西遠広域市町村圏協議会の巡回写真展で印象的だったのは、若き日の天皇陛下が引佐細江で櫓船を漕いでいらっしゃるところでした。

東宮殿下在英中の研究テーマは「中世水運史」であったとのことで、これもひょっとすると子共の頃の、浜名湖での思い出が関係しておいでかもしれない、と思います。

皇室は我が国稲作文化のバックボーンのひとつです。 殆どの日本人は数年前の「タイ米騒ぎ」の様な折にでもならなければ、食べたいだけ米を食べられるのを不思議とも思わないのですが、 自ら米作りをされる皇室では、櫓船を漕ぐことも「米作り」の一部に組込まれているのではないかと思います。

現在、我々が「和船」と呼ぶ平底の櫓船は稲作と共に拡がった、という見方を民博の佐々木館長が紹介されています。(日本文化の基層を探る/佐々木高明/NHKブックス)。


これは若き日の平成天皇ではなく、
在りし日の家尊が浜名湖で遊んでいるところ

現在の浜名湖では、櫓漕ぎの和船は、「流し釣」などでは今でも必要なのでしょうが、殆ど実用からは姿を消しています。 しかし日本文化の伝統的な水に親しみ、学ぶ基礎訓練として、櫓船には様々な優れた点があります。

・体力、特に持久力を養うと共に責任感を養う。
・化石燃料を使わず、水、空気、音等の汚染が無い。
・南浜名湖では汐潮に留意しなければ無理に使えない為、「汐どき」を学ぶことができる。
等です。

こうした点に着目すれば、小中学生にとってカッター訓練同様優れた学習手段になるのではないでしょうか。 カッターが奴隷漕ぎによる軍船から発達して、任務分担を細分化し、「労働は苦しみである」という側面を持つのと対照的に、 和船は「船頭自ら労して楽しむ」という点で、水に親しむ際の責任感を育てることにも特徴があります。

我が国の近代化の過程では、産業技術に求められる機能の細分化、分業化は急速に進みましたが、その反面、西欧近代型の社会が持つ、 「市民一人一人から始まる社会的責任」という人間集団の基本ルールは定着せず、 かといってそれまで日本の社会を成り立たせてきた「上に立つ人間の社会的責任」もまたあやふやになっていることが現在の我が国の抱える大きな問題だと思います。

カッター訓練の奴隷漕ぎによる学習は近代的大量生産には適していました。 しかし、近代産業が地球環境全体を危うくするまでに肥大した現在、次世代に求められる資質は、細分化・分業化して物事を解決する能力ではなく、 例えば自分の立っている地点で、向き合う環境を総合的に捕えて、自分の責任でなすべきことをする、といった「船頭」としての資質ではないかとも思います。

湖岸の小中学生に櫓船を漕ぐ体験をしてもらえば、浜名湖生まれの人として、21世紀に求められる、またとない素養になるものだと考えます。 もしこれに木造の伝統的な和船を用意することが可能であれば、浜名湖における伝統的造船技術継承の上からも、重要であり、 管理保管を通して近自然技術を学ぶ機会を提供することにもなると思います。

明治27年の「静岡県水産誌」には、最近まで浜名湖にも丸木船があった、と記されていますが、その詳細については触れていません。 県西部とは対照的に静岡市周辺では登呂遺跡に続き大谷でも丸木舟が出土しており、今後急速に考古学的な研究が進展するものと思われます。

古代における静岡県のイメージの一つに「軽野」が象徴する南方系の漁労文化があり、静岡県地域史研究会の記念論文集「東海道交通史の研究」にも「堅魚貢進」の研究が集録されています。 一方、佐々木高明さんの本にも「弥生時代の日本では静岡県周辺が我が国でも最も人口密度か高かった」と引用されていますが、 その背景となる静岡県の初期の稲作については、登呂の研究ほどには浜名湖周辺では進んでいないのではないでしょうか。

浜名湖周辺の初期の稲作に伴う平底舟の考古学はこれからの課題となりそうです。 このような今後の研究の為にも、浜名湖の和船が生きたまま残ることは重要であり、今、手当をしなければ永久にその機会は失われてしまいます。