97.5.8
北海道旧土人法の改正が決まったようだ。テレビニュースによるとオーストラリアでも同じ様なアボリジニに対する旧土人法の改正が求められている、ということだった。しかしあちらでは先住者の先住権に土地の所有権が含まれるかどうかが主要な議論であるという。 シアトル大酋長のところへ札束の詰まったカバンを提げた白人がやって来て「土地を売ってくれ。」と言ったとき、大酋長は首を傾げたそうだ。「白人は不思議なことを言う。わしらだけの土地でもあるまいに、わしらに金を呉れて土地を「買いたい」という。同じ土地にすむ熊や鮭や木や草にも金を呉れるつもりなのかしらん。」私が想像するところではその夜、大酋長は港の白人商店の店先に土地代金を手にした熊や鮭や木や草が集まって買い物をしようと騒いでいる夢にうなされたかもしれない。 沖縄では米軍基地の継続使用が決まったようだ。民主党の萱野議員は沖縄採決には欠席。北海道新土人法で「土地」の「所有」が明解にならない以上、先住者出身議員としては当然でしょう。楚辺通信所の土地が「地主」の意思とは無関係に国によって右から左へと勝手に動かされてしまうところに此の国の土地所有意識の根底が見えてしまう。 先日「東アジアなんとか」と銘打った県のシンポジウムが開かれ、水稲耕作民族には古来、土地所有意識が希薄だった、という話が取り上げられていた。畑作と違い、水利の完成した後の水稲栽培では、人力による生産性の向上が大きな役割をはたしており、これが家畜の生産性に大きく依拠して発展した牧畜農業と大きく違うという。牧畜では家畜の多寡が富を決定するため、より多くの家畜を養える牧草地が富の基礎となる。そうした国々では古くから土地所有意識がはっきりしたものとして意識されていたという。 そうした有畜農業とは対照的に、水稲耕作では田んぼに「どれだけ手を掛けたか。」が収量の拡大に繋がった。水利さえ確保されれば、後は人力によって同じ面積の牧草地の数百倍に達する収穫を得ることが出来たのだそうだ。そうした水稲耕作文化圏のなかでも「豊葦原瑞穂国」は、畑作・遊牧民族との間の戦乱によって度々ひどい目にあっている揚子江流域、あるいは朝鮮半島の水稲耕作民族と違い、地政学的な閉鎖系を成す地域であった。 関東平野のことは良く知らないが、ここ浜松周辺は天竜川の下流域であり、古来大雨の度に幾度となく河道がその場所を変えたところである。おそらく今のようにハードな治水技術のなかった時代には、一度水田が河床となれば人々はそこを捨てて次ぎの可耕地を求めて移動したのではなかろうか。その度に水争いに付随して地境の争いもあったであろうが、それも牧畜社会における牧草地のように固定した地権というものではなく、次の洪水には再び御破算となってしまうような土地所有であったことが想像される。そして当面の土地に対する主権は「耕したことの証明」であるところの年貢によって保証されていた。誰に対して証明を求め、誰が保証しているかといえば、おそらく「天」或いは「天下」なんてものが日本人の意識なのだろうと思うが、それはまた次回。
そうした日本人の土地意識がひっくり返ったのが明治4年の地券発行であった。ずいぶん乱暴な土地所有の変更をやったものだから今だに我々はその後遺症に苦しんでいるとも言える。 現在の浜松駅前にあって市内でも最も路線価の高いあたりで、当時の混乱がどのようなものだったかというと例えば、 鶴亀山大安寺領は田町、鍛冶町、旭町から海老塚方面に及ぶ広大なもので、明治6年地租改正が始まった時その大半を人々に無償で呉れてしまった。明治22年までは土地の所有をおそれて一反歩につき銭十銭以上、酒一升をおまけにつけねば貰い手がなかった。これを先を見越して八方から貰い集め又は誤魔化したりして富豪になった者も随分あると取り沙汰された。 などと土地の古老が書き残している。地券発行なんて言う「人災」も大洪水と同じ「天災」で、どさくさ紛れの濡手に粟というのは古来、我々日本人の得意とするところなのだ。楚辺通信所の土地を「お上」が召し上げるという今日の事態は、土地所有の近代化の決算として土地国有化をやってのけたヨーロッパの国から見れば、日本の近代的土地所有を見直す良い機会であるはずなのに、どうもどさくさ紛れに事が進行してしまいそうなのが残念だ。 近代以前の芸能である謡曲では「地主」は「ジヌシ」ではなくて「ジシュ」であり、所有権ではなく因縁、つまりは誰がどのようにしてその土地を保全してきたか、という概念であるようだ。
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