「工房だより」9709原稿


昼下がり、駅前で「浜名湖500年」を記念する講演会があるというので出かけた。 歩いて15分ほどである。わざわざ車で行くのも傍迷惑な話でおまけに駐車料を取られる、バスに乗るのも面倒だ、と歩くことにした。

しかしこのところ浜松は毎日30度を超す真夏日が続いている。炎天下を15分も歩くのは暑くてやりきれない。 大体、盆休みの午後1時半から街中で人寄せをする、というのがエコロジカルな話ではない。 という訳で笠を被って出かけることにした。

小僧共の被っている「野球帽」型の帽子は「陽差し避け」ではあっても肩が隠れないので「陽除け」にはならない。 先日、浜松近郊の町角で「麦藁帽」を見かけたので、買ってきたのだが、鍔の広い反面、頭にすっぽりと被さるので中が蒸れる。 昔風の笠は頭と笠の間に風が通るので、結局、夏はこれが一番快適だ。



夏のフィールドワークはこれに限る。
今使っているものは、浜松で「老間笠」と呼んだものの、最後のうちのひとつである。 十年ほど前に当時住んでいた郊外の雑貨屋で、笠を買おうとしたら既に売っていなかった。 そこで仕入先を聞き込み、天竜川の河口に近い旧老間村まで行き、頼んで作って貰ったものである。

竹の骨の上に萱を乗せたもので、骨と萱の間には油紙が挟んである、所謂「笠」である。 「老間笠が欲しい。」と頼むと、「何に使うだね。」と聞かれた。 田んぼへ出るのと、茶原で使うのと、鮎釣用とでは大きさが違うのだそうだ。 今見ると直径が一尺五寸あるが、これがどれに当たるのかは覚えがない。十年経って大分くたびれてきた。

実は先週静岡近郊の岡部町を車で走っていたら、通り沿いの店先に笠が目に止まったので、買って帰った。 これも殆ど作りは同じで焼津の人が作っているそうだ。一つ3,200円であるから、小僧の野球帽より高価である。 しかしプロフェッショナル ギアなのでミヤゲモノとは作り方が違う。手の込んだ作り方を見ると、とても儲かっているようには見えない。

もう20年以上も前に石垣島で買ったものは芭蕉の葉で出来ていて、まだしっかりしている。

先日、建築士にして浜名漁協の正組合員という方に「関所祭りで船頭の笠だって役場でくれたけど、使わねーからやるよ。」と貰ってきたものは輸入品らしかった。 やはり萱で出来ているのだが、量産品らしく、廻りの作りがぞんざいだ。

大韓民国忠清南道鶏龍山のミヤゲモノヤで買った笠は竹網代で出来ている。

釣道具屋で買った安物は杉網代だった。行き付けのアジアンレストランに飾ってあるタイの笠はやはり竹網代だが、目が細かく、漆拭きの立派なものだ。

シンプルな平たい円錐型の裏に座を付けて頭に乗せるこの手の笠は「貧乏笠」とも呼ばれる。 戦後のアメリカ文明の文脈では、竹で出来たアルファベットとこの笠が出て来れば、それでもう「東アジア」ということになるのだ。 なるほど当の東アジアでも貴人はあまりこうした笠は被らないらしい。 しかし熱帯から温帯に掛けての東アジア多雨地帯で、夏のアウトドアライフを楽しむには、これが最も快適な被りものであることも又、確実だ。

北米大陸西北部の原住民も、やはり同じ形の笠を杉皮で作っていたようだ。 寒帯雨林の冬の雨中のアウトドアライフにも適していたということだろう。 しかし同じ西岸海洋性気候のヨーロッパには、雨と陽差しを同時に防ぐこうした被りものは発達しなかった。

地中海では夏の陽差しを防ぐにしても、蒸れる心配がなければ麦藁帽型で十分であろう。 アンブレラの語源はイタリア語の ombra =日陰ということで、パラソルがその源流であるようだが、これもどうやらマルコ・ポーロの頃にでも東方から伝わったのではあるまいか。

大閤秀吉茶会のパラソルは言うまでもなく中国皇帝のマネである。

夏の地中海で暑いのは陽差しであって、日陰に入ると東アジア人を驚かせるほど心地良い。 麦畑と葡萄畑は地獄だが、羊飼いは木陰で昼寝をしている。あいつらのほうが楽そうだ。 人間が汗を流すのでなく、羊が勝手に草を食ってりゃいいんだから。 というのが「落ち穂拾い」と「羊飼い」の対照であり、 東アジアの水田農耕稲作民族が笠を被り、田んぼに這いつくばって反当収量を懸命に上げる間に、彼等はより多くの家畜を養うに足る土地を求めて世界に拡大して行ったのだそうだ。

実態はどうあれ、理想としては

「土地は耕した証明として年貢を出した者に属する。」

みたいなところのある江戸時代までの水田稲作文化は、金録公債と地券発行で20世紀の領土戦争の嵐に乗り出してしまった。 東印度会社と北米大陸横断鉄道を足して二で割ったような「満鉄」までは良かったけれど、 土地は耕さなければお荷物になるだけで、後藤新平と鮎川義介が「北米式の大規模機械化農業しか無いんじゃないの。」と言ってみても、 モトデといえば人間しか居らず、結局は「開拓義勇軍」になってしまった。

こうして日本人の地権に対する感覚は地券発行から満鉄株売出しまでの間に完全に水田稲作文化とは無縁の、狂ったものになってしまったように見える。 (そして実はそれは今も続いているのだ。)

どこにも「新天地」の無くなった21世紀の戦争は領土戦争から水戦争になるとかで、限りなく領土の拡大を求める西欧型有畜農業よりも、 東アジア型水田農業の方が可能性があるようにも見えるのだが、朱子学っぽい匂いのする「棲み分け」理論というのもこれまた性に合いそうにない。

「冠」よりも「笠」の方が私には合っている。などと考えながら雑踏のなかを家へ帰る頃にはもう陽も大分傾いていた。