街中の飲食店は「食べる」というアメニティーだけでなく、情報交換機能をもっており、そうした店の集まっていることが都市機能の重要な部分を成している。 そうした街中の飲食店の主人と話し込んでいて、こんな話題になった。

店の入って居る共同ビルも建築後30年を過ぎ、時々建て替えの話が出る、とのこと。 しかし地権者、区分所有者が集まって顔を見合わせてみてもなかなか良い知恵が出て来ないのだそうだ。

大体、この店のある田町の共同ビルは1602年に東海道が今の場所に作られて以来、400年近くに亘って御城下の一等地であったところだ。30数年前の新築当時、つまり私の子共の頃にも変わらず浜松市を代表するショッピング・ブロックであった。

しかし、現在浜松市では中心市街地全体の地盤沈下が激しい。西遠地方は静岡県でも他に較べて比較的地形が平らである。モータリゼーションによって店舗が周辺へ拡散する度合も他に較べて大きい。 その上商店街の営業形態そのものが30年のあいだにすっかり様変りしてしまっている。 田町の共同ビルでも、呉服店・時計店といった30年前のトップファッションを担い、中心商店街の核となっていた業種が業態の変更を迫られている。 >後継者のある恵まれた地権者よりも、老夫婦が店に出るのを辞めた後は他人に店を任せるしかない、という方の方が多い。

かって同じ様な商いをして、共に将来の繁栄に賭けた近所の仲間はどんどん減って行き、地権者、区分所有者に借家権者が加わって、お互いの関係の複雑さは等比級数的に膨らんで行く。 共同ビルの建て替えについても地権者の中から知恵をまとめて、とはなりにくいのだ。 結局は外部の専門家の知恵を頼って悪く言えば「言いなり」になるしか道は有りそうにない、と顔を見合わせてため息をつくのだそうだ。

事態はマンションでも同じことで、このまま高齢化が進めば「老人向けマンション」どころのさわぎではない、全てのマンションが「老人マンション」と化してしまう。 そして、いざ建て替えとなっても、入居したときには同じ様な住宅取得をした人でも数十年後には全員揃って「建て替えよう」とならないことは目に見えている。 転売・転居出来る人は良いが、後にはそうしたことの出来ない、あるいはしない老人世帯のみが残って建物と共に老化してゆくという構図である。


誰の目にも明らかなこの未来像を回避するために、昭和59年には個人の所有権に多数決を対抗させる「建物の区分所有等に関する法律」が施行された。

建て替えに際しては4/5、規約改正等については3/4の賛成をもって、これまで絶対的な権利とされてきた財産権を多数の決に従わせる、というものである。

これまで長い間、仲間内の決めごとについては「全員一致」を美風とし、紛争に際しては長の判断に従うことを原則としてきた我が国の社会にして、ついに「建物の区分所有等」が「多数決」を求めたのだ。

しかし私はどうしてもこの「多数決」がこの国に根付いて居ないような居心地の悪さを感じてしまう。 米軍占領下で「民主主義」を与えられながら、50年に亘って「お願いする」人と「お願いされる」人とを取り違えた選挙を繰り返しているという、タフな我々日本人である。
自らに由って是非の判断をする能力をもつ人間を一人前、とするのでなく、長の判断を理解する能力で人間を認める、という長い歴史をもつのがこの国だ。
いかに欧米の近代都市の姿を作り上げた仕掛けの一つが「建物の区分所有等」であろうが、それを成り立たせている「多数決」という、あまりにも我が国の人間組織の在り方と掛けはなれたものまでを、飲み込むことが出来るのだろうか。

「多数決」という人間組織の在り方は

「より多くの人の知っていることの方が、より少ない人しか知らないことより価値がある」

という価値観の上に成り立っている。 自らに由って是非の判断をする能力をもつ人間が、社会組織の一員として認められ、決に参加できる、ということが近代社会の前提になっているからだ。

そうした価値判断の裏付けのない多数の一致は、鵜合の衆の如くに見られ、野蛮なものとして排除されてきたのが、啓蒙主義以来の西洋近代の伝統であろう。昨今のインターネットなるものもまた、この伝統から生まれている。


しかし一方には我が国の伝統である「より少ない人しか知らないことの方が、より多くの人の知っていることより価値がある」という価値観も根強く残っている。 法律の下で「多数決」によって個人の財産権に対抗する仕組を作らなければ、成り立ちえない「区分所有の建物」を実現しようとするに際してさえ、である。

東地区の都市デザインは近代的なものとして計画された。 それゆえにそこに建つ建物は多くが「区分所有の建物」であることを求められている。 しかしこれが実現するためには地権者の「より多くの人」が長の判断ではなく、自らに由って「区分所有の建物」に価値を見い出すことのみが道筋となっている。 「区分所有の建物」が価値として認められるには、それが地権者だけでなく、市民の「より多数」の知るところとならなければ、受け入れられ難いだろう。

「より多くの人」が「区分所有の建物」を納得し、価値を見い出して、実現に向けて己の財産権をそこに委ねるためには、今までに市内で実現した区分所有の建物が、区分所有者により多くの価値をもたらしていることを、より多くの人に知らしめるのがなによりの早道ではないだろうか。 「区分所有の建物」を市民のより多くにとって価値のあるものとして行くためには、田町の共同ビルの建て替えも単に地権者にとってだけでなく、広く市民にとって重要な意味合いを持っているといえよう。