも見る道中の様子は「元禄畳奉行日記」に詳しい。尾張藩の営繕課長の日記なのだが、天下の奇書。課長の公務出張も夜毎接待が続くのだが、参勤交代と称して東海道を往来した各藩の部隊もかなりの金ピカであったようだ。

浜松の宿場の記録にも殿様の装束が「朝日に輝くばかりだった。」などとある。東海道荒井ノ渡しなど、敵前渡河訓練のはずなのに、事業費バラマキとそれに群がる御用業者による豪華なお祭り騒ぎと化している。

300年に渡って軍事政権下で天下泰平の暮らしをしてきた日本人は、今世紀を支配した「近代戦」について、相当に無知だったのではないだろうか。日清戦争の緒戦で戦死者が数百名に上ることが知れると、その被害の大きさに国中が騒然となり厭戦気分が拡がったという。それが第二次世界大戦で数百万人の被害を産む近代日本の始まりだった。

浜松あたりでも古い墓地を見るとそのことがよく解る。日清戦争では村から出た戦死者は一人づつ立派な記念碑が建てられている。戦闘中に死んだ兵士でなく、帰国して戦病死した軍夫であってもだ。それが日露戦争では数人づつの記念碑になり、第二次世界大戦に至っては下手をすると名前も残らない。振り返ると日本の20世紀は殺戮の時代なのだが、それも相当「成り行き次第」に進んできたようだ。

朝日に輝く殿様の金ピカ装束は輸入モノの近代兵器と結び付き、変な新兵器万能主義を産んだ。敗戦時の航空総局長、遠藤三郎中将は「制式採用機種が1/10だったら、ここまで酷い負け方はしなかった。」と書き残しているが、今だに「こんな新兵器があれば戦争に勝てた」などと言うヴァーチャル戦記が売れているようで、文久3年将軍上洛時の金ピカは相変わらずだ。

さらに罪が思いのは「戦闘」が「戦争」だと感違いしてロジスティックスという発想がなかったこと。夜毎の官官接待、官民接待に明け暮れていた参勤交代の名残か、現地調達が「行軍」の基本であった。ドロボーされるだけだったアジアの住人は言わずもがな、ニューギニア戦線20万の死者の内、戦闘中の死者が3%というから、残りの97%はこの現地調達主義に殺されたとも言えよう。

そして究めつけは「あ、そういうことは役所でやってくれるんでしょ。」という、日本人にとって不治の病とも言うべき無責任な組織原理。2・26事件には陸軍内部の行政改革運動という側面もあったと思うのだが、ヤマトダマシイと機関銃で官僚組織に勝つことは出来なかった。個人としてはそうでなくとも、官僚組織では出世することが人生唯一の目的、自己実現の源泉となってしまう。大戦末期に至るまで陸軍省では戦場そっち退けの縄張り争いと頭の取り合いに明け暮れていたそうだ。

このような組織には危機管理能力は無い。交戦権の放棄という究極の国防を憲法に掲げながら、現実の安全はどこかからやってくるとしか考えず、「憲法9条」を主要輸出品目には加えようとしない。日中戦争では「ウルサイ奴は現場に放り出せ、」と関東軍へ追い払われた青年将校が見通しの無い戦線拡大を続けた。それを東京のエライサン達はきっとこんな感じで見ていたのだろうなと言うのが、阪神大震災のテレビに見入る首相官邸の中継を見た印象だった。6000人の死者も第二次世界大戦の多くの犠牲者と同様、「シカタガナイ」。

終戦時に厚木基地で抗命した小薗安名大佐にも、鬼畜米英に対してではなく、日本軍の官僚組織と防空戦のエキスパートとの戦い、という姿を見てしまう。

「上官ノ命令ハ天皇ノ命令デアル」のだから昭和天皇にも戦争責任はあるはずなのに、連合軍が「あ、アレは使えるネ。」なんつうと、もう頬かむりをして「オラ、ソンナコト知ランモンネ。」を通さなくては出世できないというのが官僚機構の恐ろしいところで、保身のためには全てが犠牲になる。

幕末薩摩の島津ナントカさんは家臣が何を言っても「そうせい。」と言うので「島津そうせい公」というのがあだ名だったそうだ。御一新の後で誰かが「ご自分で指図をされようと思いませんでしたか。」と聞いたら「そうすれば殺されていました。」

青島さーん、元気ィ?

"RESPONSIBILITY"も"LIABILITY"も"ACCOUNTABILITY"も十把ひとからげに「責任」と訳してしまうのが、われわれ日本人の無責任さをよく表わしている。河鍋暁斎が文久3年将軍上洛時の行列で描いた「オラ、ソンナコト知ランモンネ。」と晴れやかな顔をして将軍に付き従っていた武士達は、一転して非理を質すこと無く十五年戦争で東アジアに大きな損害を与え、再転するとAIDS薬害、長良川河口堰などに見られる無責任人災を引き起こしている。

しかしその責めを官僚のみに負わせようとすることこそがなにより「市民」の不在を証明している。植木等が「スーダラ節」を始めとする一連のサラリーマンソングで見事に歌い上げた通り、日本人の誰もにとって「無責任」が高度経済成長の原動力だったのだから。

6月には香港が中国に返還される。戦後50年を産業近代化のためでなく頭の取り合いに終始した中国大陸では、相変わらず「エライ人」が12億の「言葉を話す家畜」を動かしているところがあるようにも見える。けれども金ピカの装束が借り物だった日本の20世紀と違い、中国には漢字を使って米を食うためのソフトウェアの蓄積があるのだね。民主主義なんて、その昔流行った百家鳴争の焼直しにしか過ぎないのかもしれない。西安の都市開発が数千年前のグランドデザインで進められていることでも解るように、「礼記」に描かれた理想都市の姿に従うなら「まちづくり」などと愚民が騒ぐのはイランコンダ。

韓国・朝鮮では戦後漢字を使うことを止めている。学校で教えないものだからこの20年間で韓国の街角から漢字はほとんど姿を消してしまった。ナイーブなナショナリズムではなく、天下泰平な島国と違い、地続きの彼の地では、無防備に漢字など使っていたら、いずれ中国に飲み込まれてしまうかもしれない、という危機感なのだろう。

のんびりと東海の蓬莱島を決め込んでいると、そう遠くない将来、国の外から引導を渡されるのは確実だ。そうならないためにもそろそろ我々の手で「近代日本」にお引き取りを頂かなくてはならないのではないだろうか。 テレビで土本典昭さんが水俣病の犠牲者の遺影を集めているのが紹介されていた。この人達も「企業責任」という小さな垣根を取り払えば、現在の私たちの暮らしを形作っている高度経済成長の無責任さに殺されたとも言うことが出来る。

静岡県舞阪町では明治以来の町民の戦死者名簿が作成された。人口1万人余の小さな町でも、その数は膨大なものに上るが、戦争による非業の死の多くはこうして社会に記憶されることもなく消えて行くのではないだろうか。遠藤三郎さんは指揮下に戦死した将兵全員の名前を自伝に残しているが、こうした例は少ないのではないかと思う。

私達は義父を「畳の上」で送ることが出来たが、彼の同世代を含む多くの「非業の死」の上に近代日本があるのだ。この「近代日本の亡者の名簿」の最後には「麒麟」と書かれているような気がする。